今回は科学史上最も偉大な研究者夫妻、ピエールとマリのキュリー夫妻を紹介する。

キュリー夫人として伝記を読んだことのある人も多いでしょう。またキュリーという単位や由来した元素があったりと用語として聞いたことがあるかもしれない。キュリー夫人は放射能について研究し、新たな元素を発見したことでノーベル賞を受賞している。素晴らしい研究で受賞したキュリー夫人ですが、すごいのはそれだけではない。キュリー夫人のノーベル賞には3つの快挙がある。

そんなリケジョの先駆者であるキュリー夫人について小学生の頃は科学者の伝記をよく読んでいたリケジョ、たかはしふみかが説明します。

ライター/たかはし ふみか

高校は化学部、大学は工学部化学系院卒のリケジョ。大学時代のバイトは家庭教師と実験アシスタントをしていた。よく図書館でキュリー夫人やニュートン、ファーブルといった研究者の伝記を借りて読んでいた。

キュリー夫人てどんな人?キュリー夫人の生涯

日本でキュリー夫人として知られるマリ・キュリー(マリー、マリアという表記もあります)。本名はマリア・スクウォドフスカ=キュリーといいます。

キュリー夫人は 放射能の研究によってノーベル物理学賞ラジウムとポロニウムの発見そしてラジウムの性質およびその化合物についての研究でノーベル化学賞を受賞しました。そんなキュリー夫人の生涯について解説します。

放射能などについて知りたい人はこちらの記事を参考にしてください。

ラジウムについてはこちらの記事をどうぞ。

リケジョの先駆け、マリ・キュリーの青春

image by PIXTA / 36937051

マリ・キュリーは1867年11月7日生まれで、ポーランドのワルシャワの出身です。父親は大学で数学や物理を教えていた科学者、その父(マリの祖父)も物理や化学を研究する科学者という研究者の家系で、さらに母親は女学校で校長を務めていました。

幼い頃から聡明な少女で、優秀な成績で中等教育を終えます。しかしその時代女性の進学は一般的ではありませんでした。そこで1年ほど田舎でのんびりし、その後は家庭教師をしながら「さまよえる大学(ワルシャワ移動大学)」という非合法の大学で学びます。

その後、農工博物館の実験室で技能を習得したマリ。ところで、マリは以前家庭教師をしていた家の息子と恋仲になっていましたが身分の違いから恋に破れ、フランス行きを決心します。そして当時ではまだ珍しく女性が科学を学べたソルボンヌ大学で物理や数学、化学を学んだマリ。1893年に物理学の学士を取得します。

キュリー夫人として夫婦二人三脚の研究生活

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不明 - Eve Curie: Madame Curie. S. 259 [1], パブリック・ドメイン, リンクによる

細々と研究者として生活をしていたマリは知人の紹介でピエール・キュリーに出会います。その頃ピエールはパリの高等専門大学で教職についていました。ピエールの熱烈な求婚を受けて1895年に結婚。

1897年に娘のイレーヌを出産しますがそれでもマリの研究への情熱は衰えません。ピエールと共にマリはアンリ・ベクレル(フランスの物理学者)が報告したウラン塩が放射する光線(放射線)について研究します。そして1898年に夫婦連名で7月にポロニウム、12月にラジウムと新元素に関する論文を発表しました。どちらも放射性元素です。この研究が評価され、1903年にマリは夫のピエールとアンリ・ベレクルと共に「アンリ・ベクレル教授が発見した放射現象に対する共同研究において、特筆すべきたぐいまれな功績をあげたこと」としてノーベル物理学賞を受賞します。

\次のページで「夫の死後も続けた研究」を解説!/

夫の死後も続けた研究

1906年、ピエールが馬車にひかれて亡くなります。マリは悩んだものの夫の跡を継ぎパリ大学で初の女性教授となりました。翌年にはそれまでの研究をまとめた「放射能概論」を出版します。またラジウム放射能の国際基準単位を定義することにも関わり、1911年にキュリー夫妻の名前からキュリー(Ci)と決められました。

