今回はチャールズ2世を取り上げるぞ。イングランドで王政復古した王様だっけ、どんな人だったかいろいろと詳しく知りたいよな。

その辺のところをヨーロッパ史も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、ヨーロッパの歴史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、チャールズ2世について5分でわかるようにまとめた。

1-1、チャールズ2世はロンドンの生まれ

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チャールズ2世は、1630年、父チャールズ1世とフランス王アンリ4世の娘ヘンリエッタ・マリア王妃の次男としてセントジェームス宮殿で誕生。

兄は死産、他のきょうだいは弟にジェームズ2世、妹はオランダ総督オラニエ公ウィレム2世妃メアリー・ヘンリエッタと、フランスのルイ14世の弟でオルレアン公フィリップ1世妃ヘンリエッタ・アン(アンリエット・ダングルテール)。フランス王ルイ14世は母方の従弟で、後のイングランド国王兼オランダ総督のウィリアム3世は甥。

1-2、チャールズ2世の亡命生活

チャールズ2世は、1646年、16歳の頃、ピューリタン革命の危険が高まったため、母やきょうだいと母の実家のフランスに亡命、1648年に義弟のウィレム2世を頼ってオランダのハーグへ。翌1649年1月30日、イングランドを離れなかった父チャールズ1世は処刑され、イングランドは護国卿オリバー・クロムウェルらが指導する共和国に。

同年、イングランド共和国と接近したオランダ連邦議会の圧力でフランスへ。チャールズ2世とジェームズの兄弟は、フランスのテュレンヌ将軍のもとで軍人となり、1656年、チャールズ2世が26歳のとき、弟と2人で生活のためスペイン軍指揮官のコンデ公ルイ2世について各地を転戦、兄弟は復位の可能性を求めて列強の国々を巡ったが、ヨーロッパ諸国はイングランド共和国と友好関係を築きたい傾向に。

1-3、チャールズ2世、スコットランドで戴冠、亡命宮廷で転々と

スコットランドはイングランドの革命には反対の立場をとり、1649年2月、チャールズ2世をスコットランド王と宣言したので、チャールズ2世は6月にスコットランドに上陸して、1651年1月にはスクーンで正式に戴冠式を挙行。

しかし、クロムウェル軍がスコットランドへ侵攻し、ウスターの戦いで敗れて再び大陸に亡命、ドイツのケルン、スペイン領ネーデルラントのブリュージュ、ブリュッセルなどに移動。

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2-1、チャールズ2世、王政復古でイングランドへ帰国

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イングランドでは護国卿のオリバー・クロムウェルが政権掌握後、厳格な軍事独裁を行ったため、多くの市民から反発を受けていたが、1658年にクロムウェルが病死後、息子の後継者リチャードが混乱を収拾できずに1659年に辞任。そして、スコットランド駐留軍の司令官ジョージ・マンクがスコットランドから進軍し、1660年3月に長期議会を解散、チャールズ2世ら王党派に復帰を要請。

チャールズ2世はブリュッセルからオランダのブレダに移って、4月4日にブレダ宣言を発して復位を提案、ブレダ宣言が王党派が多数派の仮議会に受諾されて、チャールズは5月にロンドンに入城、イングランド王チャールズ2世として即位することに。

翌1661年4月、ウェストミンスター寺院でチャールズ2世は正式に戴冠式を挙行、同日、戴冠式に先立ち、ウェストミンスター寺院に埋葬されていたクロムウェルの遺体は王殺しの罪で絞首刑となり、その首は晒首にされたそう。

ブレダ宣言とは
チャールズ2世の父チャールズ1世と祖父のジェームズ1世は王権神授説をとって議会と対立し、絶対王政を敷いてイングランド国教会の立場からピューリタンに対する迫害を行ったため、チャールズ2世は、新しい土地所有者の所有権を保障、革命関係者を大赦すること、信仰の自由を認めること、軍隊給与の支払いを保証するなどで、絶対王政へは復帰しないと議会と約束したもので、議会はこの条件を受け入れてチャールズ2世のイングランド国王即位を承認。

2-2、チャールズ2世、ポルトガル王女と結婚

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ピーター・レリー - The Royal Collection, パブリック・ドメイン, リンクによる

