世界史

女帝マリア・テレジアの「外交革命」とは?なぜ行った?歴女がわかりやすく解説

よぉ、桜木建二だ。今日はマリア・テレジアが行った外交革命についてだ。マリア・テレジアと言えば、オーストリア・ハプスブルク家の長女として生まれ、父の死後にオーストリアを継承した人物だ。そんな彼女がこれまで敵対関係だったフランスと外交革命を行ったんだ。

その詳細について歴女のまぁこと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/まぁこ

ヨーロッパに関する歴史が好きなアラサー歴女。特にハプスブルク家、ブルボン家などヨーロッパの王家に関する書籍を愛読中!今回はマリア・テレジアの行った外交革命について解説していく。

1 オーストリア継承戦争

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マリア・テレジアがなぜ外交革命を行ったのか?そのきっかけとなったのは、オーストリア継承戦争でした。オーストリア継承戦争は、オーストリア・ハプスブルク家のカール6世に男子がいなかったため、長女マリア・テレジアに継承させたときに起こった戦争。ここではどのような経緯で継承戦争が起こったのか見ていきましょう。

1-1 オーストリア・ハプスブルク家の継承問題

事の発端は、オーストリアを治めるカール6世に男子の後継者がいなかったことから始まりました。そのためカールは長子相続に関する国事詔書を作り、各国に承認してもらうことに。ところが、カールの死後マリア・テレジアが継承する際にこれに各国が異議を唱えました。当時の彼女はわずか23歳。更に父王から帝王教育を授けられていませんでした。このため各国の君主は彼女のことを侮ることに。

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カール6世が国事詔書を各国に認めてもらうにあたって大きな犠牲を払うことになったんだ。例えばイギリスはカールに対しオーストリア東インド会社の即時閉鎖を要求してきたんだ。

1-2 フリードリヒ大王とは?

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オーストリア継承戦争で最も早く動き、その後マリア・テレジアが外交革命を行うきっかけとなった人物はプロイセンのフリードリヒ2世。彼は一体どんな人物だったのでしょうか。

フリードリヒ2世はオーストリアの隣国の君主であり、啓蒙君主としても知られていますね。父フリードリヒヴィルヘルム1世によって少年時代にかなり過激なしつけを受けることに。フリードリヒが哲学書を愛読しフルートを吹き、音楽を愛したことから、父王の目からは「女の腐ったような軟弱者」とみなされることに。イギリスへ逃亡しようとした際には廃嫡しようとするほどでした。これを止めたのが、マリア・テレジアの父、カール6世。つまり、フリードリヒにとってはオーストリアには恩があるにも関わらずそれを仇で返すという形となることに。

1-3 継承戦争の経過

1740年に始まったオーストリア継承戦争では、プロイセンのフリードリヒ2世がオーストリア領だったシュレジエンを占領したことから始まることに。この戦争ではハプスブルク家の弱体化を狙ったフランス、スペイン、プロイセン、バイエルンなどの勢力がマリア・テレジアに襲い掛かることに。一方のマリア・テレジアにはイギリス、ロシアが援助することに。

戦況はフランス軍に一時プラハを占領されるなどマリア・テレジアにとって苦しいものとなることに。更に1742年にはフランスからの後押しを受けてバイエルン公が神聖ローマ皇帝となることに(カール7世と名乗る)。しかし植民地でフランスとスペインと戦ったイギリスが優位に戦闘を進めたことで次第に持ち直すことに。マリア・テレジアはハンガリーからの援軍を取り付け、盛り返していくことに。こうして終戦を迎えました。

1-4 アーヘンの和約

こうして1748年にアーヘンの和約を結ぶことに。この講和条約ではオーストリア、イギリス、フランス、スペインと結ばれました。この講和条約によって、マリア・テレジアの家督継承が認められる、シュレジエンはプロイセンのものとなる、オーストリアはパルマとピアチェンツァをスペインへ譲るという内容。こうして地下資源の豊富な豊かな土地、シュレジエンはフリードリヒに奪われることになったのでした。ちなみに神聖ローマ皇帝の座は取り戻し、マリア・テレジアの夫、フランツ・シュテファンがフランツ1世として即位することに。

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オーストリア継承戦争では、反ハプスブルク家の立場とイギリスとの対抗心から参戦したフランスだったが、戦争の結果何もフランスにもたらさなかったんだ。戦争しただけ損だったということだな。一方のマリア・テレジアは女性であり帝王教育もされてなかったにも関わらず、一部の領土を失ったが大部分の領土を守り切り神聖ローマ皇帝の地位も他国から取り戻したんだ。とんでもなく有能な女性だったことが分かるな。

2 外交革命を行ったマリア・テレジア

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マルティン・ファン・マイテンス – Buchscan, パブリック・ドメイン, リンクによる

1740年から始まったオーストリア継承戦争では、宿敵フリードリヒ2世からシュレジエンを奪われてしまったマリア・テレジア。彼女は父から継承した領土を取り戻すため、外交革命を起こすことに。それでは詳しく見ていきましょう。

