「昭和モダン」という言葉を知っているか?「昭和モダン」とは、昭和時代の初期に起こった文化の西洋化の流れのことです。ファッション、レストラン、建物など、西洋のスタイルを取り入れた文化が花開いた。今では「昭和モダン」の名残は、レトロでクラシカルだとファンも多い。

それじゃ、「昭和モダン」とはどのような文化なのか、今でも「昭和モダン」に触れることができる観光旅行スポットなどを、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。芸術史をたどるとき「昭和モダン」を避けて通ることはできない。第一次世界大戦後に開花した「昭和モダン」は、今でも触れることができる人気の文化。そこで今回は「昭和モダン」の概要と、関連する観光スポット情報を提供する。

「昭和モダン」に先立つ文化の西洋化の歴史

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Kakidai - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

日本は歴史のいろいろなタイミングで文化の西洋化ブームが到来。「昭和モダン」は数ある日本文化の西洋化ブームのひとつと言えます。ここでは明治時代と大正時代に注目して、西洋化ブームの歴史を見ていきましょう。

迎賓館に代表される明治時代の「文明開化」

日本は江戸時代、一部の国交はあるものの基本的に「鎖国政策」を取っていました。江戸時代が終わり明治時代に入ると、明治政府は外国との交流を活発化させます。そこで花開いたのが「文明開化」。散髪、洋装、洋食が推奨され、西洋風の建築物が建てられるようなりました。

武士のちょんまげに代表されるように、海外の人々にとって日本のイメージは奇妙そのもの。そこで明治政府は日本の文化を西洋に基準に合わせようとします。外国の要人を招待するために建てられたのが「迎賓館」。迎賓館赤坂離宮は明治42年に外国人建築家により設計されました。

竹久夢二や松井須磨子を生んだ大正時代の「大正ロマン」

大正時代の日本文化の西洋化ブームにあたるのが「大正ロマン」。これは19世紀ごろからヨーロッパに広がった「ロマン主義」の影響を受けたものです。ロマン主義とは、恋愛や感情における個人の解放を賛美するもの。「大正デモクラシー」の台頭による民衆や女性の地位を向上させる潮流と重なり、このように呼ばれるようになりました。

「大正ロマン」を代表する芸術家が竹久夢二です。夢二は従来の日本が異なる画法を確立。洗練されたデザインから広告デザインの世界でも活躍しました。同時代の新しい女性像を代表するのが松井須磨子。2度の離婚のすえ、妻子あるパートナー島村抱月と共に、情熱的で強い心を持った女性を舞台上で演じました。

「昭和モダン」はどうして生まれた?

image by PIXTA / 42891490

日本文化の西洋化ブームにはいろいろなきっかけがあります。「文明開化」なら鎖国時代の終わり、「大正ロマン」は大正デモクラシーの流れです。それでは「昭和モダン」は、どのような背景にもと生まれた西洋化ブームなのでしょうか。

第一次世界大戦後に沸き起こったライフスタイルの変化

「昭和モダン」の背景のひとつとしてライフスタイルの変化が挙げられます。第一次世界大戦中、日本ではヨーロッパのアール・デコなど西洋的な建築様式が浸透。さらに第一次世界大戦が終わり、1926年に昭和時代に移行した日本は、大量生産・大量消費の時代に突入します。

1920年代のアメリカは「狂騒の1920年代」と呼ばれる経済的に繁栄した時代を迎えていました。アメリカを中心に海外の企業が日本に進出。そのような流れもあり、日本にも西洋文化と大量生産・大量消費の波があわせて押し寄せました。

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蓄音器やラジオの流通による大衆音楽の浸透

「昭和モダン」の大きな特徴は最新のテクノロジーの浸透と共に生まれたという点。とくに蓄音機とラジオの普及は、人々の生活を西洋化する大きな力となりました。フランスのシャンソン、アメリカのジャズやチャールストンの音楽に触れる機会が増え、それと一緒に西洋風のダンスも流行します。