そして同じく1911年、「ラジウムとポロニウムの発見と、ラジウムの性質及ぶその化合物の研究において、化学に特筆すべきたぐいまれな功績をあげたこと」としてノーベル化学賞を受賞しました。2度目のノーベル賞受賞後にマリは体を壊してしまいますが、それでも研究を続けていた時に第一次世界大戦がはじまります。

最後まで研究者であり続けたマリ・キュリー

第一次世界大戦中、マリは必要な機材を集めて各地を回り、負傷した兵士の治療のためにレントゲンを活用しました。体に入った銃弾などを取り除くためです。戦後、マリは後進の育成にも励みます。そしてマリの娘夫婦も人工放射性同位元素を合成し、ノーベル化学賞を受賞しました。

1934年にマリは再生不良性貧血で亡くなります。長年放射能を研究し、当時はまだその危険性に関して知られておらず防護対策せずに実験していたため放射線被ばくをしてましたが、マリは被ばくによる健康被害を認めることはありませんでした。しかしマリの持ち物であるノートはいまだ放射性があり、今後何世紀も放射性があるだろうと言われています。

元素名になった夫婦

1944年にアメリカで発見された元素はキュリー夫妻にちなんでキュリウムと名付けられました。原子番号96番の元素で、人工的に合成されています。銀白色の金属で、原子力電池や惑星探査機に使われている物質です。

キュリー夫人の研究、これがノーベル賞に繋がった

image by PIXTA / 23382114

ノーベル賞受賞に繋がった、キュリー夫人の研究をご紹介します。

\次のページで「夫婦でつかんだノーベル物理学賞」を解説!/

夫婦でつかんだノーベル物理学賞

最初のノーベル受賞は物理学賞で、夫のピエールとアンリ・ベクレルとの共同での受賞でした。「アンリ・ベクレル教授が発見した放射現象に対する共同研究において、特筆すべきたぐいまれな功績をあげたこと」が受賞理由で、ベクレルが発見した放射線について研究し、放射能、放射性元素と名付けたのがマリだったのです。

初の2度目の受賞、ノーベル化学賞

2度目のノーベル賞は「ラジウムとポロニウムの発見と、ラジウムの性質およびその化合物の研究において、化学に特筆すべきたぐいまれな功績をあげたこと」として1911年に化学賞を受賞しました。

ラジウムとポロニウムは1898年に発見に関する論文が発表されています。ピエールが亡くなったのは1906年。ピエールが生きていれば夫婦初の2度目のノーベル賞をすることができたのでした。

キュリー夫人のノーベル賞、3つの快挙

キュリー夫人のノーベル賞には史上初の快挙が3つあります。

史上初!女性で初めてのノーベル賞

史上初!女性で初めてのノーベル賞

image by Study-Z編集部

1901年から授与が始まったノーベル賞。そして1903年に女性で初めてのノーベル賞を受賞したのがマリ・キュリーです。マリ・キュリーを皮切りに様々な女性がノーベル賞を受賞していますが、残念ながらまだ日本人女性の受賞者はいません。

世界で最初にノーベル賞を2度受賞

世界で最初にノーベル賞を2度受賞

image by Study-Z編集部

2度のノーベル賞受賞を果たしたのはキュリー夫人が初めてです。また、ノーベル物理学賞と化学賞のダブル受賞をしているはキュリー夫人しかいません

夫婦、母娘でノーベル賞!一家で受賞した回数はなんと5回

キュリー夫人は1903年にノーベル賞を夫婦で受賞しました。夫婦での受賞はふたりが初めてです。

またふたりの娘であるイレーヌも夫フレデリックと1935年にノーベル化学賞を受賞しています。娘婿もいれると4人で5度もノーベル賞受賞し、イレーヌの子ども達も物理学者、生物学者として活躍するという研究者一家。夫婦で、親子で受賞している家族はいますが一家でこれだけのノーベル賞を受賞しているのはキュリー家だけです。

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偉大な研究者、キュリー夫妻

放射能を研究し、新たな元素を発見したキュリー夫妻。ふたりが生きた時代はまだ女性が学ぶことが難しかった時代でした。それでもマリは科学を学び、偉大な研究者として歴史に名前が刻まれ今も尊敬されています。その功績の影には夫との別れや身体を壊してまでも研究に身を捧げたマリ・キュリーの信念があるのです。

