今回は16世紀から17世紀にかけてスコットランドを治めた王、ジェームズ6世(ジェイムズ6世)についてです。彼は隣国イングランド女王エリザベス1世の死後に彼女の後継者となってイングランド王となることになったんです。

そんなジェームズ6世について歴女のまぁこと一緒に彼の生い立ちやその治世を詳しく解説していきます。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー歴女。特にヨーロッパの王室に関する書物を愛読中。今回はステュアート(スチュアート)朝の初代国王でもあるジェームズについて解説していく。

1 ステュアート朝の始祖

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ジェームズ6世はもともとスコットランド国王でした。しかし1603年に隣国イングランド女王のエリザベス1世が崩御。これをきっかけにスコットランドとイングランド王を兼任することに。イングランドではジェームズ1世と名乗ることになるジェームズですが、詳しく見ていきましょう。

1-1 ジェームズの誕生

ジェームズは1566年の6月19日にスコットランドのエディンバラ城で生まれました。母は、スコットランド女王のメアリー・ステュアート。そして父はダーンリー卿。ちなみに彼は女系継承となりましたが、父の家系図を辿れば、彼もまたステュアート家の一員でした。ちなみに母メアリー・ステュアートは2回目の結婚となることに。1度目の結婚では、フランスのフランソワ2世としていましたが、彼が若くして亡くなったため故郷スコットランドへ帰りました。

1-2 生後1歳で即位

ジェームズが1歳とならない内に父ダーンリー卿が爆殺されました。更に驚くべきことに、この殺害に関与したとされるボスウェル伯と母メアリーは3回目の結婚式をすることに。このため、国民や貴族らの反発を受け、ボスウェルは殺害されメアリーは廃位されます。こうしてまだ1歳でジェームズはスコットランド王となることに。ちなみに実際の政治はジェームズの遠縁の親戚が担います。ところが摂政は彼が17歳で親政を開始するまでに4人という数に。これは政敵に次々と摂政が暗殺されてしまったため。ジェームズは15歳の時に自身の摂政を処刑することに。そして親政を始めようとした時に今度は幽閉。1年後に脱出し、自身の敵を排除してから彼は晴れて親政を始めます。

1-3 スコットランドでの統治

ジェームズが一番先に行った政治は、宗教問題。当時のスコットランドは長老主義の影響力が強力で、聖職者の任命権はたとえ王であっても権利がなく、長老会議で決定するとされていました。そのため、ジェームズは1584年に暗黒法を制定。これは国王が最高主権者であり、長老会議では国王などに反対する説法を禁止したもの。しかしこれは反発の声が高まったためジェームズは後に譲歩することに。当時のジェームズが治めていたスコットランドでは政治、情勢が不安定だったこと国王の権限が弱かったことが分かりますね。

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1-4 エリザベス女王の崩御

さて、そんなジェームズ6世に転機が訪れました。隣国イングランド女王、エリザベス1世が崩御したという知らせが届くことに。更に子どものいなかった彼女の後継者に彼が選ばれることに。こうしてジェームズは37歳にしてイングランド王も兼ねることになり、スコットランドを離れてイングランドへ家族と共に移りました。

1-5 なぜイングランド王となったのか?

Elizabeth I (Armada Portrait).jpg
かつてはジョージ・ゴアの作とされていた。 - http://www.luminarium.org/renlit/elizarmada.jpg, パブリック・ドメイン, リンクによる

ところでなぜ隣国の王にジェームズは継承することになったのでしょうか。それは母メアリー・ステュアートの血筋が影響したため。彼女の祖母は、マーガレット。彼女はイングランドのテューダー朝の始祖であるヘンリー7世の娘。ちなみに暴君として知られるヘンリー8世の姉でもあります。マーガレットはスコットランドのジェームズ4世のもとへ嫁ぎ、その血脈がジェームズにも流れているため、イングランドの王位継承権を持っていたのです。ちなみにエリザベスのいるイングランドへ亡命した母メアリーでしたが、彼女は幽閉されることに。エリザベスからみれば、自身こそがイングランドの正当な継承者だと思い込んでいるメアリーが自国内にいることは脅威となりました。その後メアリーがエリザベスの暗殺計画に関与したことで処刑することに。

