今回はボルジア家を取り上げるぞ。悪名高い一族らしいが、いろいろと詳しく知りたいよな。

その辺のところをヨーロッパ史も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、ヨーロッパの歴史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、ボルジア家について5分でわかるようにまとめた。

1-1、ボルジア家とは

ボルジア家は、スペイン人の高位聖職者としてローマ教皇に就任したアロンソ・デ・ボルハ、カリストゥス3世が、甥たちを縁故主義(ネプティズム)で出世させたことが発端で、甥のロドリーゴ・ボルジアがローマ教皇に就任後、庶子のチェーザレの活躍で教皇領で勢力を伸ばし、娘のルクレツィアを政略結婚させ、愛人たちも堂々とバチカンに住居させ、裕福な司教や枢機卿ら他人の資産を処刑して強奪するなど、悪徳の限りを尽くし栄華を極めた一族として歴史に名を遺すことに。

尚、ボルジアはイタリア語で、スペイン語ではボルハに。

1-2、ボルジア家のルーツはスペイン

マリオン・ジョンソン著「ボルジア家」によれば、ボルジア家はスペイン北東部アラゴンの古い王族の末裔を称したが、スペイン深北部のエブロ渓谷のボルハの街に由来する姓で、土着の郷士だったそう。一族の祖先はアラゴン王ハイメ1世がムーア人からバレンシア奪回するための遠征に参加し、功績として与えられたハティバ周辺の土地に住み着き、繁栄したということ。

この時代の郷士の選ぶべき道は、「教会か海か王家」のいずれかだったということで、王家に仕えてムーア人を撃退する兵士に、コロンブスの新大陸発見後、海の男として新大陸へ渡って征服するというのが加わり、その他の男子が教会入りして聖職者の道へ。また、当時の騎士たちは戦闘能力はあっても、無学で教養がなかったため、大学で倫理学やラテン語、諸外国語、法律などの学問を学んだ聖職者は十分に出世の道が開けていたということ。

1-3、ボルジア家勃興までに起きた象徴的な事件

ボルジア家の祖といわれるアロンソ(のちのカリストゥス3世)は、マリオン・ジョンソン著「ボルジア家」によれば、冷静で学者肌の禁欲的な人間として個人的なスキャンダルにはほど遠かったということ。

しかし1420年10月、アロンソの妹イザベラと結婚していたホフレ・デ・ボルハ(のちのアレクサンデル6世の父)は、義弟と三人の部下とともに、義弟を領主権乱用で告発するモンテフェラトを待ち伏せて殺害。

この残忍な事件に、バレンシア提督が現地ハティバへ赴いて裁判を主宰、犯人全員に死刑が宣告されて家族に莫大な罰金が科せられたが、刑の執行前に被告人は全員国外逃亡し、被告人不在で家財が競売に付されることに。しかしボルハ家と義弟家が判決の不備申し立てをしたため、アルフォンソ5世の留守を預かるマリア王妃が判決を破棄、そして2年後に裁判を無効として、殺人事件がなかったことにされたということ。

このことに当時王室顧問会議の副長官で、アルフォンソ5世の覚えもめでたかったアロンソが関わっていたことは間違いなく、ホフレはその後順調に生きて、アロンソの助力でカプデトの城主になり翌年死去したが、息子たちはアロンソが面倒をみて出世させたということで、のちのローマでのボルジア家をほうふつとさせる出来事では。

2-1、ボルジア家のメンバーたち

image by PIXTA / 23196969

ボルジア家で最初に出世して教皇となり、甥たちを引き立てて繁栄の祖と言われるカリストゥス3世、そしてその甥のアレクサンデル6世を中心としたボルジア家の有名なメンバーをご紹介しますね。

2-2、カリストゥス3世(1378年 - 1458年)

カリストゥス3世
Juan de Juanes and workshop - [1], パブリック・ドメイン, リンクによる

アルフォンソ・デ・ボルハ、スペインのバレンシア地方のハティバで誕生。

当時は教会大分裂の時代で、アヴィニョン対立教皇クレメンス7世の側近だった、ペドロ・デ・ルナ(後の対立教皇ベネディクトゥス13世)の補佐ビセンテ・フェレールが、バレンシア各地で演説を行ったときに出会い、将来教皇に出世すると予言されたということ。その後、レリダの大学で法学を学び講師となり、1394年にベネディクトゥス13世が選出された後、レリダ大聖堂参事会員となってベネディクトゥス13世に仕えたそう。そして外交官としてアラゴン王アルフォンソ5世に仕え、1429年にベネディクトゥス13世の後任の対立教皇クレメンス8世の退位での功績が認められて、マルティヌス5世によってバレンシア司教に任命。

1444年にエウゲニウス4世から枢機卿に任命され、ローマへ移住、3人の甥(ロドリーゴを含む)をバレンシアの高位聖職者にした後、1455年、ニコラウス5世の没後のコンクラーヴェで教皇に選出、カリストゥス3世に。76歳で余命いくばくもなく中継ぎという名目で選出されたということ。

しかし教皇になるや、妹イサベルの息子ロドリーゴ(後のアレクサンデル6世)と姉カタリーナの息子ルイス・フアン・デ・ミーラを枢機卿に登用、ロドリーゴの兄ペドロ・ルイスを教皇軍総司令官、スポレート公に任じたりと、スペイン出身者を周囲に集めて高位を与えたためにローマ市民を憤慨させたが、自身の教皇出世を予言したフェレールを列聖、ジャンヌ・ダルクの復権裁判を行って裁判判決を覆したということ。

\次のページで「2-3、アレクサンデル6世(1431年‐1503年)」を解説!/

2-3、アレクサンデル6世(1431年‐1503年)

Pope Alexander Vi.jpg
Cristofano dell'Altissimo - http://www.comune.fe.it/diamanti/mostra_lucrezia/quadri/q08.htm, パブリック・ドメイン, リンクによる

ロドリーゴ・ボルジア、スペイン、バレンシア地方ハティバで誕生。

伯父の教皇カリストゥス3世により25歳で枢機卿に任命され,パウルス2世時代に教皇庁内で勢力を拡大,シクストゥス4世の教皇選挙を画策するなど5代の教皇にバチカンの実質ナンバー2として仕えた後、贈賄工作で教皇の座を手に入れてアレクサンデル6世として教皇に就任。

ボルジア家の一族を教皇庁の要職、高位の聖職者に任命し、フランス王シャルル8世をイタリアに引き入れたために、1494年からのイタリア戦争の発端になるなど、世俗的な領主の権力や駆け引きに終始し、娘ルクレツィアを政略結婚に使って外交政策をとったり、息子のチェーザレに教皇軍を指揮させて教皇領主として領土を拡大も。

1503年にマラリアに倒れて亡くなった後、ボルジア家は急速に没落。ライバルだったユリウス2世がボルジア家の悪評を拡散したため、その後も悪徳の権化のように言われたが、今では典型的なルネッサンスの教皇として再評価もされているそう。

3-1、アレクサンデル6世の家族

著名な愛人たち、子供たち、子孫をご紹介しますね。

3-2、愛人ヴァノッツァ・カタネイ(1442年-1518年)

ヴァノッツアは、マントヴァ生まれで、当時枢機卿であったアレクサンデル6世と1460年のマントヴァでの教会会議で出会って恋に落ちたが、聖職者であるために正式な結婚はできず。そしてヴァノッツアは1474年、アレクサンデル6世の指示で教会官吏のドメニコ・ダレニャーノと名目上の結婚。

その後もヴァノッツァとロドリーゴの関係は続き、チェーザレ、ファン、ルクレツィア、ホフレを生んだということ。ヴァノッツアは1480年にはシクストゥス4世の秘書で資産家のジョルジョ・クローチェと再婚、アレクサンデル6世との仲が終わった後も子供たちを通じての関係は続き、子供たちもヴァノッツアを尊重。

ヴァノッツアは1486年にジョルジョが亡くなると遺産を受け継ぎ、すぐにフランチェスコ・ゴンザーガ枢機卿の侍従のカルロ・カナーレと再婚、資産を運営して著名な旅館を経営するなどのやり手だったそう。

3-3、愛人ジュリア・ファルネーゼ(1474年-1524年)

ピエール・ルイジ・ファルネーゼとジョヴァンナ・カエターニの末娘で、オルシーノ・オルシーニと結婚。オルシーノの母アドリアーナ・デル・ミラは野心家で、アレクサンデル6世の又従兄妹。

ジュリアは結婚前、結婚後、時期は不明だが、姑アドリアーナの後押しでアレクサンデル6世と愛人関係に。1492年11月に娘ラウラを出産、父はアレクサンデル6世ではといわれるが、公式にはオルシーノの嫡出の娘とされ遺産も受け継いだということ。

ジュリアは夫とではなく夫の母アドリアーナ・ミラ、ルクレツィアとともにバチカンの宮殿で生活し、ルクレツィアとは親密だったということ。アレクサンデル6世はジュリアを溺愛してジュリアの兄アレッサンドロを枢機卿に叙任、オルシーニ家にカルボニャーノの地を与えたりしたが、1500年頃までには平和裏に別れたそう。

4-1、アレクサンデル6世の子供たち

ヴァノッツアとの間の4人の子供たちが有名ですが、他にも母不明の庶子がいて、貴族と結婚して歴史に名前を残さずひっそり生きた娘や、実父がアレクサンデル6世であったかは不明な子供たちも存在。

また、ジュリア・ファルネーゼの娘でのちに教皇ユリウス2世の甥ニッコロ・デッラ・ローヴェレと結婚したラウラ・オルシーニ(1492年 - 1530年)もアレクサンデル6世の庶子と言われているそう。

\次のページで「4-2、ペドロ・ルイス(1462年? - 1488年)」を解説!/

4-2、ペドロ・ルイス(1462年? - 1488年)

母不明、初代ガンディア公、ボルジア家の軍事担当としてはやくからスペインへ送られたが、若くして死去。

4-3、チェーザレ(1475年 - 1507年)

Cesareborgia.jpg
アルトベロ・メローネ - allposters.com, パブリック・ドメイン, リンクによる

ヴァノッツアの子。教皇となった父の保護のもと、聖職者となり、18歳で枢機卿に。兄弟のファンの死後、聖職者から還俗し、フランスのナヴァール王の妹と結婚、ヴァレンティノワ公に。

その後はローマ教皇領の拡大に努めて、フランスの援軍や傭兵部隊を率いてロマーニャ地方を攻略、すぐれた手腕を発揮したが、父のアレクサンデル6世の没後、新教皇ユリウス2世の選出を後援したのが失敗、裏切られて捕縛されスペインに送られ、1506年に32歳で戦死。チェーザレの権謀術数を駆使した政治的駆け引きは、同時代のマキァヴェリから「君主論」でイタリア統一を成し遂げる理想の君主像として賞賛されることに。

4-4、ファン(1474年? - 1497年)

ヴァノッツアの子。イタリア語ではジョヴァンニ。チェーザレの弟か兄かは不明。ボルジア家の軍事担当として父アレクサンデル6世に溺愛され、1493年、スペイン貴族マリア・エンリケス・デ・ルナと結婚して、2代目ガンディア公爵となり、テッサ公、サン・ピエトロ知事など、多くの称号を授かったが、1497年6月、ローマで暗殺、ファンは傲慢な性格で放蕩で身を持ち崩していたせいか敵も多く、父の溺愛に嫉妬したチェーザレの仕業ではという噂も。

ファンがスペインに残した妻マリアには2子があったが、マリアはイタリアのボルジア家とは縁を切り、スペインの所領を管理して所領のあるガンディアで信仰篤い生活を営んだということで、長男フアンは3代目ガンディア公を継承、孫のフランシスコは後にイエズス会第3代総長になり列聖され、長女フランシスカ・デ・ヘスス・ボルハはバリャドリードの修道院で修道尼に。

4-5、ルクレツィア(1480年 - 1519年)

Lucrezia Borgia.jpg
バルトロメオ・ヴェネト - [1], パブリック・ドメイン, リンクによる

ヴァノッツアの子。当時最高の美女といわれて父や兄にも溺愛され、政略結婚の道具となった女性。最初はスペインの貴族と婚約、解消、ペーザロの君主ジョヴァンニ・スフォルツァと婚約、結婚したが、婚姻が実行されなかったとして解消。

次はアルフォンソ・ダラゴーナと結婚、一子が生まれたが、夫は兄チェーザレに暗殺されたようで、3度目にフェラーラ公の跡継ぎアルフォンソ1世・デステと結婚、多くの子供を産み、フェラーラでは夫の不在時には摂政を務めるなど、ボルジア家没落後もしっかりと生きたが、39歳で産褥熱で死去。

4-6、ホフレ(1482年 - 1522年)

ヴァノッツアの子。アレクサンデル6世は自分の子供ではないと疑っていたよう。

ホフレはナポリ王国の国王アルフォンソ2世の庶子サンチャと結婚したものの、サンチャはチェーザレやホアンと肉体関係があったという噂もある派手で奔放な女性だったということ。ホフレはチェーザレがロマーニャ公爵として活躍した時、軍を率いていたが若すぎて大きな功績は残さず。

父アレクサンデル6世やチェーザレらの死後、ボルジア家が没落した後もスクイッラーチェの領主としてひっそり暮らし、1506年のサンチャの死後、マリア・デ・ミラと再婚、4人の子を儲け、1522年に死去。長男フランシスコの子孫がスクイッラーチェ侯爵。

4-7、ジョバンニ(1498年 - 1548年?)

1498年3月18日以前にローマで生まれたという、ローマ王子と呼ばれるボルジア家の子供は、チェーザレの庶子、またはアレクサンデル6世の庶子と言われ、ルクレツィアとの近親相姦で生まれたという噂まであったが、ルクレツィアの子供ではないという説。

\次のページで「4-8、ルイーザ(1500年 - 1553年)」を解説!/

4-8、ルイーザ(1500年 - 1553年)

またはルイーズ・ド・ヴァランティノワ、リモージュ女子爵、ペリゴール女伯爵。1500年5月、チェーザレと、その妻でナヴァ―ル王フアン3世の妹シャルロット・ダルブレの長女としてフランスで誕生。1507年に一度も会うことのなかった父チェーザレと死別。1517年4月、40歳年上のタルモン公ルイ2世・ド・ラ・トレモイユの後妻になるも、夫は1525年戦死。1530年にビュッセ男爵フィリップ・ド・ブルボンと再婚、6人の子女をもうけたということ。

4-9、フランシスコ(1510年 - 1572年)

フランシスコ・ボルハ、フアンの長男の第3代ガンディア公フアン・ボルハ(フアン・ボルジア)とアラゴン王女フアナの長男としてバレンシアのガンディア近郊で誕生。フランシスコはアレクサンデル6世の曾孫にあたる人。

小さい頃から信仰深かったが、家族に送り込まれた神聖ローマ皇帝カール5世の宮廷で、皇帝に同行して何度も従軍するなど活躍し、1526年9月にはマドリードでポルトガル貴族のレオノール・デ・カストロ・メロ・エ・メネゼスと結婚して、8子に恵まれたそう。カタルーニャの副王に命じられて統治、そして父が亡くなった後にガンディア公位を継承したが妻子と共に故郷で祈りの毎日を過ごし、スペインを訪れていたピエール・ファーヴルと出来たばかりのイエズス会を知り、イグナチウス・ロヨラと文通。

そして1546年に妻が亡くなった後、フランシスコは世俗の生活を捨て、長子カルロスに称号を譲って修道者になり、イエズス会へ入会。貴族の出身で有能だったため、1554年、ロヨラ死去の後、敵意が噴出して異端審問所の監視下に置かれるなどしたため、ロヨラの後継者がローマへ派遣したということだが、その後1565年には3代目のイエズス会総長に就任。

フランシスコはイエズス会の総長として目覚ましい働きを見せ、「イグナチオ・デ・ロヨラ以降最高の総長」と言われたそう。現在のグレゴリアン大学の前身のローマ学院 を創設し、また歴代のローマ教皇、国王にも助言したり、イエズス会を指導したが、つつましい生活を送って生前から聖人の誉れが高く、1572年5月にピウス5世が亡くなった後、ローマ教皇の公認候補になったが、9月にローマで死去。1671年に聖人として列聖されたということ。

