幕末日本史歴史江戸時代

開陽丸の艦長「榎本武揚」明治政府に仕えた最後の幕臣を歴女がわかりやすく解説

よぉ、桜木健二だ、今回は榎本武揚を取り上げるぞ。箱館の五稜郭で戦ったのに許されて大臣になったんだって、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを幕末、明治維新が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、幕末明治維新は、勤皇佐幕にかかわらず興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、榎本武揚について5分でわかるようにまとめた。

1-1、榎本武揚は幕臣の生まれ

榎本武揚(えのもとたけあき)は、天保7年(1836年)8月、西丸御徒目付榎本武規(箱田良助)の次男として江戸下谷御徒町柳川横町(現在の東京都台東区浅草橋付近)、通称三味線堀の組屋敷で誕生。きょうだいは兄と妹。

父は備後国箱田村(現・広島県福山市)生まれの郷士。17歳の時天文学を志して江戸に出て、伊能忠敬の弟子として九州全域を一緒に回り、「大日本沿海輿地全図(伊能図)」作成に参加した経歴を持ち、その後御家人の株を買って幕臣となったそう。

武揚の通称は釜次郎(兄は鍋太郎)、号は梁川(りょうせん)、榎、釜を分解し、夏木金八郎という変名も。

1-2、武揚、長崎海軍伝習所で学ぶ

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武揚は近所に住んでいた田辺石庵に儒学を学んだ後、嘉永4年(1851年)、昌平坂学問所に入学。嘉永6年(1853年)に修了したときの成績は最低の丙だったそう。安政元年(1854年)、箱館奉行の堀利煕の従者として蝦夷地の箱館に赴いて、蝦夷地、樺太巡視に随行した翌年、昌平坂学問所に再入学して翌年7月退学。

そして友人の伊沢謹吾の父の伝手で長崎海軍伝習所の聴講生となり、安政4年(1857年)、第2期生として入学し、カッテンディーケやポンペらから機関学、化学などを学んだということで、カッテンディーケは伝習所時代の武揚を高く評価。

翌年、海軍伝習所を修了し、江戸の築地軍艦操練所教授に就任、中浜ジョン万次郎の私塾で英語を学び、後に箱館戦争をともに戦うことになる大鳥圭介と出会ったということ。

2-1、武揚、オランダへ5年間留学

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文久元年(1861年)11月、幕府はアメリカに蒸気軍艦3隻を発注と、武揚の他に内田正雄、津田真道、西周、澤太郎左衛門、赤松則良、田口俊平をアメリカへ留学させることに決定。しかし、アメリカでは南北戦争が拡大したために断られ、翌文久2年(1862年)3月、オランダに蒸気軍艦1隻(のちの開陽丸)を発注、武揚らの留学先もオランダに変更されることに。

同年6月18日、留学生一行は咸臨丸で品川沖から出発したが、途中、榎本、赤松、澤、内田が麻疹に感染したため下田で療養、8月23日長崎に到着し、9月11日、オランダ船カリップス号で長崎を出航、バタビアへ。ジャワ島北方沖で暴風雨に遭い、船が座礁し無人島へ漂着するが、救出されてバタビアで客船テルナーテ号に乗り換えたり、セントヘレナ島に立ち寄り、ナポレオンの寓居跡などを訪ねた後、文久3年(1863年)4月18日、オランダのロッテルダムに到着。

オランダでは当時海軍大臣となっていた長崎伝習所の恩師のカッテンディーケやポンペの世話になったということ。武揚はハーグで、船舶運用術、砲術、蒸気機関学、化学、国際法を学んだそう。そして元治元年(1864年)2月からは、赤松則良と第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争を観戦武官として見学。プロイセン・オーストリア軍の戦線を見学した後、デンマークに渡り、同軍の戦線を見学。その後、エッセンのクルップ本社を訪れ、大砲王といわれるアルフレート・クルップと面会。また、フランスが幕府に軍艦建造と購入を提案したため内田とパリへ赴き、フランス海軍と交渉したほか、赤松とイギリスを旅行して造船所、機械工場、鉱山などを視察。

慶応2年(1866年)7月17日に開陽丸が竣工したため、10月25日、武揚ら留学生は開陽丸とともにオランダ・フリシンゲン港を出発、リオデジャネイロ・アンボイナを経由して、慶応3年(1867年)3月26日に横浜港に帰着。

フランスの国際学者オルトラン著の「万国海律全書」について熱心に学んだため、オランダ人講師から、日本に帰るときに手土産としてオランダ語訳の同本を贈呈され、この本が後に、榎本の命を助けることに

2-2、武揚、開陽丸の艦長に

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武揚は、慶応3年(1867年)5月10日に幕府から100俵15人扶持で軍艦役、開陽丸乗組頭取(艦長)に任命。7月8日に軍艦頭並となって布衣を許され、9月19日に軍艦頭で和泉守と出世。

そして、オランダ留学生仲間の林研海の妹たつと結婚。尚、たつ夫人は奥医師林洞海の長女で母は佐藤泰然の娘なので、幕末の将軍侍医で初代陸軍軍医総監の松本良順と、外務大臣などを務めた林董は叔父、そして姉の貞は赤松則良と結婚し、森鴎外の最初の妻赤松登志子の母ということに。

