この記事では、天才科学者として名を遺すフリッツ・ハーバーについて学んでいこう。

化学の教科書で必ずといっていいほど名前を見るハーバーですが、どんな人生を送ったか知っているでしょうか?彼の生涯は非常に興味深い。ただ名前を覚えるだけでなく、その人生や人となりを知ることで、学習がより面白くなるぞ。

解説者には、大学で生物学を学び、現在は講師として化学を教えているオノヅカユウをよんです。

ライター/小野塚ユウ

生物学を中心に幅広く講義をする理系現役講師。大学時代の長い研究生活で得た知識をもとに日々奮闘中。「楽しくわかりやすい科学の授業」が目標。

フリッツ・ハーバー

フリッツ・ハーバー(Fritz Haber)は、19世紀から20世紀にかけて活躍したドイツ出身の科学者です。アンモニアの合成方法を開発したことで特に知られています。

生涯

ハーバーは1868年にプロイセン王国のブレスラウ(現在のポーランド、ヴロツワフ)という街で、ユダヤ人の家系に生を受けました。

母親は産後の経過が悪く、彼が生まれて数週間後に死去してしまいます。父親とはあまり仲が良くありませんでしたが、ヘルマンという叔父の援助や、父親が再婚した女性(つまり義理の母)の理解を得て成長しました。

学校を卒業後、一時ははたらきに出ますが仕事が合わず、大学へ進学することを決めます。

1886年にベルリン大学に入学すると、ハーバーは化学の勉強にうちこみました。その後ハイデルベルク大学にうつると、ここでロベルト・ヴィルヘルム・ブンゼンに師事。ブンゼンはグスタフ・ロベルト・キルヒホフとともに、セシウムやルビジウムといった元素を発見した化学者です。

その後2年間兵役についたのち、今度はシャルロッテンブルク工科大学で有機化学を学びました。同校在籍中の1891年に博士号をとると、居場所を求めて複数の大学や職場を転々とします。

結果的にハーバーは、ドイツ最古の工業大学として知られるカールスルーエ工科大学で助手としてはたらくことになりました。

Karlsruhe - Institute of Technology - Victoriapensionat I.jpg
Haeferl - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

カールスルーエ工科大学で研究をするようになると、その成果が他の研究者にも認められるようになります。無給の助手から、有償で講義ができる講師へと昇格し、ときには教科書の執筆なども行いました。

そして1904年、ハーバーの研究成果で最も有名な“窒素分子からアンモニアを合成する方法”の開発に着手することになります。化学メーカーの研究者カール・ボッシュと協力して完成させた、新しいアンモニア合成方法であるハーバー・ボッシュ法は、ドイツ内外の化学者を驚かせました。

のちにハーバーは、このハーバー・ボッシュ法を開発したことが評価され、1918年にノーベル化学賞受賞という栄光を手にします。

1914年の7月、第一次世界大戦が勃発し、ドイツ国内では軍事色が強くなっていきました。愛国心の強いハーバーは、自分の化学の知識をドイツの勝利に役立てたいと考え、軍に名乗りをあげます。

初めはガソリンの凍結防止剤を開発したりしていましたが、のちに毒ガスの開発に注力するようになりました。

image by iStockphoto

ハーバーの開発した毒ガスは実際に戦いの中で使用され、多くの犠牲者を出しました。それを受け、ドイツと戦っていた連合軍側でも毒ガスの開発を盛んにおこなうように。両陣営がどんどん強力な毒ガスを使用する戦況へと転じていきました。

毒ガス開発に夢中になるハーバーに、あるとき悲劇が訪れます。カールスルーエ大学時代に結婚していた妻のクララが、毒ガス開発を辞める気のないハーバーに絶望し、自ら命を絶ったのです。

それでもハーバーは毒ガス研究を辞めませんでしたが…1918年11月にドイツは敗戦し、第一次世界大戦は終わりました。

image by iStockphoto

もはやハーバーは「敗戦国で毒ガスを開発していた化学者」です。とらえられるのを恐れた彼は一時スイスへ逃亡しましたが、結局逮捕はされず、ドイツに舞い戻りました。

ちょうどこのタイミングで、ハーバーがノーベル化学賞の受賞者に選ばれたことが判明します。前述の通り、受賞理由は「アンモニア合成法の開発」ですが、ハーバーはその直前まで起きていた戦争の毒ガス研究者でした。そのため、彼のノーベル賞受賞については反対意見も多く、かなり物議をかもしたようです。

ノーベル賞受賞後は、研究所で新しい研究に着手したり、若手の研究者をまとめるなどしてドイツの科学界をリードしていきます。1924年、56歳の時には再婚した妻を伴って世界を旅し、日本にもしばらく滞在しました。

\次のページで「ハーバーの業績」を解説!/

旅行中には各国の化学者から歓迎を受け、ドイツでは多方面で研究成果を出すなど、充実した生活を送っていたハーバーでしたが、そんな生活を一変させる事態が起きます。ドイツにおけるナチスの台頭です。

ハーバーが代表を務めていたたカイザー・ヴィルヘルム物理化学研究所。ここに複数のユダヤ人を雇っていたハーバーに対し、ナチスからユダヤ人を減らすよう命令が下ります。

そもそもハーバー自身がユダヤ系の出身でしたが、若い時にユダヤ教からプロテスタントへ改宗しており、さらに化学での研究が国に貢献していることも評価されていたので、彼自身が粛清を受けることはありませんでした。

Fritz Haber.png
The Nobel Foundation - http://nobelprize.org/chemistry/laureates/1918/index.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

