今日は豊臣政権の政策や特徴について勉強していきます。豊臣秀吉は、かつての主・織田信長ですら成し遂げられなかった天下統一を果たし、その瞬間から豊臣政権が始まる。

さて、政権掌握した後にすべきことはその政権の維持と安定であり、秀吉も様々な政策を打ち出していった。そこで、今回は豊臣政権の政策や特徴について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から豊臣政権の政策や特徴をわかりやすくまとめた。

豊臣政権の政策1. 太閤検地

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貫高制から石高制へ

豊臣秀吉が天下統一を果たしたのは、北条氏政・北条氏直を攻略した1590年とされています。ただ、実際には1582年の山崎の戦いで明智光秀を倒した時点で秀吉は権力を高めており、秀吉の有名な政策である太閤検地が初めて行われたのも1582年でした

これまで、土地の制度は平安時代後半から荘園公領制度が採用されてきましたが、時代の流れと共に土地のシステムが複雑化。そこで、秀吉は太閤検地と呼ばれる全国規模の土地調査を行います。その目的は、全国各地の米の生産量を把握と効率の良い年貢徴収の実現でした。

歴史を学ぶ中では、大名の領地の規模を表す場合に「10000石高を所有」などと表現されることがありますね。これは、その領地の米の生産高を示す数値になっているのですが、この石高制を確立させたのは秀吉が行った太閤検地です。太閤検地を行ってからは石高制が採用され、それまでは貫高制が採用されていました。

検地の仕組み

では、秀吉の太閤検地はどのようにして行われたのでしょうか。まず、大名が土地を征服するとそこに奉行が派遣されて検地を行います。最も、戦国時代では戦国大名も検地を行っていましたが、秀吉による検地はそれ以上に厳密なものと考えて良いでしょう。

検地によって土地の面積・収穫高・等級・耕作人を割り出し、その土地に対してランク付けをしました。ランクは上から「上」・「中」・「下」・「下々」の4つに分けられ、これを石盛と呼びます。そして、検地の結果を参考にして検地帳を作成、米の収穫量を測定するために使われていたのは京枡です。

このようにして、秀吉が割り出した土地の生産高を石高と呼びます。当然石高が高ければそれだけ領地が広いことになりますから、石高の高さは大名の地位を判断する目安にもなり、秀吉は各地の大名に対して石高に応じた軍役負担を命じていました。また、農民に対しては石高に応じた年貢を収めさせたのです。

豊臣秀吉の政策2. 刀狩り令

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兵農分離のために行った刀狩り令

1588年に秀吉は農民から刀を没収、これが刀狩り令です。農業には収穫期があるため、その時期になると武将であっても農業に従事しますし、一方で戦いになれば農民でもそれに参加するのが日本の習慣でした。しかし、秀吉はそんな現状を変える必要があると考えます。

なぜなら、武士が常に武士として生活すれば時期問わず戦いやそのための訓練ができますし、農民が常に農民として生活すれば農業に集中して収穫量の向上が見込めるからです。そこで、秀吉は武士と農民の身分を明確に分けることを決断、いわゆる兵農分離と呼ばれるものですね。

ではどうやって武士と農民を分けるのか?……その方法として行ったのが刀狩り令であり、つまり刀狩り令とは兵農分離を行うための政策という位置付けになります。武士・農民というたった2つの身分分けですが、江戸時代以降にはこれが細分化していき、その意味で兵農分離は身分制度の基盤を作ったと解釈できるでしょう。

農民による一揆の防止

秀吉が刀狩り令を行った理由は兵農分離のためだけでなく、農民による一揆を防ぐためでもありました。何しろ、秀吉の時代は戦国時代の真っ只中で、それは一揆が頻発していた時代でもあります。実際、織田信長も一向宗と農民によって起こる一向一揆には手を焼いたそうです。

しかし、農民から武器を取り上げれば一揆も起こせなくなるため、刀狩り令には一揆防止の狙いもありました。ですから、名称こそ刀狩り令となっていますが、没収の対象となったのは刀だけというわけではなく、槍や鉄砲なども没収の対象となっています。秀吉の狙いどおり、刀狩り令によって一揆の発生件数は減少しました。

最も、「一揆を防ぐため」と称してしまえば刀狩り令に対する農民の反発を招くのは明白。そこで秀吉は「大仏を建造するための材料」を口実に刀狩り令を行っています。とは言え、大仏の建造はでたらめではありません。結局計画は頓挫するものの、秀吉は巨大な大仏の建造に取りかかっていました。