蓄音機やラジオの普及は、日本人歌手のスタイルにも変化をもたらしました。ブルースの女王と言われた淡谷のり子、クラシック音楽家藤山一郎、ジャズシンガーのディック・ミネなどの活躍は「昭和モダン」の流れと共にあります。

ハリウッドで制作された映画の日本進出

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By WAMPAS org - The Kokomo Daily Tribune Jan 1st 1924, Public Domain, Link

西洋のライフスタイルが浸透する過程で大きな影響を与えたのがハリウッド映画です。1920年代はハリウッドの黄金時代。華やかなスターが演じるハリウッド映画が続々と日本の劇場で公開されるようになりました。

ハリウッド映画のテーマ、ファッション、ライフスタイルは、昭和初期の人々にとってあこがれの対象。若者を中心に髪型や服装を洋風にする流れを加速させました。チャップリンの映画が人気を獲得したのもこの時期。シルクハットやスーツなどの洋装が身近な存在となりました。

「昭和モダン」と女性の社会進出のつながり

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By Shirokiya - http://www.aonghascrowe.com/journal/2015/5/7/vacation-pay-then-and-now.html, Public Domain, Link

「昭和モダン」といわれる文化は、女性の社会進出と密接に結びついています。西洋からの文化が日本に定着するにつれて、女性が働く場が増えてきました。それにより女性の振る舞いや行動も西洋化することに。より活発で自由にふるまう「モダンガール」が昭和初期の日本を彩りました。

着物から洋装に変える女性が増加

大正時代は洋装をする女性もいましたが、基本的には着物が中心。着物は、古風な日本女性の奥ゆかしさを象徴する一方、自由な動きを制限するものでした。それが昭和初期になると一転し、洋装をする女性たちが増えてきます。洋装することで、見た目だけではなく行動様式も大きく変化しました。

洋装により女性たちは体が動かしやすくなり、生き生きとふるまう活発な存在になります。また、洋装と共にヘアスタイルも変化。髪を結う必要がなくなったため、ショートボブスタイルが浸透。海を水着を着て遊ぶ、男性との恋愛を楽しむ、お酒を飲みながらダンスを楽しむ女性があらわれました。

サービス業に従事する職業婦人は「昭和モダン」の最先端

西洋風のライフスタイルを送る女性たちは「モダンガール」と言われ、新しい女性像のアイコンになります。このような女性が増えた背景としてあるのが職業婦人と言われる働く女性の増加。モダンな雰囲気の女性たちが主にサービス業にくくられる業界で活躍します。

カフェ、レストラン、デパートなど、同時の最先端の業界が彼女たちの活躍の場。また、「バスガール」という職業も登場します。これは今でいうバスガイドのような仕事のこと。西洋スタイルのおしゃれなファッション、ばっちり決めたメイクをする彼女たちは、昭和初期の女性の憧れの対象となりました。

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現代に残る「昭和モダン」:観光旅行スポット篇

「昭和モダン」は昭和初期に起こった文化の潮流ですが、この名残は現代のあらゆるところに残っています。観光地であるところも多く、知らず知らずのうちに「昭和モダン」に触れていることも。そこで、「昭和モダン」に関連する観光旅行のおすすめスポットを紹介します。

石川県の古都・金沢市で「昭和モダン」の空間を満喫

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石川県金沢市で「昭和モダン」の一端に触れるなら「しいのき迎賓館」。大正13年に、かつての石川県庁舎本館として建てられました。国会議事堂の設計に関わった技師である矢橋賢吉による建物です。現在は、レストランやカフェなどが入った、金沢市のランドマークとして活用。料理やコーヒーを楽しみながら「昭和モダン」の名残を満喫することができます。