2 イングランド王として即位

こうしてジェームズ6世は、エリザベス1世の死をきっかけにイングランドの王位継承者となることに。当時のスコットランドは人口が80万人ほどで、とても貧しい国。対するイングランドは450万人もいる大国でした。ここではイングランドに渡ったジェームズ6世について見ていきます。

2-1 イングランド王ジェームズ1世

こうしてイングランドへ向かったジェームズらでしたが、即位は延期になり7月になりました。これはイングランドでペストが流行していたため。しかしロンドンで行われた戴冠式は無事に終わり、晴れてジェームズは1世としてイングランド王となることに。これによってスコットランドとイングランドは同君連合となりました。これは同じ君主を頂くも、それぞれに議会は持つという統治スタイル。当のジェームズは、この両国を統一させたかったそうで、自称ブリテン王と名乗っていたそう。更に新しい硬貨ユナイトを発行し、両国に使えるようにしました

ちなみにイングランドの宮廷では、父のダーンリー卿も母メアリーも美貌で知られていたためジェームズもさぞ美男子だろうと期待されていました。ところがパッとしない外見と言動も田舎者じみていたため、ガッカリされたそう。

2-2 イングランドの宗教問題

ジェームズはイングランドの宗教問題についてエリザベスと同様の政策を行うことに。当初彼が即位した際に、国内のカトリック勢、プロテスタント勢は勝手に彼に期待していました。というもの、カトリック勢からみれば、母メアリーはカトリック教徒であり妃もカトリック寄りの人物。一方のプロテスタン勢からみれば、ジェームズ自身がプロテスタントだったため。ちなみにプロテスンタント勢は1枚岩というわけではなく、国教会からカトリック的な要素を除いて宗教改革を望むピューリタンと呼ばれるカルヴァン派のプロテスタントたちからもジェームズは期待されることに。

この動きに対し、ジェームズは1604年に宗教に関する協議の場としてハンプトン・コート会議を開きます。しかしここで「主教なければ国王なし」と言って国教会体制を維持することを表明。これによってジェームズは3つの勢力から嫌われることに。

\次のページで「2-3 ジェームズの政策」を解説!/

2-3 ジェームズの政策

ジェームズはスコットランド王時代の時に著作「自由なる王国の真の法律」王権神授説を主張しました。それをそのままイングランドにも持ち込もうとすることに。ちなみにここでジェームズのいう自由とは、王が議会に左右されないという意味の自由。このため、議会とは衝突することに。議会はコモン・ローを主張し、ジェームズの議会軽視に対抗。ちなみにこのコモン・ロー闘争で奮闘した有名な人物として、法学者のエドワード・クックがいます。結局ジェームズは22年間の治世の内、わずか4回しか議会を開きませんでした。

2-4 妃の浪費

Anne of Denmark mourning the death of her son Henry in 1612.jpg
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ジェームズを悩ませたのが、王妃アンの浪費グセ。彼女はスコットランドにいた際も国家の財政を圧迫させるほど浪費していたそう。前王の時代のイングランドの宮廷費は、エリザベス1世のみしかいなかったためそこまで宮廷費が圧迫されることはありませんでした。ところがジェームズ一家は、妃アンの他に7人もの子どもがいたため、イングランドの財政も圧迫。ちなみに妃は「空っぽ頭」という不名誉なあだ名をつけられることに。この財政問題は次の王、チャールズ1世をも悩ませることに。

2-5 平和王と呼ばれた王

ジェームズ1世には「平和王」というあだ名があります。これは彼の治世ではヨーロッパ大陸で三十年戦争が勃発した時のこと。この戦争でプロテスタント勢力はドイツのプファルツ選帝侯フリードリヒ5世の王妃がジェームズの娘だったため、支援を得られることを期待していました。しかしイングランドは参戦しなかったため、平和王と呼ばれることに。しかし真相は、ジェームズは義理の息子であるフリードリヒ5世を助けようと固執。ところが議会の反対によって、戦費を工面することができなかったため、これが結果的に戦争を回避したという結果に繋がりました。

3 ジェームズ6世(1世)のエピソード

James I of England by Daniel Mytens.jpg
ダニエル・マイテンス - Scanned from the book The National Portrait Gallery History of the Kings and Queens of England by David Williamson, ISBN 1855142287., パブリック・ドメイン, リンクによる

ステュアート朝の初代王のジェームズには、彼自身や彼に関する多くのエピソードが残されています。ここではそれらを紹介していきましょう。

3-1 魔女狩りを主導した国王

ジェームズと言えば、スコットランド国王時代の時から、文人王としても知られた存在でした。彼は聖書の英訳を学者に命じ、欽定訳聖書を出版させ普及させました。自身も数々の本を著し、出版したことでも知られています。

その中に悪魔学という本も。この内容が悪魔が魔女を操ってどんな悪事を行っているのかを次々と挙げ、だから悪魔や魔女には厳罰な裁きが必要というものでした。何よりも恐ろしいのは、これが国王が書いたということ。これまでの魔女に関する取締法では、魔法を使った場合は終身刑だったのが死刑と厳罰化されることに。ジェームズの時代ではイングランド国内で魔女狩りが頻繁に行われました。そのため、民衆からの人気もなかったそう。

\次のページで「3-2 ハノーヴァー朝の祖となった長女エリザベス」を解説!/

3-2 ハノーヴァー朝の祖となった長女エリザベス

ステュアート朝の初代王となったジェームズ1世。ちなみにこのステュアート朝の後に誕生するハノーヴァー朝の祖となった人物はジェームズの長女でした。この長女こそが先に触れた、三十年戦争でハプスブルク家と戦ったフリードリヒ5世の妃、エリザベス・ステュアート。彼女とフリードリヒの間には多くの子どもが生まれましたが、その子孫もプロテスタントだったのは、彼女の娘ゾフィーのみでした。そのため、後年ステュアート朝最後のアン女王が亡くなった時の王位継承者はゾフィーもしくは彼女の息子ゲオルクとなることになることに。ちなみにアン女王が崩御する直前にゾフィーは病死することに。こうしてステュアート家の血を引くゲオルク改め、ジョージ1世がハノーヴァーからイギリスに迎えられることになったのです。

3-3 ガイ・フォークスデイ

Fawkes arrest2.jpg
不明 - https://www.telegraph.co.uk/science/10421645/To-make-an-almighty-explosion-just-add-faith.html. Originally from en.wikipedia; description page is/was here., パブリック・ドメイン, リンクによる

現在のイギリスにはガイ・フォークスデイと呼ばれる祭りがあります。これは、11月に日中に子どもたちが街の中をボロ切れで作った人形を引きずり回した後、広場のかがり火で燃やすというもの。しかしガイ・フォークスは実際にいた人物であり、ある事件がきっかけでこの祭りが行われるように。

1605年、議事堂を爆破しようとする計画があるという密告がありました。これをもとに捜索すると、議事堂の地下に多くの爆薬の入った樽とそれを見張っていた男を発見。その男はそのままジェームズのもとへ連れていかれることに。男は自身の本名も仲間も言わなかったが、議員と国王を爆破するつもりだったと自供。その後過酷な拷問を受け、自身と仲間の名を白状することに。男はガイ・フォークス。そしてカトリック教徒でした。現在行われている祭りは、この爆破未遂を祝うためにしているそう。

ステュアート朝初代王となったジェームズ6世

もともとはスコットランド国王だったジェームズ6世。しかし彼の運命は37歳の時に転機が訪れました。イングランド女王、エリザベスの死によって彼女の正当な後継者となることに。こうしてジェームズは家族と共に貧しい祖国を捨て、イングランドで暮らすことに。

そしてイングランドでは、国内の宗教問題で国教会を維持することを表明したためにジェームズに期待していた各勢力らに嫌われることに。更に王権神授説を信じ、議会を軽視したため家臣らからも疎まれ、魔女狩りを行ったため民衆からも嫌われました。また1605年にはガイ・フォークスによる議事堂の爆破未遂事件が起こることに。

ステュアート朝初代王だったジェームズの国内の政治は多くの敵を作ることになりましたが、本人は58歳で病死することに。この宗教問題や王権と議会と対立、更に王妃の浪費による財政問題が後のチャールズ1世の時代に大きな問題として噴き出る結果となりました。

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スコットランド王「ジェームズ6世」とは?なぜステュアート朝を開くことに?歴女が5分でわかりやすく解説!

今回は16世紀から17世紀にかけてスコットランドを治めた王、ジェームズ6世(ジェイムズ6世)についてです。彼は隣国イングランド女王エリザベス1世の死後に彼女の後継者となってイングランド王となることになったんです。

そんなジェームズ6世について歴女のまぁこと一緒に彼の生い立ちやその治世を詳しく解説していきます。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー歴女。特にヨーロッパの王室に関する書物を愛読中。今回はステュアート(スチュアート)朝の初代国王でもあるジェームズについて解説していく。

1 ステュアート朝の始祖

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ジェームズ6世はもともとスコットランド国王でした。しかし1603年に隣国イングランド女王のエリザベス1世が崩御。これをきっかけにスコットランドとイングランド王を兼任することに。イングランドではジェームズ1世と名乗ることになるジェームズですが、詳しく見ていきましょう。

1-1 ジェームズの誕生

ジェームズは1566年の6月19日にスコットランドのエディンバラ城で生まれました。母は、スコットランド女王のメアリー・ステュアート。そして父はダーンリー卿。ちなみに彼は女系継承となりましたが、父の家系図を辿れば、彼もまたステュアート家の一員でした。ちなみに母メアリー・ステュアートは2回目の結婚となることに。1度目の結婚では、フランスのフランソワ2世としていましたが、彼が若くして亡くなったため故郷スコットランドへ帰りました。

1-2 生後1歳で即位

ジェームズが1歳とならない内に父ダーンリー卿が爆殺されました。更に驚くべきことに、この殺害に関与したとされるボスウェル伯と母メアリーは3回目の結婚式をすることに。このため、国民や貴族らの反発を受け、ボスウェルは殺害されメアリーは廃位されます。こうしてまだ1歳でジェームズはスコットランド王となることに。ちなみに実際の政治はジェームズの遠縁の親戚が担います。ところが摂政は彼が17歳で親政を開始するまでに4人という数に。これは政敵に次々と摂政が暗殺されてしまったため。ジェームズは15歳の時に自身の摂政を処刑することに。そして親政を始めようとした時に今度は幽閉。1年後に脱出し、自身の敵を排除してから彼は晴れて親政を始めます。

1-3 スコットランドでの統治

ジェームズが一番先に行った政治は、宗教問題。当時のスコットランドは長老主義の影響力が強力で、聖職者の任命権はたとえ王であっても権利がなく、長老会議で決定するとされていました。そのため、ジェームズは1584年に暗黒法を制定。これは国王が最高主権者であり、長老会議では国王などに反対する説法を禁止したもの。しかしこれは反発の声が高まったためジェームズは後に譲歩することに。当時のジェームズが治めていたスコットランドでは政治、情勢が不安定だったこと国王の権限が弱かったことが分かりますね。

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