4-8、ルイーザ(1500年 – 1553年)
またはルイーズ・ド・ヴァランティノワ、リモージュ女子爵、ペリゴール女伯爵。1500年5月、チェーザレと、その妻でナヴァ―ル王フアン3世の妹シャルロット・ダルブレの長女としてフランスで誕生。1507年に一度も会うことのなかった父チェーザレと死別。1517年4月、40歳年上のタルモン公ルイ2世・ド・ラ・トレモイユの後妻になるも、夫は1525年戦死。1530年にビュッセ男爵フィリップ・ド・ブルボンと再婚、6人の子女をもうけたということ。
4-9、フランシスコ(1510年 – 1572年)
フランシスコ・ボルハ、フアンの長男の第3代ガンディア公フアン・ボルハ(フアン・ボルジア)とアラゴン王女フアナの長男としてバレンシアのガンディア近郊で誕生。フランシスコはアレクサンデル6世の曾孫にあたる人。
小さい頃から信仰深かったが、家族に送り込まれた神聖ローマ皇帝カール5世の宮廷で、皇帝に同行して何度も従軍するなど活躍し、1526年9月にはマドリードでポルトガル貴族のレオノール・デ・カストロ・メロ・エ・メネゼスと結婚して、8子に恵まれたそう。カタルーニャの副王に命じられて統治、そして父が亡くなった後にガンディア公位を継承したが妻子と共に故郷で祈りの毎日を過ごし、スペインを訪れていたピエール・ファーヴルと出来たばかりのイエズス会を知り、イグナチウス・ロヨラと文通。
そして1546年に妻が亡くなった後、フランシスコは世俗の生活を捨て、長子カルロスに称号を譲って修道者になり、イエズス会へ入会。貴族の出身で有能だったため、1554年、ロヨラ死去の後、敵意が噴出して異端審問所の監視下に置かれるなどしたため、ロヨラの後継者がローマへ派遣したということだが、その後1565年には3代目のイエズス会総長に就任。
フランシスコはイエズス会の総長として目覚ましい働きを見せ、「イグナチオ・デ・ロヨラ以降最高の総長」と言われたそう。現在のグレゴリアン大学の前身のローマ学院 を創設し、また歴代のローマ教皇、国王にも助言したり、イエズス会を指導したが、つつましい生活を送って生前から聖人の誉れが高く、1572年5月にピウス5世が亡くなった後、ローマ教皇の公認候補になったが、9月にローマで死去。1671年に聖人として列聖されたということ。
5、ボルジア家の毒とは
ボルジア家は謀略の一族で、資産のある司教や枢機卿に対して適当な罪をかぶせて逮捕し処刑、資産を奪って富を増やしたと言われています。
そしてスイスの歴史家が著書で「あの雪のように白く、快いほど甘美な粉薬」と形容した「カンタレラ」という毒薬をワインに入れて使用したとか、ルクレツィアは中が空の指輪に毒を仕込んでいて、飲み物に混ぜて相手を毒殺するために使用したという話も。しかし当時はたしかに毒薬を用いることはあったが、確実に殺せる手段ではなかったため、暗殺にはチェーザレの腹心のミケロットのような刺客を用いた方が確実だった、ボルジア家の毒殺は事実ではないということ。
また、ボルジア家は悪徳の栄えの権化のように言われたのも、アレクサンデル6世の後に選出された長年のライバルのローヴェレ枢機卿ことユリウス2世が悪評を広めたせいで、アレクサンデル6世は縁故主義を用いた当時の典型的な教皇で、ボルジア家の行ったことは当時のイタリアとしては突出した悪事ではなく、ルクレツィアとチェーザレらの近親相姦の話も盛った話ではと、最近は再評価もされているそう。
彗星のごとく現れて消えた歴史上悪名高い一族
ボルジア家はスペインの土豪の出身で、聖職に入ったアロンソが枢機卿からローマ教皇カリストゥス3世となり、当時の縁故主義とスペイン人としてローマで孤立しないため甥たちを呼び寄せて出世させ、ボルジア家繁栄の基礎を築きました。
その後は枢機卿に抜擢した甥のロドリーゴが引き継ぎ、あの手この手を使って富を作り買収してローマ教皇に選出、アレクサンデル6世となり、庶子のチェーザレを右腕に暗殺から富の横取り、軍隊を率いて連戦連勝と、マキャヴェリが理想の君主像に描いたほどの活躍、また美貌の娘のルクレツィアを政略結婚の道具に使いと、ボルジア家は私腹を肥やし、群雄割拠のイタリア統一を目指してより混乱させることに。
しかしローマ教皇は世襲制ではないためアレクサンデル6世が亡くなると、チェーザレはたちまち没落。歴史に登場するのはたいていここまでで、悪評をもって終わるのですが、その後、娘のルクレツィアは意外にも婚家に頼りにされるほどの存在感を発揮し、しっかりと家を守ったし、チェーザレに殺されたとされるファンの孫はなんと敬虔な本物の聖職者となり、のちに列聖されたというボルジア家の意外な後日談ももっと知られてもいいのではないでしょうか。