5、ボルジア家の毒とは

ボルジア家は謀略の一族で、資産のある司教や枢機卿に対して適当な罪をかぶせて逮捕し処刑、資産を奪って富を増やしたと言われています。

そしてスイスの歴史家が著書で「あの雪のように白く、快いほど甘美な粉薬」と形容した「カンタレラ」という毒薬をワインに入れて使用したとか、ルクレツィアは中が空の指輪に毒を仕込んでいて、飲み物に混ぜて相手を毒殺するために使用したという話も。しかし当時はたしかに毒薬を用いることはあったが、確実に殺せる手段ではなかったため、暗殺にはチェーザレの腹心のミケロットのような刺客を用いた方が確実だった、ボルジア家の毒殺は事実ではないということ。

また、ボルジア家は悪徳の栄えの権化のように言われたのも、アレクサンデル6世の後に選出された長年のライバルのローヴェレ枢機卿ことユリウス2世が悪評を広めたせいで、アレクサンデル6世は縁故主義を用いた当時の典型的な教皇で、ボルジア家の行ったことは当時のイタリアとしては突出した悪事ではなく、ルクレツィアとチェーザレらの近親相姦の話も盛った話ではと、最近は再評価もされているそう。

彗星のごとく現れて消えた歴史上悪名高い一族

ボルジア家はスペインの土豪の出身で、聖職に入ったアロンソが枢機卿からローマ教皇カリストゥス3世となり、当時の縁故主義とスペイン人としてローマで孤立しないため甥たちを呼び寄せて出世させ、ボルジア家繁栄の基礎を築きました。

その後は枢機卿に抜擢した甥のロドリーゴが引き継ぎ、あの手この手を使って富を作り買収してローマ教皇に選出、アレクサンデル6世となり、庶子のチェーザレを右腕に暗殺から富の横取り、軍隊を率いて連戦連勝と、マキャヴェリが理想の君主像に描いたほどの活躍、また美貌の娘のルクレツィアを政略結婚の道具に使いと、ボルジア家は私腹を肥やし、群雄割拠のイタリア統一を目指してより混乱させることに。

しかしローマ教皇は世襲制ではないためアレクサンデル6世が亡くなると、チェーザレはたちまち没落。歴史に登場するのはたいていここまでで、悪評をもって終わるのですが、その後、娘のルクレツィアは意外にも婚家に頼りにされるほどの存在感を発揮し、しっかりと家を守ったし、チェーザレに殺されたとされるファンの孫はなんと敬虔な本物の聖職者となり、のちに列聖されたというボルジア家の意外な後日談ももっと知られてもいいのではないでしょうか。

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15世紀に現れ悪名を残し彗星のように消えた一族「ボルジア家」を歴女がわかりやすく解説

今回はボルジア家を取り上げるぞ。悪名高い一族らしいが、いろいろと詳しく知りたいよな。

その辺のところをヨーロッパ史も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、ヨーロッパの歴史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、ボルジア家について5分でわかるようにまとめた。

1-1、ボルジア家とは

ボルジア家は、スペイン人の高位聖職者としてローマ教皇に就任したアロンソ・デ・ボルハ、カリストゥス3世が、甥たちを縁故主義(ネプティズム)で出世させたことが発端で、甥のロドリーゴ・ボルジアがローマ教皇に就任後、庶子のチェーザレの活躍で教皇領で勢力を伸ばし、娘のルクレツィアを政略結婚させ、愛人たちも堂々とバチカンに住居させ、裕福な司教や枢機卿ら他人の資産を処刑して強奪するなど、悪徳の限りを尽くし栄華を極めた一族として歴史に名を遺すことに。

尚、ボルジアはイタリア語で、スペイン語ではボルハに。

1-2、ボルジア家のルーツはスペイン

マリオン・ジョンソン著「ボルジア家」によれば、ボルジア家はスペイン北東部アラゴンの古い王族の末裔を称したが、スペイン深北部のエブロ渓谷のボルハの街に由来する姓で、土着の郷士だったそう。一族の祖先はアラゴン王ハイメ1世がムーア人からバレンシア奪回するための遠征に参加し、功績として与えられたハティバ周辺の土地に住み着き、繁栄したということ。

