
その詳細について歴女のまぁこと一緒に解説していきます。
- 1 オーストリア継承戦争
- 1-1 オーストリア・ハプスブルク家の継承問題
- 1-2 フリードリヒ大王とは?
- 1-3 継承戦争の経過
- 1-4 アーヘンの和約
- 2 外交革命を行ったマリア・テレジア
- 2-1 これまでのオーストリアとフランスの対立
- 2-2 カウニッツ伯の活躍
- 2-3 フランスの無冠の女王
- 2-4 外交革命
- 2-5 外交革命の一環だったマリー・アントワネットの結婚
- 3 追い詰められた大王
- 3-1 7年戦争へ
- 3-2 ハプスブルク家の婚姻政策
- 3-3 マリア・テレジアはなぜ恋愛結婚だったのか?
- 3-4 婚姻政策で領土を取り戻そうとするも…
- 外交革命を行ってシュレジエンを取り戻したかったマリア・テレジア
この記事の目次

ライター/まぁこ
ヨーロッパに関する歴史が好きなアラサー歴女。特にハプスブルク家、ブルボン家などヨーロッパの王家に関する書籍を愛読中!今回はマリア・テレジアの行った外交革命について解説していく。
1 オーストリア継承戦争

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マリア・テレジアがなぜ外交革命を行ったのか?そのきっかけとなったのは、オーストリア継承戦争でした。オーストリア継承戦争は、オーストリア・ハプスブルク家のカール6世に男子がいなかったため、長女マリア・テレジアに継承させたときに起こった戦争。ここではどのような経緯で継承戦争が起こったのか見ていきましょう。
1-1 オーストリア・ハプスブルク家の継承問題
事の発端は、オーストリアを治めるカール6世に男子の後継者がいなかったことから始まりました。そのためカールは長子相続に関する国事詔書を作り、各国に承認してもらうことに。ところが、カールの死後マリア・テレジアが継承する際にこれに各国が異議を唱えました。当時の彼女はわずか23歳。更に父王から帝王教育を授けられていませんでした。このため各国の君主は彼女のことを侮ることに。
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1-2 フリードリヒ大王とは?
アントン・グラフ – Originally uploaded to de.wikipedia (All user names refer to de.wikipedia): 18:53, 24. Nov 2005 . . Caro1409 (Diskussion) . . 286 × 350 (17967 Byte) 18:51, 24. Nov 2005 . . Caro1409 (Diskussion) . . 286 × 350 (17967 Byte), パブリック・ドメイン, リンクによる
オーストリア継承戦争で最も早く動き、その後マリア・テレジアが外交革命を行うきっかけとなった人物はプロイセンのフリードリヒ2世。彼は一体どんな人物だったのでしょうか。
フリードリヒ2世はオーストリアの隣国の君主であり、啓蒙君主としても知られていますね。父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世によって少年時代にかなり過激なしつけを受けることに。フリードリヒが哲学書を愛読しフルートを吹き、音楽を愛したことから、父王の目からは「女の腐ったような軟弱者」とみなされることに。イギリスへ逃亡しようとした際には廃嫡しようとするほどでした。これを止めたのが、マリア・テレジアの父、カール6世。つまり、フリードリヒにとってはオーストリアには恩があるにも関わらずそれを仇で返すという形となることに。
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1-3 継承戦争の経過
1740年に始まったオーストリア継承戦争では、プロイセンのフリードリヒ2世がオーストリア領だったシュレジエンを占領したことから始まることに。この戦争ではハプスブルク家の弱体化を狙ったフランス、スペイン、プロイセン、バイエルンなどの勢力がマリア・テレジアに襲い掛かることに。一方のマリア・テレジアにはイギリス、ロシアが援助することに。
戦況はフランス軍に一時プラハを占領されるなどマリア・テレジアにとって苦しいものとなることに。更に1742年にはフランスからの後押しを受けてバイエルン公が神聖ローマ皇帝となることに(カール7世と名乗る)。しかし植民地でフランスとスペインと戦ったイギリスが優位に戦闘を進めたことで次第に持ち直すことに。マリア・テレジアはハンガリーからの援軍を取り付け、盛り返していくことに。こうして終戦を迎えました。
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