
有名なキュリー夫妻、ピエールとマリってどんな人?家庭教師が5分でわかりやすく解説
夫の死後も続けた研究
1906年、ピエールが馬車にひかれて亡くなります。マリは悩んだものの夫の跡を継ぎパリ大学で初の女性教授となりました。翌年にはそれまでの研究をまとめた「放射能概論」を出版します。またラジウム放射能の国際基準単位を定義することにも関わり、1911年にキュリー夫妻の名前からキュリー(Ci)と決められました。
そして同じく1911年、「ラジウムとポロニウムの発見と、ラジウムの性質及ぶその化合物の研究において、化学に特筆すべきたぐいまれな功績をあげたこと」としてノーベル化学賞を受賞しました。2度目のノーベル賞受賞後にマリは体を壊してしまいますが、それでも研究を続けていた時に第一次世界大戦がはじまります。
最後まで研究者であり続けたマリ・キュリー
第一次世界大戦中、マリは必要な機材を集めて各地を回り、負傷した兵士の治療のためにレントゲンを活用しました。体に入った銃弾などを取り除くためです。戦後、マリは後進の育成にも励みます。そしてマリの娘夫婦も人工放射性同位元素を合成し、ノーベル化学賞を受賞しました。
1934年にマリは再生不良性貧血で亡くなります。長年放射能を研究し、当時はまだその危険性に関して知られておらず防護対策せずに実験していたため放射線被ばくをしてましたが、マリは被ばくによる健康被害を認めることはありませんでした。しかしマリの持ち物であるノートはいまだ放射性があり、今後何世紀も放射性があるだろうと言われています。
元素名になった夫婦
1944年にアメリカで発見された元素はキュリー夫妻にちなんでキュリウムと名付けられました。原子番号96番の元素で、人工的に合成されています。銀白色の金属で、原子力電池や惑星探査機に使われている物質です。
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