その辺のところをヨーロッパ史も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。
- 1-1、チャールズ2世はロンドンの生まれ
- 1-2、チャールズ2世の亡命生活
- 1-3、チャールズ2世、スコットランドで戴冠、亡命宮廷で転々と
- 2-1、チャールズ2世、王政復古でイングランドへ帰国
- 2-2、チャールズ2世、ポルトガル王女と結婚
- 2-3、チャールズ2世の治世
- 2-4、隠れカトリックだったチャールズ2世
- 2-5、現在の保守党と自由党の二大政党の起源に
- 2-6、チャールズ2世、日本との貿易を求めて船を派遣
- 2-7、チャールズ2世死去、その後のスチュアート朝
- 3-1、チャールズ2世の愛人たち
- 3-2、ルーシー・ウォルター(1630年 – 1658年)
- 3-3、バーバラ・パーマー(1641年 – 1709年)
- 3-4、ネル・グウィン(1650年-1687年)
- 3-5、ルイーズ・ルネ・ケルアイユ(1649年 – 1734年)
- 王政復古でイングランドにもどり、愛人を多く作っても人気があった国王
この記事の目次
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、ヨーロッパの歴史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、チャールズ2世について5分でわかるようにまとめた。
1-1、チャールズ2世はロンドンの生まれ
チャールズ2世は、1630年、父チャールズ1世とフランス王アンリ4世の娘ヘンリエッタ・マリア王妃の次男としてセントジェームス宮殿で誕生。
兄は死産、他のきょうだいは弟にジェームズ2世、妹はオランダ総督オラニエ公ウィレム2世妃メアリー・ヘンリエッタと、フランスのルイ14世の弟でオルレアン公フィリップ1世妃ヘンリエッタ・アン(アンリエット・ダングルテール)。フランス王ルイ14世は母方の従弟で、後のイングランド国王兼オランダ総督のウィリアム3世は甥。
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1-2、チャールズ2世の亡命生活
チャールズ2世は、1646年、16歳の頃、ピューリタン革命の危険が高まったため、母やきょうだいと母の実家のフランスに亡命、1648年に義弟のウィレム2世を頼ってオランダのハーグへ。翌1649年1月30日、イングランドを離れなかった父チャールズ1世は処刑され、イングランドは護国卿オリバー・クロムウェルらが指導する共和国に。
同年、イングランド共和国と接近したオランダ連邦議会の圧力でフランスへ。チャールズ2世とジェームズの兄弟は、フランスのテュレンヌ将軍のもとで軍人となり、1656年、チャールズ2世が26歳のとき、弟と2人で生活のためスペイン軍指揮官のコンデ公ルイ2世について各地を転戦、兄弟は復位の可能性を求めて列強の国々を巡ったが、ヨーロッパ諸国はイングランド共和国と友好関係を築きたい傾向に。
1-3、チャールズ2世、スコットランドで戴冠、亡命宮廷で転々と
スコットランドはイングランドの革命には反対の立場をとり、1649年2月、チャールズ2世をスコットランド王と宣言したので、チャールズ2世は6月にスコットランドに上陸して、1651年1月にはスクーンで正式に戴冠式を挙行。
しかし、クロムウェル軍がスコットランドへ侵攻し、ウスターの戦いで敗れて再び大陸に亡命、ドイツのケルン、スペイン領ネーデルラントのブリュージュ、ブリュッセルなどに移動。
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