それでもユダヤ人差別を良しとしないハーバーは辞表を書き、研究所を去ります。国内外で新しい仕事を探しますが、「毒ガス博士」のイメージから風当たりが強かったこともあり、なかなか一か所に腰を落ち着けることができませんでした。

1934年、これから新しい国へ移動しようとしているさなか、スイスのバーゼルで体長が急変し息を引き取ります。国のために尽くし、最後には国に裏切られた科学者の、65年の生涯でした。

image by Study-Z編集部

ハーバーの業績

アンモニアの合成法「ハーバー・ボッシュ法」

ハーバーのノーベル賞受賞理由にもなった「ハーバー・ボッシュ法」は、空気中にふくまれる窒素と、メタンから取り出した水素を原料にしてアンモニアを作り出す技術です。

窒素分子の結合をバラバラにするためには、かなりの高温高圧状態にしなければならないのですが、ハーバーとボッシュは触媒を工夫することで、その障害を乗り越えました。

\次のページで「なぜ「アンモニアの合成」が重要なのか?」を解説!/

なぜ「アンモニアの合成」が重要なのか?

アンモニアといえば高校化学でも初めの方に登場する、比較的なじみ深い物質ですよね。なぜこのアンモニアが重要視されるのかといえば、それはこの物質が作物の肥料として必要になるためです。

ハーバー・ボッシュ法が発明されるまで、アンモニアは主に硝石、つまり鉱物を原料にしてつくられていました。鉱山から掘り出す硝石の量には限界があります。いずれ硝石が底を尽きれば、肥料がつくれなくなり、人口を支える分の作物ができず、飢餓が訪れると考えられていました。

その反面ハーバー・ボッシュ法は、空気中にいくらでもある窒素と、人工的な合成も可能で、発酵によっても得られるメタンからできる水素を使います。硝石が尽きる心配がなくなり、増え続ける人口を支えるための肥料の原料が大量生産できるようになったのです。

フリッツ・ハーバーの栄光と転落

フリッツ・ハーバーの人生は、一言で表すには難しい奇妙なものです。

「肥料にも火薬にも使われるアンモニアの合成方法の確立」、「アンモニアの合成と毒ガスの開発という、異なる方向性の研究」、「ユダヤ家系に生まれながらも改宗し、最後はユダヤ人に味方して離職」、「祖国に尽くしながらも、最後には祖国に裏切られた科学者」…。

運命に翻弄された生涯だったように感じます。それでも、彼がその折々に自身の持つ化学の知識を十分に発揮した天才科学者であったことは間違いないでしょう。

" /> 天才科学者「フリッツ・ハーバー」はどんな人物?現役講師がわかりやすく解説 – Study-Z
化学

天才科学者「フリッツ・ハーバー」はどんな人物?現役講師がわかりやすく解説

この記事では、天才科学者として名を遺すフリッツ・ハーバーについて学んでいこう。

化学の教科書で必ずといっていいほど名前を見るハーバーですが、どんな人生を送ったか知っているでしょうか?彼の生涯は非常に興味深い。ただ名前を覚えるだけでなく、その人生や人となりを知ることで、学習がより面白くなるぞ。

解説者には、大学で生物学を学び、現在は講師として化学を教えているオノヅカユウをよんです。

ライター/小野塚ユウ

生物学を中心に幅広く講義をする理系現役講師。大学時代の長い研究生活で得た知識をもとに日々奮闘中。「楽しくわかりやすい科学の授業」が目標。

フリッツ・ハーバー

フリッツ・ハーバー(Fritz Haber)は、19世紀から20世紀にかけて活躍したドイツ出身の科学者です。アンモニアの合成方法を開発したことで特に知られています。

生涯

ハーバーは1868年にプロイセン王国のブレスラウ(現在のポーランド、ヴロツワフ)という街で、ユダヤ人の家系に生を受けました。

母親は産後の経過が悪く、彼が生まれて数週間後に死去してしまいます。父親とはあまり仲が良くありませんでしたが、ヘルマンという叔父の援助や、父親が再婚した女性(つまり義理の母)の理解を得て成長しました。

学校を卒業後、一時ははたらきに出ますが仕事が合わず、大学へ進学することを決めます。

1886年にベルリン大学に入学すると、ハーバーは化学の勉強にうちこみました。その後ハイデルベルク大学にうつると、ここでロベルト・ヴィルヘルム・ブンゼンに師事。ブンゼンはグスタフ・ロベルト・キルヒホフとともに、セシウムやルビジウムといった元素を発見した化学者です。

その後2年間兵役についたのち、今度はシャルロッテンブルク工科大学で有機化学を学びました。同校在籍中の1891年に博士号をとると、居場所を求めて複数の大学や職場を転々とします。

結果的にハーバーは、ドイツ最古の工業大学として知られるカールスルーエ工科大学で助手としてはたらくことになりました。

Karlsruhe - Institute of Technology - Victoriapensionat I.jpg
Haeferl投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

カールスルーエ工科大学で研究をするようになると、その成果が他の研究者にも認められるようになります。無給の助手から、有償で講義ができる講師へと昇格し、ときには教科書の執筆なども行いました。

そして1904年、ハーバーの研究成果で最も有名な“窒素分子からアンモニアを合成する方法”の開発に着手することになります。化学メーカーの研究者カール・ボッシュと協力して完成させた、新しいアンモニア合成方法であるハーバー・ボッシュ法は、ドイツ内外の化学者を驚かせました。

のちにハーバーは、このハーバー・ボッシュ法を開発したことが評価され、1918年にノーベル化学賞受賞という栄光を手にします。

次のページを読む
1 2 3 4
Share: