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ルネサンス時代のフィレンツェに栄えた名家「メディチ家」を歴女がわかりやすく解説

3-3、ロレンツォ・デ・メディチ(1449年 – 1492年)

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ジョルジョ・ヴァザーリWeb Gallery of Art:   画像  Info about artwork, パブリック・ドメイン, リンクによる

メディチ家の最盛時の当主。ロレンツォ・イル・マニーフィコ(偉大なという意味)とも呼ばれ、 孫のロレンツォ2世との区別で、大ロレンツォと言われることも。

ロレンツォは、 幼時からフィレンツェの指導者としての教育を受け、父ピエロが死ぬと、20歳でメディチ家当主となり、フィレンツェの最高権力者として公的な肩書きなしでフィレンツェ共和国を実質的に統治。

ボッティチェリ、リッピなどの芸術家やフィチーノ、ミランドラら人文主義者を多数保護し、芸術・学芸のパトロンとして、祖父コジモと並んで、後世まで模範と仰がれたそう。ロレンツォは古典の教養も豊かで、祖父コジモの代に創立されたプラトン・アカデミーを主宰して自らも詩作や批評を行い、文才は現代でも評価されているうえに、優れた政治、外交能力を持ち、各イタリアの公国の関係を調整する立場として大きな影響力を持ち、信頼を得たということ。また一般市民にも気前良かったために絶大な支持があったそう。

3-4、レオ10世(1475年 – 1521年)

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ローマ教皇(在位1513年 – 1521年)、本名はジョヴァンニ・デ・メディチ。フィレンツェの黄金時代を築いた大ロレンツォ・デ・メディチの次男。

父と教皇インノケンティウス8世の後押しで1492年、16歳の若さで枢機卿に任命。同年ロレンツォの死去後、メディチ家の権勢は衰え、1494年に兄のピエロ、弟のジュリアーノと共にフィレンツェを追放されてイタリア各地を転々とした後、ローマに。1512年、ローマ教皇ユリウス2世の支持でスペイン軍と共にフィレンツェに侵攻してメディチ家は復権。

1513年、ユリウス2世の死後、37歳で教皇に選出され、最年少にして最も醜男の教皇と呼ばれたということ。前教皇が着手したサン・ピエトロ大聖堂の建設を引継いで、ミケランジェロ、ラファエロらの芸術家のパトロンとなり、ローマを中心とするルネサンス文化は最盛期を迎えたが、莫大な費用が掛かったため、1517年、ドイツで贖宥状(免罪符)販売を認めたことが、ルターによる宗教改革の直接のきっかけに。

レオ10世は、メディチ家の出身らしく、行列や宴会を好み、浪費家で贅沢三昧だったため、教皇庁には未曾有の財政破綻が起こったということ。

3-5、クレメンス7世(1478年 – 1534年)

ローマ教皇(在位1523年 – 1534年)本名はジュリオ・デ・メディチ、レオ10世の従弟で、大ロレンツォの弟でジュリアーノの庶子。

ローマ教皇としての業績は、イギリスのヘンリー8世の離婚問題を承認、カンタベリー大司教になったトマス・クランマーとヘンリ8世を破門したなど、ヘンリー8世のカトリック教会離脱とイギリス国教会創立時に関わったこと。クレメンス7世は、従弟の教皇レオ10世の下で枢機卿として手腕を発揮したが、即位後は不安定な国際情勢に翻弄されてローマ略奪の惨事を招き、宗教改革に対しても有効な手が打てず、メディチ家の権益擁護と芸術、文化のパトロンとしての業績を残した程度。

枢機卿時代にはラファエロを引き立て、天文学者コペルニクスの研究も支援、晩年にフィレンツェからミケランジェロを呼び寄せ、システィーナ礼拝堂の壁画の作成を依頼したが、実際に「最後の審判」を手掛けたのはクレメンス7世死後になってからということ。

3-6、カトリーヌ・ド・メディシス(1519年 – 1589年)

フランスヴァロア朝の国王アンリ2世の王妃。フランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世の母后。