激動の時代を生きたマリ・キュリーの生涯には研究者としてだけでなく、ひとりの女性としていくつもの困難がありました。キュリー夫人の伝記を読んだことがある人もない人もぜひ、手に取ってみてはいかがでしょうか。

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化学物質の状態・構成・変化理科

有名なキュリー夫妻、ピエールとマリってどんな人?家庭教師が5分でわかりやすく解説

今回は科学史上最も偉大な研究者夫妻、ピエールとマリのキュリー夫妻を紹介する。

キュリー夫人として伝記を読んだことのある人も多いでしょう。またキュリーという単位や由来した元素があったりと用語として聞いたことがあるかもしれない。キュリー夫人は放射能について研究し、新たな元素を発見したことでノーベル賞を受賞している。素晴らしい研究で受賞したキュリー夫人ですが、すごいのはそれだけではない。キュリー夫人のノーベル賞には3つの快挙がある。

そんなリケジョの先駆者であるキュリー夫人について小学生の頃は科学者の伝記をよく読んでいたリケジョ、たかはしふみかが説明します。

ライター/たかはし ふみか

高校は化学部、大学は工学部化学系院卒のリケジョ。大学時代のバイトは家庭教師と実験アシスタントをしていた。よく図書館でキュリー夫人やニュートン、ファーブルといった研究者の伝記を借りて読んでいた。

キュリー夫人てどんな人?キュリー夫人の生涯

日本でキュリー夫人として知られるマリ・キュリー(マリー、マリアという表記もあります)。本名はマリア・スクウォドフスカ=キュリーといいます。

キュリー夫人は 放射能の研究によってノーベル物理学賞ラジウムとポロニウムの発見そしてラジウムの性質およびその化合物についての研究でノーベル化学賞を受賞しました。そんなキュリー夫人の生涯について解説します。

放射能などについて知りたい人はこちらの記事を参考にしてください。

リケジョの先駆け、マリ・キュリーの青春

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マリ・キュリーは1867年11月7日生まれで、ポーランドのワルシャワの出身です。父親は大学で数学や物理を教えていた科学者、その父(マリの祖父)も物理や化学を研究する科学者という研究者の家系で、さらに母親は女学校で校長を務めていました。

幼い頃から聡明な少女で、優秀な成績で中等教育を終えます。しかしその時代女性の進学は一般的ではありませんでした。そこで1年ほど田舎でのんびりし、その後は家庭教師をしながら「さまよえる大学(ワルシャワ移動大学)」という非合法の大学で学びます。

その後、農工博物館の実験室で技能を習得したマリ。ところで、マリは以前家庭教師をしていた家の息子と恋仲になっていましたが身分の違いから恋に破れ、フランス行きを決心します。そして当時ではまだ珍しく女性が科学を学べたソルボンヌ大学で物理や数学、化学を学んだマリ。1893年に物理学の学士を取得します。

キュリー夫人として夫婦二人三脚の研究生活

Marie Pierre Irene Curie.jpg
不明 – Eve Curie: Madame Curie. S. 259 [1], パブリック・ドメイン, リンクによる

細々と研究者として生活をしていたマリは知人の紹介でピエール・キュリーに出会います。その頃ピエールはパリの高等専門大学で教職についていました。ピエールの熱烈な求婚を受けて1895年に結婚。

1897年に娘のイレーヌを出産しますがそれでもマリの研究への情熱は衰えません。ピエールと共にマリはアンリ・ベクレル(フランスの物理学者)が報告したウラン塩が放射する光線(放射線)について研究します。そして1898年に夫婦連名で7月にポロニウム、12月にラジウムと新元素に関する論文を発表しました。どちらも放射性元素です。この研究が評価され、1903年にマリは夫のピエールとアンリ・ベレクルと共に「アンリ・ベクレル教授が発見した放射現象に対する共同研究において、特筆すべきたぐいまれな功績をあげたこと」としてノーベル物理学賞を受賞します。

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