2-1 これまでのオーストリアとフランスの対立

これまでオーストリア、すなわちハプスブルク家とフランスは幾度となく対立してきました。なんと16世紀の頃から対立することに。この時期のイタリア戦争ではハプスブルク家のカール5世とフランスのヴァロワ朝フランソワ1世が刃を交えます。ちなみにこのイタリア戦争ではカール5世がフランソワ1世をパヴィアの戦いで捕えて勝利をおさめることに。そしてこの対立はフランスの王朝がヴァロワからブルボンに代わってからも長らく続きました。

2-2 カウニッツ伯の活躍

マリア・テレジアは外交革命の他に自国内で数々の改革を行うことに。また家柄にとらわれず能力のある者を次々に登用していくことに。そんな人物の1人にカウニッツ伯がいました

先のオーストリア継承戦争でシュレジエンを奪われたマリア・テレジア。領土を取り戻したい彼女とは裏腹に家臣の大半はプロイセンと波風を立てたくないという流れがありました。なんと夫のフランツさえも、フリードリヒ2世と強調していくことが国家のためと言ってしまう始末。そんな中、カウニッツだけは違いました。彼はシュレジエンの喪失をやむを得ずとせず、奪い返すことを主張。これを聞いたマリア・テレジアは感激したそう。こうして彼は宰相として38歳の若さで登用されることに。彼はオーストリア継承戦争後にフランス大使としてフランスへ駐在することに。そしてルイ15世の寵姫、ポンパドゥール夫人に近づきました。

2-3 フランスの無冠の女王

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モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール不明, パブリック・ドメイン, リンクによる

さて、当時のフランスはルイ15世の時代。しかし政治にあまり関心を示さなかった彼の代わりに事実上の宰相を務めていた人物がいました。ポンパドゥール夫人です。彼女は国王の公式寵姫公式寵姫とは、多くの愛妾の中で1人しか選ばれません。更に給料も年金も支払われるという立派な役職。ちなみに彼女は貴族出身ではなく、ブルジョワ出身。身分が違う両者は、仮面舞踏会で出会い、夫人は公式寵姫となることに。驚いたことにこの時ポンパドゥール夫人は夫も子どももいたそう。野心家の女性だったことが伺えますね。そんな政治も牛耳っていたポンパドゥール夫人のもとへ密に接触し、交渉を重ねたカウニッツ伯。これによって歴史的な瞬間を迎えることに。

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ポンパドゥール夫人が夫も子どももいた時に、ルイ15世と仮面舞踏会で出会ったのは驚いたな。余談だが、マリー・アントワネットの恋人として知られるスウェーデン貴族のフェルセンとの出会いも仮面舞踏会だったそうだ。当時のフランスは宮廷での生活が全て儀式化されていて、貴族たちは息抜きを求めて舞踏会に参加し、庶民たちは多少の制限はあったが参加することもできたんだ。

2-4 外交革命

こうしてオーストリアとフランスは手を結び、外交革命が達成することに。マリア・テレジアからすれば、これまでイギリスと組んでましたが島国のイギリスと結ぶよりもフランスと結んだ方が得策でした。更に先のオーストリア継承戦争でイギリスはわずかな援助しかしてくれなかったため、不信感があったことも影響することに。一方のフランスからみると、プロイセンを支援していたけれどもともとプロイセンはプロテスタント国。カトリック国のフランスとは宗派が異なっていました。更にプロイセンは急成長して台頭してきたため、フランスは警戒することに。こうして共通の敵プロイセンを倒すため、この革命が実現することに。

2-5 外交革命の一環だったマリー・アントワネットの結婚

長らく敵対関係だった両国の関係に関して和解するために、マリー・アントワネットとルイ16世の結婚が決まることに。この決定が決まった時、アントワネットはわずか1歳でした。そして14歳となったアントワネットは国境のライン川の中洲で彼女がフランスへ引き渡される儀式が行われることに。ところがこの儀式では不吉な出来事が。儀式の場に掛けられたゴブリン織の布には、メディアを題材とした絵が描かれていました。このメディアとは、異国の王女が夫の裏切りに怒って自分の子どもたちを殺害するというギリシャ神話。更にアントワネットとルイの結婚契約書にサインする際に、彼女はサインし終わった際にインクを契約書に落としてしまうことに。後の彼女たちの運命を知る私たちからみれば、とても不吉な出来事だということが分かりますね。

3 追い詰められた大王

プロイセンのフリードリヒ2世にオーストリアとフランス、更にはロシアが同盟を結んだという情報が入ると、彼は真っ青になったそう。こうして西からはフランス、南はオーストリア、東にはロシアから攻められるようになったプロイセン。こうして追い詰められたフリードリヒは再び戦争を起こすことに。

