
1592年 文禄の役
秀吉は豊臣政権の中で2度の朝鮮出兵を行っており、それが1592年の文禄の役と1597年の慶長の役です。まず文禄の役ですが、秀吉は1590年に天下統一を果たすとすぐさま中国の「明」の征服を計画。その理由は様々な諸説が挙がっており、例えば東アジア地域を制圧して貿易の支配を目論んだとも言われています。
ともあれ、明を征服するためには足掛かりとして朝鮮を服従させる必要がありました。しかし朝鮮はこれを拒否、そこで秀吉は1592年に朝鮮に向けて挙兵します。名のある武将を筆頭におよそ15万人の兵士と50万丁の銃・大砲の装備で出兵、朝鮮の釜山に上陸しました。
一方の朝鮮は武将・李舜臣率いる水軍がこれに反撃、そこに明の軍も加勢したことで秀吉軍も朝鮮を制圧するほど優勢には至りません。まさに戦局が五部と五部で進む中、碧蹄館の戦いで秀吉軍は明の軍を撃破。しかし秀吉軍にも多くの犠牲者や食糧不足の問題が発生したため、休戦という形で文禄の役は終わります。
1597年 慶長の役
結局、文禄の役では朝鮮を服従させることはできませんでした。とは言え、戦いを仕掛けたことで明との関係は悪化してしまい、そこで秀吉は明との関係修復のために講和を進めます。秀吉はいくつかの条件を提案して講和を持ちかけますが、そんな秀吉の提案を明は拒否。
さらには、明が「秀吉を日本の国王に任命する」と伝えたことで秀吉が激怒。「おまえには日本の国王を任せるぞ」とも受け取れる明のその言葉からは明らかに「明>日本」の立場が感じられ、交渉決裂によって秀吉は再びおよそ14万人の兵士を朝鮮へと出兵、これが1597年の慶長の役でした。
兵力的には文禄の役とほぼ変わりない慶長の役、しかしこの戦いで秀吉軍は苦戦を強いられます。ただ、慶長の役は思わぬ結末を迎えることになるのでした。実はこの戦いのさなかに秀吉が病気によって死去してしまい、そのため秀吉軍は撤退、2度の朝鮮出兵は秀吉の死によって終わりを迎えたのです。
五大老・五奉行の設置
子供に恵まれなかった秀吉でしたが、1593年に秀頼が誕生。これで秀吉もようやく息子に後を継がせられるようになったものの、現実的に考えるとその道のりは険しいものでした。何しろ秀頼が誕生した時点で秀吉は57歳、既に関白の座を退くほど年齢を重ねており、秀頼が成長して成人するまで秀吉は生きていられないでしょう。
仮に秀頼の成長過程で秀吉が死去すれば、各地の有力な大名勢力は豊臣家を攻めようとするに違いありません。「自分が死去しても豊臣家の威厳を維持し続けて、やがて息子・秀頼に豊臣政権を継がせるにはどうすれば良いのだろうか」……秀吉はその方法を検討します。
そこで考えたのは、「自分が健在のうちに有力な大名を家臣に取り込み、秀頼をサポートさせる」という方法でした。早速、秀吉は五大老・五奉行と称して10人の有力大名を取り込んで家臣に置きます。これで秀吉が死去しても豊臣政権は安泰と思われましたが、実際にはそうはいきませんでした。
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征夷大将軍・徳川家康の誕生
豊臣政権を運営した五大老・五奉行の中に徳川家康や石田三成が含まれていたことからも想像できると思いますが、秀吉の没後に彼らは対立して争う展開になってしまいます。その末に起こったのが1600年の関ヶ原の戦いであり、この戦いで勝利したのは徳川家康でした。
最も、この時の家康の立場は豊臣家の家臣でしたが、1603年に朝廷から征夷大将軍に任命されると江戸幕府を開きます。豊臣政権は、家康が征夷大将軍に任命された時を持って崩壊したと解釈されていて、亡き秀吉が望んだ歴史にはなりませんでした。
気になるのは秀頼のその後ですが、家康が江戸幕府を開いても豊臣家は高い権力を維持しており、それは紛れもなく秀吉が残した遺産でしょう。しかし家康はそんな秀頼を疎ましく思い、天下統一のため、後に起こる大坂の陣によって秀頼含む豊臣家を滅亡させてしまうのでした。
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刀狩り令は兵農分離における政策と理解しよう!
豊臣政権の特徴として注意点を挙げると、兵農分離です。実際、豊臣秀吉が行った政策はいずれも有名なものが多く、太閤検地・刀狩り令など、これらの言葉を聞いたことがある人は多いでしょう。
兵農分離もその一つですが、ここで注意が必要なのは刀狩り令です。刀狩り令は兵農分離を行うための政策であり、そのため「太閤検地・刀狩り令・兵農分離を行った」と表現すると間違いになってしまいます。