チャールズ2世は1662年、ポルトガルのブラガンサ王朝の初代国王ジョアン4世の王女カタリナ(キャサリン・オブ・ブラガンザ)と結婚。キャサリン王妃はインドのボンベイ(ムンバイ)や北アフリカのタンジールを持参金としたが、そのころはその価値がわかる人がイングランドにいなかったそう。

キャサリンはカトリック教徒だったので、戴冠式を含むイングランド国教会の儀式に参列せず国民には人気がなかったが、その頃は貴重だった紅茶と砂糖を大量に持ち込んで、イングランドにお茶の習慣をもたらしたことで有名。チャールズ2世は愛人も庶子も多くいたが、子供の生まれないカトリック教徒のキャサリン王妃を徹底して擁護、尊重し愛していたということ。

2-3、チャールズ2世の治世

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1661年5月8日に議会が召集、騎士議会と呼ばれたように、従来の上院(貴族院)と下院(庶民院)で選出された507議員はほとんど旧国王派だったので、カトリックと非イングランド国教徒のプロテスタントは虐げられるように。

また、チャールズ2世は、1665年からは第二次イングランド・オランダ戦争を起こしたが、1665年のペストの流行や1666年のロンドン大火災の天災は、議会と協力して乗り切ったということ。チャールズ2世は父チャールズ1世のような野心は抱かず日々の政治は大臣や議会に任せたが、イングランドのカトリック化を目指すチャールズ2世と、国教会化を推進する議会との対立構造だったため、両者の間には次第に溝が深まることに。

そして第二次イングランド・オランダ戦争(1665年 - 1667年)の失敗で失脚したクラレンドン伯の後、1667年にチャールズ2世の側近の5人である、クリフォード男爵、アーリントン伯、バッキンガム公、アントニー・シャフツベリ伯、ローダーデイル公が政権を握り、それぞれの頭文字を取ってCABAL政権と呼ばれたが、チャールズ2世の親カソリック姿勢や内政・外政の失敗などで失脚し、1673年にダンビー伯政権が誕生。しかしチャールズ2世と議会の溝は埋まらず。

2-4、隠れカトリックだったチャールズ2世

チャールズ2世は1670年、フランスのルイ14世と「ドーヴァーの密約」を結び、カトリックの復興を画策、議会との対立を深めることに。

チャールズ2世は在位中は口に出さなかったが、密かにカトリックに改宗していたそう。そして段階的なカトリック復帰を策したチャールズ2世は1672年に「信仰自由宣言」を出したが、議会はチャールズ2世のカトリック復興策に反発、1673年に審査法(官吏にはイングランド国教会教徒以外は採用しないという法律)を制定。また1679年に制定された人身保護法で、国王による反対派の弾圧を防ぐため、不当な逮捕、投獄を禁止に。

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ドーヴァーの密約
1670年、イングランドのチャールズ2世と従弟のフランスのルイ14世との間で結ばれた密約。チャールズ2世が密かにフランスの援助を得ようとして締結したが、議会の知るところとなり、国王に対する反発が生じることに。ルイ14世は、当時オランダへの侵攻を計画中だったためにイングランドの協力が必要だったということ。

密約の内容は、チャールズ2世はルイ14世の資金援助を得てイングランドのカトリック化を推進すること。イングランドは、フランスのオランダ侵攻にあわせてオランダを攻撃するということで、1672年にイングランドとフランスによるオランダ侵攻が開始。フランスではオランダ戦争、イングランドでは第3次イングランド・オランダ戦争。尚、オランダ(ネーデルラント連邦共和国)のウィレム3世(後のイングランド王ウィリアム3世)は屈せず独立を守ったということ。

2-5、現在の保守党と自由党の二大政党の起源に

チャールズ2世には継嗣がなく、カトリック教徒の弟ヨーク公ジェームズの王位継承を認めるかどうかで議会内に対立が生じ、ジェームズの王位継承を認めるトーリ党と、反対するホィッグ党という二つの党派がうまれることに。

結局、王位継承が認められジェームズ2世となるが、議会との対立がさらに激化し、名誉革命に。

2-6、チャールズ2世、日本との貿易を求めて船を派遣

チャールズ2世は延宝元年(1673年)にリターン号を日本に派遣、徳川家康の出した朱印状がまだ有効として1623年以来途絶していた貿易関係の再開を求めたが、当時の江戸幕府は4代将軍徳川家綱の時代で鎖国真っただ中。