3-1 7年戦争へ

マリア・テレジアの外交革命によって追い詰められることになったフリードリヒ。こうして外交で孤立する状態となることに。追い詰められたフリードリヒは1756年に7年戦争を引き起こしました。この戦争では、オーストリアとフランスが手を組み、更にスペイン、ロシア、スウェーデンが同調することに。一方フランスと対立していたイギリスはプロイセン側につくことに。

当初は次々と戦勝を重ねたプロイセンでしたが、イギリスは兵を割く余裕がなかった(金銭援助のみ)ため孤立して戦うことに。そして1759年にフランスが本格的に介入したことで戦況は苦しくなることに。しかし戦争の最中にロシアのエリザヴェータ女帝が死去。そして後継者のピョートル3世が兵を撤退させたことから、厭戦気分が高まり終戦を迎えました。1763年にフベルトゥスブルク条約が結ばれました。この条約によってシュレジエンは永久にプロイセン領となることに。

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7年戦争では、あと1歩のところでフリードリヒを追い詰めることができず、フベルトゥスブルク条約によって永久にシュレジエンを奪われることになったマリア・テレジア。さぞ残念だっただろうな。ちなみにマリア・テレジアは戦争以外でも領土を取り戻そうと、ハプスブルク家お得意の婚姻政策を行ったんだ。それじゃあ詳しい説明は次でしていくぞ。

3-2 ハプスブルク家の婚姻政策

ハプスブルク家では婚姻政策によって代々にわたって領土を拡大してきました。特にハプスブルク家の皇女の結婚の場合は、領土が拡大するものや外交で重要なものなど何かしら利益の伴うような結婚が大半。ところがマリア・テレジアの場合は異例ともいえる、恋愛結婚。彼女自身は5歳の時からフランツ・シュテファンのことが好きだったそう。フランツ・シュテファンはロートリンゲン家という旧家の出身でしたが、他国からの侵略の危険性も。また皇女が嫁ぐにはあまりにも格の違いがあったため、嫁ぎ先の候補にも入らないような状況でした。

3-3 マリア・テレジアはなぜ恋愛結婚だったのか?

しかしなぜマリア・テレジアはフランツ・シュテファンと恋愛結婚することになったのでしょうか?

それはカール6世の妃、エリーザベト・クリスティーネが病弱だったため世継ぎを見込めないようになり、マリア・テレジアの相続が確定したため。これによってマリア・テレジアの結婚相手が有力な家柄出身の者と結婚すれば、ヨーロッパの勢力のバランスが崩れることを不安視した側近らがカールに対しフランツを婿養子するように提言。こうしてハプスブルク家としては珍しくマリア・テレジアの恋愛結婚が叶うことに。

3-4 婚姻政策で領土を取り戻そうとするも…

さて、自身は恋愛結婚をしたマリア・テレジアでしたが、娘たちは政略の駒にしたのです。先のオーストリア継承戦争では、シュレジエンの他に北イタリアに位置するパルマをスペイン・ブルボン家へ奪われます。なんとしても領土を取り返したい女帝は婚姻政策で領土を取り戻そうとすることに。

この婚姻政策で犠牲となったのは、4女のマリア・アマーリエ。彼女はパルマ奪還のためにパルマ公へ嫁ぐことが決まることに。しかし結婚相手のパルマ公フェルディナンドは精神障害とアルコール依存症を患っていました。マリア・テレジアはパルマ公がそのような状態だったのを知りながら、アマーリエに嫁ぐように強制。こうしてパルマ公の元へ嫁いだアマーリエでしたが、夫婦関係は最悪。また廷臣との軋轢も生じ、度々母から手紙で諫められることに。とうとうマリア・テレジアは親子の縁を切り、更に他の兄弟たちとの交流も禁止することに。

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マリア・テレジアは一番可愛がっていたマリア・クリスティーネに対しては恋愛結婚を許したそうだ。一方アマーリエにも恋人がいたそうだが、領土を取り戻すことを重要視した母によって引き裂かれることに。アマーリエはパルマ公が亡くなると、パルマから追放され移住先のプラハで息を引き取ったそうだ。マリア・テレジアは同じ娘に対して態度が違っていたことが分かるな。

外交革命を行ってシュレジエンを取り戻したかったマリア・テレジア

これまでフランスとずっと敵対関係だったオーストリア(ハプスブルク家)。しかしプロイセンのフリードリヒ2世によってシュレジエンを奪われたことから、これを取り戻すため外交革命を行うことに。

外交革命ではオーストリアのカウニッツ伯がフランスの政治を牛耳っていたポンパドゥール夫人に近づき、実現することに。更に両国の関係をよくするために、マリア・テレジアの末娘マリー・アントワネットとルイ16世の結婚が決まることに。しかし7年戦争では後一歩というところで、ロシアのエリザヴェータ女帝が死去。その後の後継者のピョートル3世が軍を撤退させたため、ついにシュレジエンはマリア・テレジアのもとに返ってくることはありませんでした。

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