日本史

会津戦争の悲劇、少年達で結成された「白虎隊」を元塾講師が分かりやすく5分で解説

よぉ、桜木建二だ。今日は白虎隊について勉強していくぞ。日本の歴史を学ぶ中ではたくさんの戦争を見ていくことになるが、そこには悲劇が多く、特に青少年や子供が巻き込まれた戦争は尚更だろう。

白虎隊もそんな悲劇の一つであり、会津戦争(あいづせんそう)の果てに16歳~17歳の少年達の若い命が散っていった。そこで、今回は白虎隊について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から白虎隊をわかりやすくまとめた。

戊辰戦争が起こったいきさつ

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日米修好通商条約締結での幕府の信頼低下

白虎隊が登場する会津戦争は戊辰戦争の中で起こった戦いです。そして、戊辰戦争とは「薩摩藩・長州藩・土佐藩などを中心とした新政府軍」と「江戸幕府・会津を始めとした奥羽越列藩同盟などの旧幕府軍」との戦いで、1868年から1869年にかけて行われました。

しかし、思えば江戸幕府を代々引き継いできた徳川家は、かつて豊臣家を滅ぼして戦国時代を終わらせるほどの力を持つ存在。そんな江戸幕府が、なぜ戊辰戦争で追い込まれるほど力が衰えてしまったのでしょうか。そのきっかけは、1858年の日米修好通商条約の締結にありました。

1854年の日米和親条約で日本は開国、外国との交流が生まれた中で1858年にアメリカのハリスと日米修好通商条約を締結させます。ここで2つの問題が起こり、1つはこの条約が不平等条約であったこと、もう1つは条約締結の調印を幕府が天皇に無許可で行ってしまったことです。

武力行使で旧幕府軍を倒そうとした新政府軍

最も、日米修好通商条約の不利な点は幕府も承知でしたが、何しろ相手はアメリカで、日本を支配する幕府ですら怖れる存在でした。そうなると民衆は「幕府は頼りにならない」と不満を抱くようになり、幕府ではなく天皇によって政治を進めるべきと考える尊王攘夷論が生まれます。

一方の幕府は、そんな尊王攘夷派を弾圧するため安政の大獄を行いますが、これが全くの逆効果。弾圧の代償として安政の大獄の主導者である大老・井伊直弼は白昼に暗殺されてしまい、さらなる信頼低下を招いてしまいました。やがて、日本では倒幕を掲げる人々が増えていきます。

第15代将軍・徳川慶喜はそんな不穏な空気を見抜いたのか、1867年に大政奉還を行って自ら幕府の歴史に幕を閉じました。しかし、新政府樹立が宣言されてもなお徳川慶喜は権力を持ち続けたため、新政府軍は武力行使によって旧幕府軍を倒すことを決意、このようにして戊辰戦争が起こります。

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幕末では幕府の権威が低下しており、それはアメリカと不平等条約を締結させたことがきっかけだ。人々が倒幕を掲げる中、徳川慶喜は大政奉還を行う。しかしなお権力を維持させていたため、新政府軍は戊辰戦争に起こして旧幕府軍を倒そうとした。

鳥羽・伏見の戦い

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徳川慶喜を戦場に引きずり出した挑発行為

徳川慶喜は頭が切れる人物です。薩摩藩・長州藩などの雄藩も新政府軍に加わった今、現状の幕府では戦っても勝てないと分かっていたのでしょう。そのため安易に戦争に応じようとはせず、そこで西郷隆盛が薩摩藩の浪士を使って江戸にて強盗・略奪を繰り返して治安を荒らします。

要するにこれは挑発行為、徳川慶喜を怒らせて戦場に引きずり出すのが目的でした。度を超えた挑発行為にとうとう怒りが頂点に達した旧幕府軍、薩摩藩討伐の声が高まる中で徳川慶喜もさすがにそれを否定できず、とうとう新政府軍と旧幕府軍の戦いが始まったのです。

戊辰戦争の緒戦となったのが鳥羽・伏見の戦いで、鳥羽街道の小枝橋辺りで両軍が衝突したことによって戦闘が起こります。銃火器を持つ新政府軍は戦いを有利に進め、旧幕府軍は一時撤退。反撃を試みるも戦況を一転させるまでには至らず、一方で新政府軍には次々と兵士が加わっていきます。

鳥羽・伏見の戦いの決着

新政府軍には土佐藩が加わり、さらには旧幕府軍についていた津藩が新政府軍へと寝返ります。追われる旧幕府軍は淀藩を頼って淀城への入城を求めるものの、朝廷側と戦う意思のない淀藩はこれを拒みました。旧幕府軍の敗北が濃厚となった中、徳川慶喜は「千兵が最後の一兵になろうとも決して退いてはならぬ」と兵士達の士気を高めます。