2-3、武揚、開陽丸で戊辰戦争の口火を切る海戦

武揚がオランダ留学をしていた間に幕末の情勢は激変。帰国後半年余り経った慶応3年(1867年)10月14日、15代将軍慶喜が大政奉還を行い、12月9日には王政復古の大号令が。

武揚と開陽丸は、このときは僚艦の回天丸、朝陽丸と江戸湾にいたが、江戸では薩摩藩が各所で扇動活動を行ったため、あおられた幕臣が12月25日に江戸の薩摩藩邸、佐土原藩邸を焼討ち事件を起こし、扇動活動をしていた薩摩藩士たちが薩摩藩船の翔凰丸で江戸脱出、武揚は開陽丸で僚艦と共にこれを追跡して大坂湾へ。これが武揚と開陽丸の初の実戦で、開陽丸はその後、富士山丸、蟠竜丸、翔鶴丸、順動丸と大坂の警備に就いたそう。

そして慶応4年(1868年)1月2日、開陽丸は兵庫港を出港した薩摩藩の平運丸に対し、停船を命じたが応じなかったため実弾で砲撃。翌日、薩摩側が抗議したが、武揚は万国公法(国際法)に則ったものと突っぱね、鳥羽伏見の戦いの引き金に。鳥羽伏見の戦いが勃発後、開陽丸は阿波沖で薩摩藩の春日丸、翔凰丸を砲撃し、翔凰丸を由岐浦に座礁させて圧倒的な勝利を得たということ。

2-4、武揚、開陽丸から置いてけぼりを食らう

武揚は鳥羽伏見での旧幕府軍敗北で、軍艦奉行矢田堀景蔵ともに幕府陸軍と連絡を取るために船を降りて上陸、大坂城へ入ったが、6日夜、なんと15代将軍慶喜は会津、桑名候、老中、若年寄らを連れて大坂城を脱出し、7日朝に艦長武揚不在の開陽丸に乗船し、艦長武揚不在では出航できないと副長澤太郎左衛門は拒否したが、是が非でも江戸へ出航せよという慶喜に押し切られたということ。いくらなんでも艦長不在で出航は前代未聞だそう。

武揚はその後、大坂城にあった什器や刀剣、18万両を勘定奉行並小野友五郎とともに順動丸と翔鶴丸に積みこみ、自身は新選組や旧幕府軍の負傷兵らとともに富士山丸に乗って12日に大阪湾を出発、15日に江戸に到着。そして1月23日に、海軍副総裁に任ぜられ、徹底抗戦を主張したが、恭順姿勢の慶喜は採り上げず、海軍総裁の矢田堀も慶喜の意向に従ったので、武揚派が旧幕府艦隊を支配することに。

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この慶喜のトンズラ話は何度目かな、何度見ても理解できんわ

2-5、江戸城無血開城後、蝦夷地開拓目指して艦隊8隻で脱走

慶応4年(1868年)4月11日、新政府軍は江戸開城に伴って、降伏条件として旧幕府艦隊の引渡を要求するが、武揚は拒否し、人見勝太郎や伊庭八郎が率いる遊撃隊を乗せて艦隊8隻で品川沖から安房国館山に脱走。しかし勝海舟の説得で4月17日に品川沖へ戻り、ボロい方の富士山丸、朝陽丸、翔鶴丸、観光丸を新政府軍に引渡し、主力艦は温存したということ。

武揚は閏4月23日には勝に艦隊の箱館行きを相談するが、勝は反対。その後の武揚は、配下の軍艦で、遊撃隊や請西藩主林忠崇に協力、脱走兵を東北地方へ運ぶなど旧幕府側勢力を支援。7月には奥羽越列藩同盟の密使と会合し、列藩同盟の参謀に支援を約束したそう。そして8月19日、抗戦派の旧幕臣らとともに開陽丸、回天丸、蟠竜丸、千代田形、神速丸、美賀保丸、咸臨丸、長鯨丸の8艦の旧幕府艦隊を率いて江戸を脱出、奥羽越列藩同盟の支援に向かったが、この艦隊には、元若年寄永井尚志、陸軍奉行並松平太郎をはじめとして、彰義隊や遊撃隊の生き残りや、フランス軍事顧問団のジュール・ブリュネとアンドレ・カズヌーヴなど、総勢2000余名が乗船。

しかし艦隊が到着した8月下旬には奥羽列藩同盟は崩壊し、仙台藩も降伏決定したため、旧幕府艦隊は、桑名藩主松平定敬、新選組の土方歳三、旧幕府陸軍総裁大鳥圭介ら、旧幕臣の伝習隊、衝鋒隊、仙台藩を脱藩した額兵隊などからなる約3000名を収容して、蝦夷地へ向かうことに。仙台を離れる際武揚は、塩竈(現・宮城県塩釜市)にいた奥羽鎮守総督宛てに、「旧幕臣の救済とロシアの侵略に備えるため、蝦夷地開拓が目的、朝廷に弓引くものではない」という趣旨の書面を送ったそう。

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