この時代の郷士の選ぶべき道は、「教会か海か王家」のいずれかだったということで、王家に仕えてムーア人を撃退する兵士に、コロンブスの新大陸発見後、海の男として新大陸へ渡って征服するというのが加わり、その他の男子が教会入りして聖職者の道へ。また、当時の騎士たちは戦闘能力はあっても、無学で教養がなかったため、大学で倫理学やラテン語、諸外国語、法律などの学問を学んだ聖職者は十分に出世の道が開けていたということ。

1-3、ボルジア家勃興までに起きた象徴的な事件

ボルジア家の祖といわれるアロンソ(のちのカリストゥス3世)は、マリオン・ジョンソン著「ボルジア家」によれば、冷静で学者肌の禁欲的な人間として個人的なスキャンダルにはほど遠かったということ。

しかし1420年10月、アロンソの妹イザベラと結婚していたホフレ・デ・ボルハ(のちのアレクサンデル6世の父)は、義弟と三人の部下とともに、義弟を領主権乱用で告発するモンテフェラトを待ち伏せて殺害。

この残忍な事件に、バレンシア提督が現地ハティバへ赴いて裁判を主宰、犯人全員に死刑が宣告されて家族に莫大な罰金が科せられたが、刑の執行前に被告人は全員国外逃亡し、被告人不在で家財が競売に付されることに。しかしボルハ家と義弟家が判決の不備申し立てをしたため、アルフォンソ5世の留守を預かるマリア王妃が判決を破棄、そして2年後に裁判を無効として、殺人事件がなかったことにされたということ。

このことに当時王室顧問会議の副長官で、アルフォンソ5世の覚えもめでたかったアロンソが関わっていたことは間違いなく、ホフレはその後順調に生きて、アロンソの助力でカプデトの城主になり翌年死去したが、息子たちはアロンソが面倒をみて出世させたということで、のちのローマでのボルジア家をほうふつとさせる出来事では。

2-1、ボルジア家のメンバーたち

image by PIXTA / 23196969

ボルジア家で最初に出世して教皇となり、甥たちを引き立てて繁栄の祖と言われるカリストゥス3世、そしてその甥のアレクサンデル6世を中心としたボルジア家の有名なメンバーをご紹介しますね。

2-2、カリストゥス3世(1378年 – 1458年)

カリストゥス3世
Juan de Juanes and workshop – [1], パブリック・ドメイン, リンクによる

アルフォンソ・デ・ボルハ、スペインのバレンシア地方のハティバで誕生。

当時は教会大分裂の時代で、アヴィニョン対立教皇クレメンス7世の側近だった、ペドロ・デ・ルナ(後の対立教皇ベネディクトゥス13世)の補佐ビセンテ・フェレールが、バレンシア各地で演説を行ったときに出会い、将来教皇に出世すると予言されたということ。その後、レリダの大学で法学を学び講師となり、1394年にベネディクトゥス13世が選出された後、レリダ大聖堂参事会員となってベネディクトゥス13世に仕えたそう。そして外交官としてアラゴン王アルフォンソ5世に仕え、1429年にベネディクトゥス13世の後任の対立教皇クレメンス8世の退位での功績が認められて、マルティヌス5世によってバレンシア司教に任命。

1444年にエウゲニウス4世から枢機卿に任命され、ローマへ移住、3人の甥(ロドリーゴを含む)をバレンシアの高位聖職者にした後、1455年、ニコラウス5世の没後のコンクラーヴェで教皇に選出、カリストゥス3世に。76歳で余命いくばくもなく中継ぎという名目で選出されたということ。

しかし教皇になるや、妹イサベルの息子ロドリーゴ(後のアレクサンデル6世)と姉カタリーナの息子ルイス・フアン・デ・ミーラを枢機卿に登用、ロドリーゴの兄ペドロ・ルイスを教皇軍総司令官、スポレート公に任じたりと、スペイン出身者を周囲に集めて高位を与えたためにローマ市民を憤慨させたが、自身の教皇出世を予言したフェレールを列聖、ジャンヌ・ダルクの復権裁判を行って裁判判決を覆したということ。

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