しかし、あろうことか徳川慶喜自身は側近を連れて船で江戸へと退却。徳川慶喜は卑怯者と表現されることがありますが、その原因は鳥羽・伏見の戦いにおけるこの逃亡行為にありました。この時、会津藩主の松平容保も徳川慶喜と共に退却しており、松平容保は戊辰戦争に勝ち目がないことを悟ったかもしれません。

結局、徳川慶喜の退却によって旧幕府軍の士気は下がってしまい、鳥羽・伏見の戦いに勝利したのは新政府軍でした。最も、これはあくまで緒戦であって戊辰戦争の決着がついたわけではありません。この後、戦火はさらに広がっていき、白虎隊の悲劇が語られる会津戦争が起こることになるのです。

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鳥羽・伏見の戦いで勝利したのは新政府軍だった。最も、この戦いは戊辰戦争の緒戦であり、戦いはまだ続く。今回勉強する白虎隊に関係するのはこの後に起こる会津戦争であり、藩主の松平容保が鳥羽・伏見の戦いで退却していることに注目だ。

会津戦争が起こった原因

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新政府軍に対抗した奥羽越列藩同盟

鳥羽・伏見の戦いで会津藩は旧幕府軍として戦ったものの敗北、退却した松平容保は謹慎して新政府軍に従い、降伏する意思を固めていました。とは言え、会津藩の全員が降伏を考えたわけではなく、中には戦いを続けようとする主戦論を唱える者も存在したそうです。

そのため、いくら松平容保が降伏の意思を示しても、新政府軍はそれを信用しようとしませんでした。鳥羽・伏見の戦いの影響からか、新政府軍は信用しないどころか会津藩が旧幕府軍の中心勢力とも思っていたのです。そこで新政府軍は仙台藩・庄内藩に会津藩討伐の命令を下します

しかし仙台藩も庄内藩もその命令を拒否、それどころか抵抗する構えを見せ、会津藩や北陸諸藩などと共に奥羽越列藩同盟を締結させて新政府軍と戦おうとしました。これが会津戦争の直接の原因だと言われており、新政府軍との戦いが迫る中、会津戦争はそれに備えて軍政改革を行います。

会津藩の軍制改革

これまで、会津藩は精神論を重んじてきました。しかし戦いが間近に迫った今、戦力重視の軍制改革を行いました。まず、軍の体制をフランス式へと変更、装備を洋式に改めた上で年齢別に分けた4つの部隊を作ります。50歳以上の玄武隊、36歳~49歳の青龍隊、18歳~35歳の朱雀隊、そして16歳~17歳の白虎隊

部隊名の由来は、天の方位の神々とされる四神である東の青龍、西の白虎、南の朱雀、北の玄武で、中国の神話で語られる存在です。神話と聞くと神々しさを感じますが、四神の名前はゲームで登場することがありますし、風水でも用いられるため、これらに詳しい人はむしろ親しみを感じるかもしれませんね。

部隊に定められた年齢から想像できますが、4つの部隊の主力は18歳~35歳の朱雀隊。一方で50歳以上の玄武隊や16歳~17歳の白虎隊はあくまで予備軍の扱いで結成されました。予備軍である白虎隊は基本的に戦闘に参加することなく、警備を主な任務として担っていたのです。

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鳥羽・伏見の戦いの敗北から降伏の意思を示した松平容保。しかし新政府軍はそれを信用せず、そのため会津藩は新政府軍との戦いに備えた。そこで軍制改革を行い、白虎隊のキーワードはその中で新たに誕生した16歳~17歳の部隊の名前だ。

会津戦争と白虎隊の悲劇

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白虎隊への応援要請

1868年、新政府軍が会津へと侵攻したことで会津戦争が勃発します。会津藩は主力部隊となる朱雀隊を前線に配置、そして青龍隊を国境へと配置しました。しかし、新政府軍に押されて劣勢になった会津藩は白虎隊にも出撃命令を下し、予備軍であるはずの白虎隊に戦闘への参加が命じられたのです。

会津藩が守らなければならないのは鶴ヶ城とも呼ばれる会津若松城、そのため武士達が若松へ通じる街道を封じるものの、新政府軍はこれを突破します。また、会津藩が進軍する上でキーワードとなるのが十六橋ですが、その陥落も作戦どおりにはいかず、戦況は明らかに劣勢でした。

