最も、現在の学習制度は戦後の学制改革によって施行されたものであるため、寺子屋の仕組みはそれと全く異なるものです。そこで、今回は寺子屋について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。
ライター/リュカ
元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から寺子屋をわかりやすくまとめた。
文治主義の広まりによる寺子屋の普及
寺子屋とは、農民に読み書きを教えることなどを行う学校のような機関で、寺院で行われていました。誕生したのは江戸時代の初期とされていますが、当時は江戸幕府が武断政治を展開しており、「武力で国を治める」の考えであったことから、教育の場はそれほど盛り上がりを見せなかったそうです。
しかし、時代が進行して江戸時代の中期になると武断政治による問題が多発、そこで幕府は考えを改めて文治政治へと方針の転換をはかります。文治政治とは文字どおり「学問・教育によって国を治める」の考えとなっていて、文治主義の広まりによって寺子屋も急速に普及していったのです。
最も、「寺子屋」の名称は統一されておらず、この呼び名がなされていたのは上方(京都や大阪を始めとする畿内)などに限られます。ここでは「寺子屋」と統一して解説していきますが、例えば江戸の場合は筆書所と呼ばれていたようで、地域によって名称が別々になっているのも現在の小中高と異なる点でしょう。
義務教育ではなく任意
現在、小学生や中学生が学校に通うのは義務教育によるためですが、寺子屋に義務教育の制度はなく、言わば任意となっています。そのため生徒の年齢には広がりがあったようで、子供はもちろん、大人が入ることもありました。もしかすると、夫婦や親子で教育を受けるケースもあったかもしれませんね。
また、学校に通うとなると気になるのがお金の問題であり、特に生活に貧しい農民が月謝を支払うのは難しいように思えます。しかし、その点は大きな心配がなかったようで、事情によっては月謝を譲歩する、お金の代わりに物で支払うなどが認められていました。
次に寺子屋での勉強時間ですが、これも統一されたものではありません。ただし大体の時間は似たようなものになっていて、多かったのは午前8時頃から午後2時頃までのパターンでした。寺子屋に通う農民の本業は農業ですが、この勉強時間なら農業と勉強を併用することも可能だったでしょう。
身分に合わせた暮らしに役立つ最低限の授業
寺子屋で勉強するとは言え、生徒の職業は様々です。ですから、商人に対して農民の勉強を教えても意味がないでしょう。そのため、寺子屋では身分に合わせた授業を行っていましたが、ただその内容は簡単なものとなっていて、日常生活において最低限となるものばかりでした。
例を挙げるなら地理・歴史・そろばん・裁縫・武道・礼儀作法・農業の方法などの実施で、およそ4年か5年で卒業となったそうです。いずれの項目も確かに暮らしに役立つものですが、言い換えればそれ以上の価値はなく、これは寺子屋が庶民への教育機関だったことが理由でしょう。
最も、読み書きの勉強を侮ってはならず、当時は世界の中でも読み書きを勉強している国は稀でした。読み書きができる国民は日本で7割以上になっており、同じ時期で比較するとイギリスでは3割未満、フランスでは1割未満の数値であり、教育水準の高さは黒船で来航したペリーも驚いたほどです。
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寺子屋の教育者
ピーク時には全国で20000校存在したとされる寺子屋、その教育は誰が行っていたのでしょうか。まず、寺子屋自体が寺院を場としていたため、その寺で働く僧侶が本業のかたわらで授業を行っていました。寺院には必ず僧侶が存在しますから、寺子屋の教育スタッフが不足することはなかったでしょう。
また、職を失った浪人が寺子屋の教師として働く場合もありました。江戸などの大きな地域では藩に改易処分が下されることがあったため、その場合は武士が職を失って商人になるケースだって考えられますし、寺子屋の教師というのもそんな場合の選択肢の一つだったのです。