横浜の赤レンガ倉庫のモダンな空間も見逃せない

image by PIXTA / 21726393

横浜赤レンガ倉庫とは、明治時代に政府により保税倉庫として建設されたもの。完成したのが1914年。大正3年のことでした。赤レンガ倉庫がつくられたのは、近代的な港湾を整備する必要性があるとされたから。赤レンガ倉庫が完成したことにより、現在の新港埠頭ができあがりました。

赤レンガ倉庫は、注意深く見てみると、モダンで工夫されたデザインが随所に見られます。屋根飾りや倉庫の扉は、単なる倉庫とは思えないおしゃれなデザイン。現在の倉庫は当時のものではありません。しかし、赤レンガ倉庫跡として、一部の土台を「赤レンガパーク」のなかで見ることができます。

東京駅丸の内の館内の設計にも「昭和モダン」の雰囲気が残る

image by PIXTA / 33468473

東京近郊に住んでるなら、行ったことがある人も多いだろう東京駅にも「昭和モダン」の雰囲気が残る空間があります。それが丸の内側にある駅舎。明治41年に建設が開始されて大正3年に開業した由緒ある建築物です。

耐震性の問題から改修を余儀なくされた東京駅丸の内駅舎。完全に残してほしいという声が全国から届きました。完全に保存されることはかないませんでしたが、部分的に当時の面影が残されました。現在、ドーム部分は復元ではありますが「昭和モダン」を感じながら時間を過ごすことができます。

現代に残る「昭和モダン」:近くにあるもの篇

観光旅行に行かなくても、近くにあるもので「昭和モダン」を満喫することも可能。近所にある喫茶店、レストラン、ホテル、デパートなど、意外と「昭和モダン」の名残は多く残っているものです。

風情あるカフェやレストランで「昭和モダン」を満喫

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大東京写真帖 - 『大東京写真帖』1930, パブリック・ドメイン, リンクによる

風情ある喫茶店やレストランが、実は昭和初期にゆかりがあることも少なくありません。知らずに入って、クラシカルで豪華な内装にびっくりすることもあるのでは。それも「昭和モダン」の名残です。

また、昭和が始まったころ、人々の生活を大きく変えたのが食べ物。コーヒーや紅茶のほか、さまざまな洋食が出されるようになります。たとえばライスカレー、オムライス、カツレツ、ナポリタンなど。お子様ランチのスタイルもこのころにあらわれました。

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デパートにも「昭和モダン」の名残がたくさん

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Kakidai - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

都内をぶらりとすると高級な雰囲気のデパートにたくさん出会うことができます。それらの多くも昭和初期に出来上がっていることが少なくありません。そのためデパートの内装をよく見てみると、レトロな雰囲気の内装やデザインがあることに気が付きます。

たとえば昭和8年に完成した伊勢丹新宿店には、シンプルながらも随所におしゃれな細工が施されました。また、デパート内のエレベーターも要チェック。モダンな雰囲気が残っていることが多く、エレベーターガールがいるデパートもあります。

書籍で「モダンガール」に触れるなら『痴人の愛』がおすすめ

出かけることなく家のなかで「昭和モダン」に触れたいなら谷崎潤一郎の『痴人の愛』がおすすめです。『痴人の愛』は、カフェのウェイトレスをしていた15歳のナオミを育て、自分の妻にしようと思っていた男性が、彼女の魅力に取りつかれるプロセスを描いた作品。ナオミは昭和初期の「モダンガール」そのもの。彼女の風貌、振る舞い、ファッションから「昭和モダン」を感じ取ることができます。

「昭和モダン」は私たちの生活のなかにある歴史的な空間

昭和の初期を彩った「昭和モダン」ですが、世界が第二次世界大戦に向かい不穏な空気になるにつれて消滅していきます。しかしながら、洋食文化、ファッション、サービス業などの一部は、第二次世界大戦を経て現代まで継承されました。日本では、たびたび「レトロなもの」がブームになります。それをどの時代のものかを区分するのは難しいのですが、「昭和モダン」の一部であることも少なくありません。観光旅行、ショッピング、グルメ、お散歩など、日ごろの生活の中で出会える「昭和モダン」。身近な生活のなかで歴史を学ぶことができる生きた教材として、レトロでクラシカルな文化を楽しんでみてはいかがでしょうか。