豊臣秀吉の政策3. 身分統制令

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身分統制令と人掃令の違い

秀吉の政策で少々分かりづらいのが身分統制令で、その理由は人掃令との区別と豊臣秀次の存在です。そこでこれらについて分かりやすく解説すると、身分統制令は1591年に秀吉が行った政策で、武士・侍が商人・農民になることを禁止した制度になります。また、一方で農民が商人・職人になることも禁止しました。

これは秀吉による朝鮮出兵のための準備であり、武士と農民それぞれの人員を確保するのが目的です。武士が農民になってしまえば兵力が低下しますし、農民が職人になってしまえば年貢が減少して戦費に影響するでしょう。秀吉はこのような事態を防ごうとしたわけです。

一方、人掃令は1592年に豊臣秀次によって行われました。人掃令とは武家奉公人・百姓・職人・町人における職業別の戸数と人数を確定するための全国的な戸口調査であり、その目的は朝鮮出兵のための人員確保と確認です。身分統制令も人掃令も朝鮮出兵のための人員確保と把握が目的のため、内容は似たようにものになっています。

人掃令を発令した豊臣秀次とは何者か

次に人掃令を行った豊臣秀次ですが、秀次は天下人・豊臣秀吉の姉である瑞竜院日秀に誕生した長男。つまり、秀次にとって秀吉は叔父ということになります。秀吉は子に恵まれず、せっかく誕生した豊臣鶴松はまだ2歳の時に病気で亡くなりました。そのため、秀吉には後継者がいなかったのです。

そこで秀吉は秀次を後継者として養子に迎え、1591年には秀吉の関白を引き継いだ秀次が天下人になります。この頃になると秀吉は関白の職を退いており、1592年の人掃令は秀次によって発令されました。しかし、1593年になると秀次の立場は一転、57歳の秀吉に息子・豊臣秀頼が誕生したのです。

秀吉は秀頼を後継者にしたいと考えるようになり、そうなると邪魔なのが秀次の存在。謀反を疑いをかけられた秀次は、1595年に切腹を命じられてまだ28歳の若さで人生に幕を降ろしました。明智光秀ほどではないものの、秀次が天下人となったのはほんの束の間、だからこそ存在が目立たず、それが人掃令を分かりづらくさせている理由の一つでしょう。

\次のページで「豊臣政権の朝鮮出兵」を解説!/

豊臣政権の朝鮮出兵

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1592年 文禄の役

秀吉は豊臣政権の中で2度の朝鮮出兵を行っており、それが1592年の文禄の役と1597年の慶長の役です。まず文禄の役ですが、秀吉は1590年に天下統一を果たすとすぐさま中国の「明」の征服を計画。その理由は様々な諸説が挙がっており、例えば東アジア地域を制圧して貿易の支配を目論んだとも言われています。

ともあれ、明を征服するためには足掛かりとして朝鮮を服従させる必要がありました。しかし朝鮮はこれを拒否、そこで秀吉は1592年に朝鮮に向けて挙兵します。名のある武将を筆頭におよそ15万人の兵士と50万丁の銃・大砲の装備で出兵、朝鮮の釜山に上陸しました。

一方の朝鮮は武将・李舜臣率いる水軍がこれに反撃、そこに明の軍も加勢したことで秀吉軍も朝鮮を制圧するほど優勢には至りません。まさに戦局が五部と五部で進む中、碧蹄館の戦いで秀吉軍は明の軍を撃破。しかし秀吉軍にも多くの犠牲者や食糧不足の問題が発生したため、休戦という形で文禄の役は終わります。

1597年 慶長の役

結局、文禄の役では朝鮮を服従させることはできませんでした。とは言え、戦いを仕掛けたことで明との関係は悪化してしまい、そこで秀吉は明との関係修復のために講和を進めます。秀吉はいくつかの条件を提案して講和を持ちかけますが、そんな秀吉の提案を明は拒否。

さらには、明が「秀吉を日本の国王に任命する」と伝えたことで秀吉が激怒。「おまえには日本の国王を任せるぞ」とも受け取れる明のその言葉からは明らかに「明>日本」の立場が感じられ、交渉決裂によって秀吉は再びおよそ14万人の兵士を朝鮮へと出兵、これが1597年の慶長の役でした。

兵力的には文禄の役とほぼ変わりない慶長の役、しかしこの戦いで秀吉軍は苦戦を強いられます。ただ、慶長の役は思わぬ結末を迎えることになるのでした。実はこの戦いのさなかに秀吉が病気によって死去してしまい、そのため秀吉軍は撤退、2度の朝鮮出兵は秀吉の死によって終わりを迎えたのです。