有名人物の例を挙げると、武将の長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)がこれに該当します。長宗我部盛親は関ヶ原の戦いで西軍について敗北、改易処分が下されたことで領国が没収されました。こうして浪人となった長宗我部盛親は、大坂の陣で再起を図るまで京都の寺子屋の師匠として活躍していたそうです。
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藩校は藩士を教育する施設
江戸時代の教育施設は寺子屋だけではありません。藩校もまたその一つであり、藩校とは各藩が藩に仕える武士……すなわち藩士を教育するための施設です。分かりやすく区別すれば、寺子屋が庶民の教育機関であることに対して藩校は藩士の教育機関になります。
武士を教育する点から考えて当然武芸を教えていることは想像できますが、それだけでなく漢学を中心とした儒学も教えていました。また、江戸時代が進む中で外国の文化が取り入れられるようになると、藩士もそれに合わせるように蘭学なども教えるようになったそうです。
そもそも、武士には教養も求められていましたから、藩主は藩を統治するための教養を身につける必要があり、そのため藩主も当初は学ぶ立場にありました。それが次第に側近・家臣と対象が広がっていき、ついには武士の誰もに教養が必要であると判断、その末に誕生したのが藩校というわけです。
有名な藩校の数々
江戸時代の主役は武士ですから、その武士が教育を受ける施設である藩校は寺子屋以上に名が知れていました。ですから、中には有名な藩校もいくつかあります。例えば会津藩の藩校である日新館は、会津戦争の悲劇として語られる白虎隊もそこで学んでいたそうです。
そして、岡山藩の藩校である閑谷学校は、全国に存在する藩校の中でも最初に作られた藩校として知られています。さらに紀州藩の藩校である学習館は、国学者として歴史に名を残した本居宣長の出身校。長州藩の藩校である明倫館は、桂小五郎や吉田松陰や高杉晋作の出身校でした。
また、薩摩藩の藩校である造士館も多くの有名な藩士の出身校となっていて、西郷隆盛や大久保利通など明治維新で名を残した人物の名前が挙がります。他にも有名な藩校を挙げると、水戸藩の藩校である弘道館では幕末に広まる尊王攘夷運動の中心となる考え方を教えていました。
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私塾は現在の大学に相当する
寺子屋や藩校のように教育を受ける施設をもう一つ紹介します。それは私塾と呼ばれる機関で、私塾は寺子屋よりも藩校と区別しづらいと感じる人が多いですね。そこで私塾についても解説しておくと、まず私塾は「私」の文字から連想できるとおり個人が設立した教育機関です。
また、私塾を現在で例えるなら大学の位置付けで、既に一般的な知識と教養を学んで身につけた人が、さらなる高みを目指すために作られました。特に有名な私塾としては松下村塾が真っ先に挙がり、創設したのは長州藩の藩士・吉田松陰の叔父にあたる人物となる玉木文之進です。
やがて吉田松陰が受け継ぐ形となりますが、松下村塾の特徴は身分関係なく入塾できたことで、また講義よりも塾生同士による会話や討論を重視していたのも独特の方針でしょう。「行動第一」を説いた松下村塾のその教えは、塾生達に倒幕を行動に移す決意を与えたとも考えられています。
有名な私塾で知られた松下村塾
松下村塾には大勢の生徒が入塾しましたが、その中でも特別とされた四天王と呼ばれる4人がいました。1人目が吉田松陰の自慢の弟子と称された久坂玄瑞、彼は入塾してから秀才と言われており、その優秀さには吉田松陰も驚くほどで、頭の良さを活かして医者になっています。
2人目が高杉晋作、留学経験を持つ彼は吉田松陰の思想に共感して入塾しました。そこで出会った久坂玄瑞とは生涯のライバルとなり、高杉晋作は幕府を倒幕へと追い詰めた人物として歴史に名を残します。久坂玄瑞も高杉晋作も四天王に数えられていますが、この2人は松下村塾の双璧とも呼ばれたそうです。
3人目が吉田稔麿、彼は何事に対しても真摯に取り組む姿勢が素晴らしかったそうで、吉田松陰もその点を高く評価しました。久坂玄瑞・高杉晋作・吉田稔麿は松下門下の三秀とも呼ばれています。4人目が入江九一で、彼もまた優秀だったために四天王に数えられました。
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