その辺のところをヨーロッパ史も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。
- 1-1、メディチ家とは
- 1-2、メディチ家の起源
- 2-1、メディチ家の盛衰
- 2-2、ルネサンス芸術のパトロン
- 3-1、有名なメディチ家の人々
- 3-2、ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチ(1360年 – 1429年)
- 3-2、コジモ・デ・メディチ(1389年 – 1464年)
- 3-3、ロレンツォ・デ・メディチ(1449年 – 1492年)
- 3-4、レオ10世(1475年 – 1521年)
- 3-5、クレメンス7世(1478年 – 1534年)
- 3-6、カトリーヌ・ド・メディシス(1519年 – 1589年)
- 3-7、マリー・ド・メディシス(1575年 – 1642年)
- イタリアルネサンスの芸術家のパトロンとして名をはせた名家
この記事の目次
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、ヨーロッパの歴史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、メディチ家について5分でわかるようにまとめた。
1-1、メディチ家とは
ルネサンス期に栄えたイタリア、フィレンツェの名家。14世紀に東方貿易と金融業で莫大な富を得、15世紀にはコジモ・デ・メディチがフィレンツェの事実上の支配者となって繁栄し、孫ロレンツォはフィレンツェへの富の集中とルネサンス芸術の保護にも努め、その後、ローマ教皇やフランス王妃を輩出して、トスカーナ大公となったが、1737年に断絶。
1-2、メディチ家の起源
メディチは医師という意味で、メディチ家の紋章(金地に数個の赤い球を配する)の由来は、「メディチ」の家名そのものが示すように、彼らの祖先は医師または薬業で、赤い球は丸薬か、瀉血のため血を吸い出すのに用いられた丸いガラス玉を表しているという説、メディチ家をフィレンツェ随一の大富豪にした銀行業にちなんで、貨幣、あるいは両替商の秤の分銅を表しているという説の2通りがあるということ。
また銀行業の前は、欧州の工業で大きな位置を占めた毛織物産業に必要な、東洋から輸入した媒染剤に重用されたミョウバンを唯一扱ったために栄えたということ。尚、メディチ家の一族に多いコジモの名は、医師と薬剤師のカトリックの守護聖人聖コスマス由来だそう。
2-1、メディチ家の盛衰
メディチの名は、13世紀のフィレンツェ政府の評議会議員の記録に残されているが、それ以前の経歴や一族の出自は不明。14世紀には銀行家として台頭し、フィレンツェ共和国政府にもメンバーを送りこむまでに。
メディチ一族の基礎を作ったのはジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチで、ローマ教皇庁にもつながりを持ち、銀行業で成功。 その息子のコジモはフィレンツェ共和国の議会の選挙制度を操作し、メディチ家の派閥が多数派にして共和国であってもフィレンツェは実質的にメディチ家の支配になり、銀行業も繁栄。メディチ銀行はイタリア各地から、フランス、オランダ、イギリスなどの外国にも進出。しかし当主たちの浪費もあって、メディチ銀行の経営は巨額の赤字に。
コジモの息子の大ロレンツィオは実質的にフィレンツェ共和国を統治したが、1492年に大ロレンツォが死ぬと、反メディチ家を掲げる共和派が台頭、そして華美な風潮を非難する宗教改革の先駆的存在のサヴォナローラが登場して不安を煽り、美術品などを破壊するように。
そして1494年に第一次イタリア戦争が勃発、フランス軍が南を目指してフィレンツェを通過するときに当時のメディチ家当主ピエロが独断でフランス軍をフィレンツェに入城させたため、市民によってメディチ家は追放され、メディチ銀行も破綻。その後はサヴォナローラの神権政治が行われたが、ローマ教皇アレクサンデル6世から異端と断定、破門された後、急速に民衆の支持を失って処刑され、メディチ家は復活。
メディチ家からは2人のローマ教皇、レオ10世とクレメンス7世を出したが、レオ10世の治世の1517年、サン・ピエトロ大寺院の修築のためにドイツで贖宥状を発売したのをルターが批判、宗教改革のきっかけに。またフランス王と神聖ローマ教皇の対立が激化、クレメンス7世がフランス王と結んだため、1527年、神聖ローマ皇帝カール5世によるローマの劫略が行われたときには、フィレンツェで共和派が決起して再びメディチ家は追放。