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日本史昭和歴史

レトロでクラシカルな「昭和モダン」の歴史と魅力を元大学教員がわかりやすく解説

「昭和モダン」という言葉を知っているか?「昭和モダン」とは、昭和時代の初期に起こった文化の西洋化の流れのことです。ファッション、レストラン、建物など、西洋のスタイルを取り入れた文化が花開いた。今では「昭和モダン」の名残は、レトロでクラシカルだとファンも多い。

それじゃ、「昭和モダン」とはどのような文化なのか、今でも「昭和モダン」に触れることができる観光旅行スポットなどを、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。芸術史をたどるとき「昭和モダン」を避けて通ることはできない。第一次世界大戦後に開花した「昭和モダン」は、今でも触れることができる人気の文化。そこで今回は「昭和モダン」の概要と、関連する観光スポット情報を提供する。

「昭和モダン」に先立つ文化の西洋化の歴史

Akasaka Palace 5.jpg
Kakidai投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

日本は歴史のいろいろなタイミングで文化の西洋化ブームが到来。「昭和モダン」は数ある日本文化の西洋化ブームのひとつと言えます。ここでは明治時代と大正時代に注目して、西洋化ブームの歴史を見ていきましょう。

迎賓館に代表される明治時代の「文明開化」

日本は江戸時代、一部の国交はあるものの基本的に「鎖国政策」を取っていました。江戸時代が終わり明治時代に入ると、明治政府は外国との交流を活発化させます。そこで花開いたのが「文明開化」。散髪、洋装、洋食が推奨され、西洋風の建築物が建てられるようなりました。

武士のちょんまげに代表されるように、海外の人々にとって日本のイメージは奇妙そのもの。そこで明治政府は日本の文化を西洋に基準に合わせようとします。外国の要人を招待するために建てられたのが「迎賓館」。迎賓館赤坂離宮は明治42年に外国人建築家により設計されました。

竹久夢二や松井須磨子を生んだ大正時代の「大正ロマン」

大正時代の日本文化の西洋化ブームにあたるのが「大正ロマン」。これは19世紀ごろからヨーロッパに広がった「ロマン主義」の影響を受けたものです。ロマン主義とは、恋愛や感情における個人の解放を賛美するもの。「大正デモクラシー」の台頭による民衆や女性の地位を向上させる潮流と重なり、このように呼ばれるようになりました。

「大正ロマン」を代表する芸術家が竹久夢二です。夢二は従来の日本が異なる画法を確立。洗練されたデザインから広告デザインの世界でも活躍しました。同時代の新しい女性像を代表するのが松井須磨子。2度の離婚のすえ、妻子あるパートナー島村抱月と共に、情熱的で強い心を持った女性を舞台上で演じました。

「昭和モダン」はどうして生まれた?

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日本文化の西洋化ブームにはいろいろなきっかけがあります。「文明開化」なら鎖国時代の終わり、「大正ロマン」は大正デモクラシーの流れです。それでは「昭和モダン」は、どのような背景にもと生まれた西洋化ブームなのでしょうか。

第一次世界大戦後に沸き起こったライフスタイルの変化

「昭和モダン」の背景のひとつとしてライフスタイルの変化が挙げられます。第一次世界大戦中、日本ではヨーロッパのアール・デコなど西洋的な建築様式が浸透。さらに第一次世界大戦が終わり、1926年に昭和時代に移行した日本は、大量生産・大量消費の時代に突入します。

1920年代のアメリカは「狂騒の1920年代」と呼ばれる経済的に繁栄した時代を迎えていました。アメリカを中心に海外の企業が日本に進出。そのような流れもあり、日本にも西洋文化と大量生産・大量消費の波があわせて押し寄せました。

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