1519年、ロレンツォ・デ・メディチの孫ウルビーノ公ロレンツォ2世・デ・メディチと、フランス王族のオーヴェルニュ伯ジャン3世の娘マドレーヌの間の長女としてフィレンツェで誕生。イタリア語名はカテリーナ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ。

カトリーヌは生後間もなく両親が相次いで病死し、孤児となり不安定な幼少期を送るが、1533年、メディチ家の一族であるローマ教皇クレメンス7世とフランス王フランソワ1世の間で縁組交渉で、フランソワ1世の次男オルレアン公アンリ・ド・ヴァロワ(後のアンリ2世)と結婚。10人の子を産むが、アンリ2世は年上の愛妾ディアーヌ・ド・ポワチエを寵愛、1559年、馬上槍試合の事故でアンリ2世が死去し、長男フランソワ2世、次にシャルル9世が即位するとカトリーヌは摂政として政治を担うことに。

しかしフランス国内はカトリックとユグノーの対立が激化、1572年には聖バルテルミの虐殺が起り、シャルル9世病死後4男のアンリ3世が即位するが、内乱は泥沼化、カトリーヌの死後、アンリ3世は暗殺されてヴァロア朝は断絶、ナヴァール公アンリがアンリ4世としてブルボン朝に。

カトリーヌはフランスにイタリアから洗練された料理やお菓子作りの職人を連れて嫁入り、フランス料理の基礎を築いたと言われているということ。

3-7、マリー・ド・メディシス(1575年 – 1642年)

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フランス国王アンリ4世の2番目の王妃で、ルイ13世の母。マリーの父はトスカーナ大公フランチェスコ1世。カトリーヌ・ド・メディシスとは遠縁の同族。


1600年、25歳の時に、前妻でカトリーヌの娘のマルグリット・ド・ヴァロワと離婚したアンリ4世と、15万ポンドの持参金が目当ての政略結婚。生涯で50人もの愛人がいたとされる女好きのアンリ4世の宮廷で孤独感を味わい、マリーは浪費癖を発揮して持参金が底をついたということ。

1601年、世継ぎであるルイ13世を出産、他に5子が生まれ、それぞれ成長してスペイン王フェリペ4世の王妃、サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ1世の妃、次男のオルレアン公ガストン、イギリス王チャールズ1世王妃に。1610年、狂信的カトリック教徒によってアンリ4世が暗殺。

マリーは8歳で即位した息子ルイ13世の摂政となったが、それまで名君としてアンリ4世が行い、フランス国民に支持された政治と真逆の方針だったため、反発を買い、フランスの政治から追放され幽閉されることに。そして1619年にマリーとルイ13世は和解したが、1631年、ルイ13世の宰相リシュリュー枢機卿と対立し、再び追放されてベルギーのブリュッセルに亡命、亡命先で死去。

イタリアルネサンスの芸術家のパトロンとして名をはせた名家

メディチ家は、14世紀からフィレンツェで繁栄し台頭した名家だが、商人で銀行家という出身のため莫大な富はあっても、ヨーロッパの王侯貴族には低い家柄とみなされたよう。

しかし、一族からは次々と人材が輩出し、フィレンツェの街を繁栄させる一方、ローマ教皇も出したが、メディチ家の出身らしく派手好みでサン・ピエトロ寺院建設のためにミケランジェロらの壁画を依頼など、莫大な建設資金が必要で売り出したのが免罪符で、マルティン・ルターの宗教改革を招いたということ。

またローマ教皇の姪としてフランス王家と政略結婚し、フランスにルネサンス文化を持ち込んだのがカトリーヌ・ド・メディシスで、フランス料理と食事のマナーが洗練されたものに。

そしておなじみのボッチチェルリやミケランジェロの名作も、メディチ家が積極的に支援、依頼して制作されたものも多く、メディチ家が断絶後もこのルネサンスの名作、建物もきちんと残っているのは最後の女性当主がフィレンツェに寄付したからということ。メディチ家は派手好みで贅沢嗜好だったといいますが、後世に残る素晴らしい美術を残したことは、称賛に価すべきではないでしょうか。

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angelica