豊臣政権の崩壊

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五大老・五奉行の設置

子供に恵まれなかった秀吉でしたが、1593年に秀頼が誕生。これで秀吉もようやく息子に後を継がせられるようになったものの、現実的に考えるとその道のりは険しいものでした。何しろ秀頼が誕生した時点で秀吉は57歳、既に関白の座を退くほど年齢を重ねており、秀頼が成長して成人するまで秀吉は生きていられないでしょう

仮に秀頼の成長過程で秀吉が死去すれば、各地の有力な大名勢力は豊臣家を攻めようとするに違いありません。「自分が死去しても豊臣家の威厳を維持し続けて、やがて息子・秀頼に豊臣政権を継がせるにはどうすれば良いのだろうか」……秀吉はその方法を検討します。

そこで考えたのは、「自分が健在のうちに有力な大名を家臣に取り込み、秀頼をサポートさせる」という方法でした。早速、秀吉は五大老・五奉行と称して10人の有力大名を取り込んで家臣に置きます。これで秀吉が死去しても豊臣政権は安泰と思われましたが、実際にはそうはいきませんでした。

征夷大将軍・徳川家康の誕生

豊臣政権を運営した五大老・五奉行の中に徳川家康や石田三成が含まれていたことからも想像できると思いますが、秀吉の没後に彼らは対立して争う展開になってしまいます。その末に起こったのが1600年の関ヶ原の戦いであり、この戦いで勝利したのは徳川家康でした。

最も、この時の家康の立場は豊臣家の家臣でしたが、1603年に朝廷から征夷大将軍に任命されると江戸幕府を開きます。豊臣政権は、家康が征夷大将軍に任命された時を持って崩壊したと解釈されていて、亡き秀吉が望んだ歴史にはなりませんでした。

気になるのは秀頼のその後ですが、家康が江戸幕府を開いても豊臣家は高い権力を維持しており、それは紛れもなく秀吉が残した遺産でしょう。しかし家康はそんな秀頼を疎ましく思い、天下統一のため、後に起こる大坂の陣によって秀頼含む豊臣家を滅亡させてしまうのでした。

刀狩り令は兵農分離における政策と理解しよう!

豊臣政権の特徴として注意点を挙げると、兵農分離です。実際、豊臣秀吉が行った政策はいずれも有名なものが多く、太閤検地・刀狩り令など、これらの言葉を聞いたことがある人は多いでしょう。

兵農分離もその一つですが、ここで注意が必要なのは刀狩り令です。刀狩り令は兵農分離を行うための政策であり、そのため「太閤検地・刀狩り令・兵農分離を行った」と表現すると間違いになってしまいます。

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安土桃山時代日本史歴史

秀吉によって誕生した「豊臣政権」の政策・特徴を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は豊臣政権の政策や特徴について勉強していきます。豊臣秀吉は、かつての主・織田信長ですら成し遂げられなかった天下統一を果たし、その瞬間から豊臣政権が始まる。

さて、政権掌握した後にすべきことはその政権の維持と安定であり、秀吉も様々な政策を打ち出していった。そこで、今回は豊臣政権の政策や特徴について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から豊臣政権の政策や特徴をわかりやすくまとめた。

豊臣政権の政策1. 太閤検地

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貫高制から石高制へ

豊臣秀吉が天下統一を果たしたのは、北条氏政・北条氏直を攻略した1590年とされています。ただ、実際には1582年の山崎の戦いで明智光秀を倒した時点で秀吉は権力を高めており、秀吉の有名な政策である太閤検地が初めて行われたのも1582年でした

これまで、土地の制度は平安時代後半から荘園公領制度が採用されてきましたが、時代の流れと共に土地のシステムが複雑化。そこで、秀吉は太閤検地と呼ばれる全国規模の土地調査を行います。その目的は、全国各地の米の生産量を把握と効率の良い年貢徴収の実現でした。

歴史を学ぶ中では、大名の領地の規模を表す場合に「10000石高を所有」などと表現されることがありますね。これは、その領地の米の生産高を示す数値になっているのですが、この石高制を確立させたのは秀吉が行った太閤検地です。太閤検地を行ってからは石高制が採用され、それまでは貫高制が採用されていました。

検地の仕組み

では、秀吉の太閤検地はどのようにして行われたのでしょうか。まず、大名が土地を征服するとそこに奉行が派遣されて検地を行います。最も、戦国時代では戦国大名も検地を行っていましたが、秀吉による検地はそれ以上に厳密なものと考えて良いでしょう。

検地によって土地の面積・収穫高・等級・耕作人を割り出し、その土地に対してランク付けをしました。ランクは上から「上」・「中」・「下」・「下々」の4つに分けられ、これを石盛と呼びます。そして、検地の結果を参考にして検地帳を作成、米の収穫量を測定するために使われていたのは京枡です。

このようにして、秀吉が割り出した土地の生産高を石高と呼びます。当然石高が高ければそれだけ領地が広いことになりますから、石高の高さは大名の地位を判断する目安にもなり、秀吉は各地の大名に対して石高に応じた軍役負担を命じていました。また、農民に対しては石高に応じた年貢を収めさせたのです。

豊臣秀吉の政策2. 刀狩り令

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兵農分離のために行った刀狩り令

1588年に秀吉は農民から刀を没収、これが刀狩り令です。農業には収穫期があるため、その時期になると武将であっても農業に従事しますし、一方で戦いになれば農民でもそれに参加するのが日本の習慣でした。しかし、秀吉はそんな現状を変える必要があると考えます。

なぜなら、武士が常に武士として生活すれば時期問わず戦いやそのための訓練ができますし、農民が常に農民として生活すれば農業に集中して収穫量の向上が見込めるからです。そこで、秀吉は武士と農民の身分を明確に分けることを決断、いわゆる兵農分離と呼ばれるものですね。

ではどうやって武士と農民を分けるのか?……その方法として行ったのが刀狩り令であり、つまり刀狩り令とは兵農分離を行うための政策という位置付けになります。武士・農民というたった2つの身分分けですが、江戸時代以降にはこれが細分化していき、その意味で兵農分離は身分制度の基盤を作ったと解釈できるでしょう。

農民による一揆の防止

秀吉が刀狩り令を行った理由は兵農分離のためだけでなく、農民による一揆を防ぐためでもありました。何しろ、秀吉の時代は戦国時代の真っ只中で、それは一揆が頻発していた時代でもあります。実際、織田信長も一向宗と農民によって起こる一向一揆には手を焼いたそうです。

しかし、農民から武器を取り上げれば一揆も起こせなくなるため、刀狩り令には一揆防止の狙いもありました。ですから、名称こそ刀狩り令となっていますが、没収の対象となったのは刀だけというわけではなく、槍や鉄砲なども没収の対象となっています。秀吉の狙いどおり、刀狩り令によって一揆の発生件数は減少しました。

最も、「一揆を防ぐため」と称してしまえば刀狩り令に対する農民の反発を招くのは明白。そこで秀吉は「大仏を建造するための材料」を口実に刀狩り令を行っています。とは言え、大仏の建造はでたらめではありません。結局計画は頓挫するものの、秀吉は巨大な大仏の建造に取りかかっていました。

豊臣秀吉の政策3. 身分統制令

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身分統制令と人掃令の違い

秀吉の政策で少々分かりづらいのが身分統制令で、その理由は人掃令との区別と豊臣秀次の存在です。そこでこれらについて分かりやすく解説すると、身分統制令は1591年に秀吉が行った政策で、武士・侍が商人・農民になることを禁止した制度になります。また、一方で農民が商人・職人になることも禁止しました。

これは秀吉による朝鮮出兵のための準備であり、武士と農民それぞれの人員を確保するのが目的です。武士が農民になってしまえば兵力が低下しますし、農民が職人になってしまえば年貢が減少して戦費に影響するでしょう。秀吉はこのような事態を防ごうとしたわけです。

一方、人掃令は1592年に豊臣秀次によって行われました。人掃令とは武家奉公人・百姓・職人・町人における職業別の戸数と人数を確定するための全国的な戸口調査であり、その目的は朝鮮出兵のための人員確保と確認です。身分統制令も人掃令も朝鮮出兵のための人員確保と把握が目的のため、内容は似たようにものになっています。

人掃令を発令した豊臣秀次とは何者か

次に人掃令を行った豊臣秀次ですが、秀次は天下人・豊臣秀吉の姉である瑞竜院日秀に誕生した長男。つまり、秀次にとって秀吉は叔父ということになります。秀吉は子に恵まれず、せっかく誕生した豊臣鶴松はまだ2歳の時に病気で亡くなりました。そのため、秀吉には後継者がいなかったのです。

そこで秀吉は秀次を後継者として養子に迎え、1591年には秀吉の関白を引き継いだ秀次が天下人になります。この頃になると秀吉は関白の職を退いており、1592年の人掃令は秀次によって発令されました。しかし、1593年になると秀次の立場は一転、57歳の秀吉に息子・豊臣秀頼が誕生したのです。

秀吉は秀頼を後継者にしたいと考えるようになり、そうなると邪魔なのが秀次の存在。謀反を疑いをかけられた秀次は、1595年に切腹を命じられてまだ28歳の若さで人生に幕を降ろしました。明智光秀ほどではないものの、秀次が天下人となったのはほんの束の間、だからこそ存在が目立たず、それが人掃令を分かりづらくさせている理由の一つでしょう。

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