フィレンツェ共和国はメディチ家の復権を阻止すべく防衛体制を強化、ルターの宗教改革をきっかけに、神聖ローマ皇帝とローマ教皇の提携が成立、フィレンツェでも旧体制のメディチ家復活させるため、1530年に皇帝軍が総攻撃を加えてフィレンツェ共和国は敗北してメディチ家が復活。メディチ家は神聖ローマ皇帝からフィレンツェ公の地位を与えられて、フィレンツェを統治することに。
メディチ家はその後、その周辺の土地も合わせてトスカーナ公に。そしてメディチ家はトスカーナ大公の地位を世襲し、ヨーロッパ列国の王家と同列の地位となり、18世紀まで存続して断絶。
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2-2、ルネサンス芸術のパトロン
政治家や銀行家として以上に、メディチ家は豊富な資金をルネサンスの芸術家に投資して積極的に支援して育てた功績が大きいということ。
ルネサンスの芸術作品はキリスト教の宗教文化と密接に関係、基本的に聖書からとった題材がほとんどのため、メディチ家としては単に芸術作品を愛し育てるという意味だけでなく、自分たちの信仰の篤さをアピールし、またキリスト教では罪とされる金融業を営んでいることに対して罪の許しを得る意味もあったそう。またメディチ銀行の経営が赤字化する原因の一端も、芸術家たちの気前のよいパトロンだったせいも。
尚、最後のメディチ家の当主アンナ・マリーア・ルイーザ・デ・メディチは1743年に亡くなる前、「メディチ家のすべてのコレクションがフィレンツェにとどまり、一般に公開されること」を条件に、メディチ家のコレクションをすべてトスカーナ政府に寄贈したため、メディチ家の美術品は散逸せずにフィレンツェに残り、「メディチ家の12の館と2つの庭園」は現在、ユネスコの世界遺産に認定。
3-1、有名なメディチ家の人々
繁栄を築いた、最盛期の当主、ローマ教皇、フランス王妃など、豪華絢爛なメディチ家の主なメンバーについてご紹介しますね。
3-2、ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチ(1360年 – 1429年)
15世紀始めのフィレンツェのメディチ家当主で、一族の繁栄を築いた人物。ジョヴァンニは、遠縁に当たり銀行家として成功していたヴィエーリ・ディ・カンビオ・デ・メディチが、ローマに設立した商社の社員となり、妻の持参金を投資して共同経営者に、そして1393年にヴィエーリの引退で事業を受け継ぎ、ローマ教皇庁とのつながりを深め、銀行業で成功。
ジョヴァンニは教会大分裂期の1397年、ローマにあったヴィエーリの遺した銀行の一つを出身地のフィレンツェに移したのが、事実上のメディチ銀行(1397年 – 1494年)の創設だそう。そしてローマ、ヴェネツィアなどへ支店網を広げ、分裂し対立していたカトリック教会に介入し、元は海賊ともいわれる曰くある人物バルダッサーレ・コッサ枢機卿を支援、対立教皇ヨハネス23世として即位。
そして1410年にはローマ教皇庁会計院の財務管理者となり、教皇庁の金融業務で優位な立場を得て、莫大な収益を得たそう。ヨハネス23世がコンスタンツ公会議で廃位後も、メディチ銀行は引き続きローマ教皇庁での地位を保ち、フィレンツェの正義の旗手や大使なども歴任、社会的な地位を高めたが、1422年にローマ教皇マルティヌス5世がモンテ・ヴェルデ伯爵の称号を授けようとしたときは、政治的な配慮から爵位を辞退したということ。
3-2、コジモ・デ・メディチ(1389年 – 1464年)
ジョヴァンニの長男で、メディチ家のフィレンツェ支配を確立。コジモはフィレンツェに納められた税金のおよそ65%を負担し、死後はローマ皇帝にならって「祖国の父」の称号を贈られたということ。通称コジモ・イル・ヴェッキオ(老人という意味)。
コジモは父ジョヴァンニの築いた銀行業を受け継いで発展させ、1429年に父が亡くなったあと、1433年、政変でフィレンツェを追放されてヴェネツィアに逃れたが、翌年10月、反対派のアルビッツィ家が失脚、追放されて、コジモはフィレンツェ共和国に帰還。
その後はフィレンツェ国内では、政治的に表面に出ずに選挙制度を操作して政府内をメディチ派で固め、対外的にはヴェネツィア、ミラノ、ナポリとの勢力均衡を図り、カトリック、東方教会合同のフィレンツェ公会議を開催してローマ教皇庁との結びつきを強めたそう。
コジモはルネサンス期の重要なパトロンの一人で、美術ではフィリッポ・ブルネレスキ、ミケロッツォ、ドナテッロらを庇護し、古代ギリシャの哲学者プラトンの思想に心酔して私的な学芸サークル、プラトン・アカデミーの基礎を作り、人文主義者マルシリオ・フィチーノにプラトン全集の翻訳を行わせたことで、ルネサンス期にネオプラトニズム(新プラトン主義)を広めたということ。
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