やがて、新政府軍によって会津藩の藩境である母成口が突破されると、戸ノ口原より白虎隊への応援要請が出されます。そのため、松平容保を警護していた白虎隊は戸ノ口原へと出撃し、新政府軍との戦闘が繰り広げられました。例え将来のあるこどもでも、新政府軍にとって今は敵……容赦ない攻撃を受けた白虎隊は、多くの負傷者を出すと飯盛山へと引き返します

飯盛山の自刃

何とか飯盛山へと逃げのびた白虎隊でしたが、そこで目にしたのは炎に包まれた会津若松城と城下町の光景。仕えるお城が焼け落ちるその光景は、白虎隊に絶望を与えるにはじゅうぶんすぎるほどであり、戦いに勝ち目がないと悟ったことで自害を決意するのでした。

最も、この時会津若松城は籠城中でしたから、光景どおり陥落していたわけではありません。とは言え、炎に包まれる会津若松城の光景は、少年達から見れば陥落したように映ったのかもしれませんが、実際にはまだ陥落していないことを知っていたとも言われています。

しかし、どちらにしても負け戦となることは確実で、敵に捕まるのは恥さらしと考えた白虎隊はここ飯盛山で集団自決したのです。飯盛山へと逃げのびた20名の白虎隊は19名が自害して死亡。急所が外れていたため、ただ1人生き残った飯沼貞吉は白虎隊の生き様を後世に伝えました。

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白虎隊の動きをまとめておこう。白虎隊が戦った場所は現在の福島県会津地方。会津戦争で本来の警護の任務ではなく戦争への参加を命じられ、負傷した彼らは飯盛山へと逃げのびて集団自決、これが飯盛山の自刃と呼ばれる由来だな。

白虎隊と会津藩の歴史

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西南戦争で薩摩藩への恨みを晴らす

白虎隊についてを学ぶと、西南戦争で明治政府軍が勝利した要因が何となく分かるかもしれません。もちろん一般論となる直接の勝因は兵力や武器の差によるものでしょうが、会津藩の人々からすれば西南戦争で薩摩藩への恨みを晴らしたい執念で勝利したとも言えるのではないでしょうか。

会津戦争で新政府軍として戦っていたのは薩摩藩であり、つまり薩摩藩は会津藩にとって会津戦争での恨みがあります。しかし、西南戦争ではこれが一変して薩摩藩は明治政府と戦う立場ですし、一方の会津藩は明治政府側として戦う立場でした。つまり、西南戦争は会津藩にとって会津戦争の復讐を果たす機会でもあったわけですね。

また、会津戦争後の会津藩への待遇は酷かったようで、戦死者の埋葬は禁止され、放置されたままとなった死体は鳥のエサになっていました。さらに領土も占領されて失ってしまったため、会津藩の人々はこの時の恨みを忘れることはなく、その恨みを晴らすため西南戦争では多くの会津藩の人々が明治政府軍としての参加に志願したようです。

飯盛山の自刃の真実

白虎隊の悲劇と忠誠心は後世に語り継がれ、今でも多くの人々に知られていますね。例えば、白虎隊のふるさとである会津若松市では年2回の墓前祭が行われていますし、白虎隊記念館では当時の史料が大切に保管され、戊辰戦争における会津藩の遺品や写真が展示されています。

何も知らない場合は有名な観光スポット程度に思うだけかもしれませんが、白虎隊のお話を聞くとその重みが分かるでしょう。ちなみに、当初白虎隊は会津若松城陥落の誤認による自刃が一般的な解釈となっていますが、生き残った飯沼貞吉の手記では真実はそれと異なるものになっています。

会津若松城が炎に包まれる光景を目にしたのは事実です。しかし、そこで白虎隊は会津若松城に戻って戦う、もしくは決死の覚悟で敵陣へと突入する意見が挙がっており、その末に敵に捕まる醜態を晒すよりも自刃を決意したとされています。これが飯盛山の自刃の事実です。

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西南戦争は明治政府と薩摩藩の戦いで、「明治政府軍=戊辰戦争の新政府軍」だ。つまり薩摩藩は会津戦争で新政府軍として戦い、会津戦争にとって薩摩藩は恨むべき敵。その恨むべき敵への復讐のため、西南戦争では明治政府軍についた。

白虎隊だけでなく会津藩についても覚えよう!

白虎隊を覚えるポイントはそれほど多くありません。白虎隊の構成を知れば、おのずと悲劇と呼ばれる理由も分かるでしょうし、覚えるべき戦いも会津戦争のみであるため、これもそれほど苦労しないでしょう。

ただ、白虎隊を覚えるからには戊辰戦争における会津藩を覚える必要があります。なぜ会津藩が新政府軍の敵となっていたのか、奥羽越列藩同盟とは何か、このあたりを覚えることに努めてください。

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