江戸幕府は、もともとイングランドとは貿易不振のために、イングランド側の判断で関係が絶えたこと、チャールズ2世の王妃が幕府の鎖国政策の直接的なターゲットだったポルトガル出身ということ、オランダ風説書で第三次英蘭戦争の情報が伝わっていたために戦争に巻き込まれる危険性があることを理由に拒絶したそう。

2-7、チャールズ2世死去、その後のスチュアート朝

1685年2月、チャールズ2世はホワイトホール宮殿で心臓発作のため倒れ、死の床でカトリック教徒と告白(または改宗)、54歳で死去。

後継の国王には弟のヨーク公ジェームズがジェームズ2世および7世として即位。しかし、即位直後にオランダに亡命していたチャールズ2世の庶子モンマス公がイングランドに帰国し、ジェームズ2世に反乱を起こしたモンマスの反乱が勃発。

反乱を平定後にジェームズ2世が親カトリックと専制を推し進め、周囲が反発して政権は傾き、わずか3年で名誉革命が起こってジェームズ2世は追放されて、オランダからジェームズ2世の娘のメアリと夫のウィリアム3世が迎えられ、スチュアート朝の専制は挫折。

3-1、チャールズ2世の愛人たち

チャールズ2世はキャサリン王妃との間には子供が出来なかったが、愛妾たちが大勢いて認知した庶子が14人。

彼らは王位継承権はないため、それぞれ爵位をもらい貴族となり、現在、チャールズ2世の子孫でバクルー公家、グラフトン公家、セント・オールバンズ公家、リッチモンド公家が存続しているということ。主な愛人とその子供たちをご紹介しますね。

3-2、ルーシー・ウォルター(1630年 - 1658年)

ルーシーは、ウェールズで第2代ノーフォーク公トマス・ハワードの子孫であるリチャード・ウォルターの娘として誕生。ウォルター家は清教徒革命の際、王党派だったため1644年に議会軍にロッホ城を奪われて、ルーシーはロンドンからオランダのハーグへ逃亡。

そしてルーシーは17歳の頃にロンドン社交界へ入り、アルジャーノン・シドニー(レスター伯の一族で軍人)の愛妾に、次にオランダへ亡命していたアルジャーノンの弟ロバートの愛人に、ロバートにチャールズ2世を紹介されたということで、ルーシーはチャールズ2世の最初の愛人ではないという説もあるが、1649年に後にモンマス公・バクルー公となる息子ジェームズを出産。その後、2年ほどでチャールズ2世との関係は終わり、ルーシーは生活に貧窮して1658年にパリで死亡。

尚、ルーシーとチャールズ2世の関係が王妃キャサリンとの結婚前だったため、ふたりが正式に結婚していてモンマス公は嫡出の跡継ぎという疑惑が出て、カトリック教徒のヨーク公ジェームズを排除する動きがあったが、チャールズ2世はあくまで庶子としてモンマス公への継承を認めず。モンマス公は庶子のまま、後に反乱を起こして処刑。

しかしモンマス公ジェームズの家系は現在も続き、エリザベス現女王の次男の元ヨーク公爵夫人セーラ・ファーガソン、ヨーク公の娘であるベアトリス・オブ・ヨーク王女とユージェニー・オブ・ヨーク王女が子孫になるそう。

\次のページで「3-3、バーバラ・パーマー(1641年 - 1709年)」を解説!/

3-3、バーバラ・パーマー(1641年 - 1709年)

旧名はバーバラ・ヴィリアーズ、グラディソン子爵ウィリアム・ヴィリアーズの娘として生まれたが、初代バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズは、バーバラの祖父エドワード・ヴィリアーズの弟で大叔父、同名の息子でチャールズ2世の側近となった第2代バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズは従叔父など一応名門の出身。

バーバラは1656年に、乱暴で放蕩者の8歳年上のチェスターフィールド伯と恋仲になったため、親戚はバーバラを1659年に下級外務官僚のロジャー・パーマーと無理矢理結婚させたが、結婚後もバーバラとチェスターフィールド伯との関係は続いたそう。1660年、バーバラの夫パーマーは熱烈な王党派で、ブルッヘの亡命宮廷のチャールズ2世に忠誠を誓いに駆けつけた時、夫に同行したバーバラは初めてチャールズ2世に出会ったが、たちまちチャールズ2世はバーバラに夢中に。

チャールズ2世は寵姫の夫として1661年にパーマーをカースルメイン伯爵に叙し、バーバラは同年にアンを生んだが、父親は誰なのかはっきりとはせず、チャールズ2世は認知する事を拒否。バーバラは1662年に再び妊娠。この年はチャールズ2世の新王妃キャサリンが1662年5月14日にポルトガルからポーツマス港に到着予定だったが、気性が激しくわがままなバーバラは、わざと毎夜王と食事を共にして引き止めたり、もし王がポーツマスに行くのなら、王妃と新婚生活を送るハンプトン・コート宮殿で出産をすると脅迫。

バーバラはその後毎年のように5人も出産したが、子供が生まれる度に自分の子かどうか疑う王と、王の子だと主張するバーバラと争いバーバラが粘り勝ちしたとか、のちのチャーチル首相の先祖のマールバラ公やモンマス公まで愛人にしたという話も。子供たちはクリーブランド公爵、グラフトン公爵。ノーサンバランド公爵となり、グラフトン公爵の子孫の一人がダイアナ元妃につながるそう。

3-4、ネル・グウィン(1650年-1687年)

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ピーター・レリー - http://www.show.me.uk/site/STO748.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

ネルはヘレフォードの貧民街生まれで、父のトマスは王党派の大尉で王政復古を待たずに獄死し、母エレノアは下層階級の出身。ネルは母と姉ローズとの3人暮らしになり、母エレノアはエールビール売りで生計を立て、ネルは11歳から劇場でオレンジ売りとなり、ネルを見込んだシェイクスピアの甥の息子チャールズ・ハート と、劇作家ジョン・レイシーにダンスや舞台女優の訓練を受け、15歳で舞台デビュー、コメディーの人気女優となったということ。

ネルの最初の恋人はチャールズ・ハートで、次はバックハースト卿チャールズ・サックヴィル、そして1668年に舞台を見に来ていたチャールズ2世と出会い、ネルは国王の寵姫になったが、ネルはチャールズ2世のことを、「私のチャールズ3世」と呼んでいたことは有名。また、カトリックへの急進的な反発が渦巻き、ネルの乗った馬車をカトリック教徒の寵姫ルイーズだと思い、群衆が取り囲んで石を投げつける事件が起きたときも、ネルは窓から顔を出すと「皆さん、乱暴しないで。私はプロテスタントの娼婦よ!」と叫んで事なきを得たとか、チャールズ2世の数多い寵姫同士のライバル意識も、明るくユーモアの効いた対応で乗り切り、チャールズ2世を楽しませたそう。

また、ネルはかつての劇場仲間を忘れず、彼らが困っている時は援助を惜しまず、1692年にチャールズ2世が設立した退役軍人のための病院兼養老院ロイヤルホスピタル建設にも関わったため、現在でもその病院ではチャールズ2世とネルのために乾杯する習慣があるということ。
チャールズ2世はネルが平民出身であり、または自分の子か疑う気持ちもあったらしく、ネルの生んだ子供たちをなかなか徐爵せず、ネルが窓から子供を逆さ吊りにして脅迫してバーフォート伯爵を手に入れたという逸話もあるが、その後、その子はセント・オールバンズ公爵に。

チャールズ2世が死去するときの最後の言葉は「どうかかわいそうなネルを飢えさせないでくれ」だったということ。ネルは1687年梅毒で死去。

3-5、ルイーズ・ルネ・ケルアイユ(1649年 - 1734年)

ルイーズは、ブルターニュの貧乏貴族の出身で、持参金が満足に用意できなかったほどだったそう。なので両親はルイーズを宮廷女官にして、ルイ14世の寵姫にとヴェルサイユ宮殿に連れて行ったが、ルイ14世は、ルイーズ・ド・ラヴァリエールに夢中だったため、ルイーズはオルレアン公フィリップの妃で、チャールズ2世の妹アンリエットの侍女に。そして1670年、ルイーズはイングランドに里帰りしたアンリエット一行に密使として同行して、チャールズ2世との出会いが。

アンリエット急死後、ルイーズはチャールズ2世の宮廷をフランス側に引き込むスパイとしてルイ14世に送り込まれ、チャールズ2世の王妃キャサリン付きの女官に。そしてチャールズ2世の愛人となったルイーズは、1672年、チャールズ・レノックス(リッチモンド伯爵)を出産。翌年にはポーツマス公爵夫人の地位を与えられたが、ルイ14世からも褒賞としてオービニュイ公爵夫人の位を与えられたそう。

しかし、ルイーズはかなり尊大な態度をとっていたためと、カトリック教徒であることもあり(チャールズ2世や後継者のジェームズ2世をカトリック側に引き付けるのに大きな役割を果たしたということ)、イングランドの庶民からは嫌われ、チャールズ2世没後はフランスに帰国しルイ14世から年金をもらって余生を送ったそう。

ルイーズの息子のリッチモンド伯爵の子孫がダイアナ元妃につながるということ。

王政復古でイングランドにもどり、愛人を多く作っても人気があった国王

チャールズ2世は16歳の時に清教徒革命が起こり亡命、イングランドを離れなかった父チャールズ1世は処刑、王政復古を求めてヨーロッパ中を転々とする亡命生活を送りましたが、イングランドを統治したクロムウェルが死亡し、息子が頼りなくて辞任、イングランド国民も厳格な軍制に嫌気がさしていたため、チャールズ2世は専制政治は復活しないと宣言して王政復古。

チャールズ2世はほぼ議会に任せきりで愛人を多く作って派手な生活をし、庶子は14人も出来たが、子供のいないキャサリン王妃を尊重し、庶子に王位を継がせることは考えなかったということで、イングランド国民は陽気な王様、怠惰王と呼んで人気があったそう。個性的な愛人たちとの、当時はゴシップ今は歴史の逸話には事欠かず、直系の子孫は絶えても庶子たちの子孫がイギリス貴族として続き、その後有名人を輩出していることでも有名。

チャールズ2世は子供のないキャサリン王妃を離婚せず尊重し、庶子を王位継承の後継者にしなかったこと、亡くなる直前まで自分のカトリックへの信仰を曖昧にしていたことなどを考えると、親カトリックとして議会とは次第に対立したが、専制君主的に断固として決断をせず、しかし自分なりのこだわりのけじめを持っていたのでは。

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陽気な王様と言われた「チャールズ2世」王政復古したイングランド国王を歴女がわかりやすく解説

今回はチャールズ2世を取り上げるぞ。イングランドで王政復古した王様だっけ、どんな人だったかいろいろと詳しく知りたいよな。

その辺のところをヨーロッパ史も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、ヨーロッパの歴史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、チャールズ2世について5分でわかるようにまとめた。

1-1、チャールズ2世はロンドンの生まれ

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チャールズ2世は、1630年、父チャールズ1世とフランス王アンリ4世の娘ヘンリエッタ・マリア王妃の次男としてセントジェームス宮殿で誕生。

兄は死産、他のきょうだいは弟にジェームズ2世、妹はオランダ総督オラニエ公ウィレム2世妃メアリー・ヘンリエッタと、フランスのルイ14世の弟でオルレアン公フィリップ1世妃ヘンリエッタ・アン(アンリエット・ダングルテール)。フランス王ルイ14世は母方の従弟で、後のイングランド国王兼オランダ総督のウィリアム3世は甥。

1-2、チャールズ2世の亡命生活

チャールズ2世は、1646年、16歳の頃、ピューリタン革命の危険が高まったため、母やきょうだいと母の実家のフランスに亡命、1648年に義弟のウィレム2世を頼ってオランダのハーグへ。翌1649年1月30日、イングランドを離れなかった父チャールズ1世は処刑され、イングランドは護国卿オリバー・クロムウェルらが指導する共和国に。

同年、イングランド共和国と接近したオランダ連邦議会の圧力でフランスへ。チャールズ2世とジェームズの兄弟は、フランスのテュレンヌ将軍のもとで軍人となり、1656年、チャールズ2世が26歳のとき、弟と2人で生活のためスペイン軍指揮官のコンデ公ルイ2世について各地を転戦、兄弟は復位の可能性を求めて列強の国々を巡ったが、ヨーロッパ諸国はイングランド共和国と友好関係を築きたい傾向に。

1-3、チャールズ2世、スコットランドで戴冠、亡命宮廷で転々と

スコットランドはイングランドの革命には反対の立場をとり、1649年2月、チャールズ2世をスコットランド王と宣言したので、チャールズ2世は6月にスコットランドに上陸して、1651年1月にはスクーンで正式に戴冠式を挙行。

しかし、クロムウェル軍がスコットランドへ侵攻し、ウスターの戦いで敗れて再び大陸に亡命、ドイツのケルン、スペイン領ネーデルラントのブリュージュ、ブリュッセルなどに移動。

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