暗殺されるという結末で人生に幕をおろした犬養毅の一生、ここで改めて振り返ってみよう。そこで、今回は犬養毅について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。
ライター/リュカ
元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から犬養毅をわかりやすくまとめた。
慶應義塾への入学
犬養毅が生まれたのは幕末にさしかかった頃の1855年、現在の岡山県にあたる備中国にて岡山藩士・犬飼源左衛門の次男として誕生しました。ちなみに犬飼家の「飼」は誤字ではなく、犬養毅が「養」と表記されているのは後に犬飼から犬養へと改姓したためです。
父・犬飼源左衛門は下級武士でありながらも郷士を務めており、郷士とは村役人・商人・農民などを兼業する苗字を名乗れるほどの身分でした。最も、だからと言って幼い頃の犬養毅の生活は決して裕福ではなく、なぜなら犬養毅は2歳の時に父をコレラで失っているからです。
21歳になった頃の犬養毅の学力は相当高く、その実力はヨーロッパに留学できるほどのものだっとされています。とは言え、現実的に考えると経済面の問題から留学することは難しく、そのため知人・親戚から援助を受けて上京すると慶應義塾に入って学びました。
新聞記者を経て統計院へ
慶應義塾においても犬養毅の学力の高さは健在で、成績優秀な犬養毅を福沢諭吉も評価していました。犬養毅が入学した際、保証人となっていたのが郵便報知新聞社の記者・藤田茂吉であり、その関係から犬養毅はアルバイトとして新聞の原稿を書くようになります。
ちなみに、郵便報知新聞社は名前から連想できるとおり現在の報知新聞です。記者の仕事を務める犬養毅は1877年の西南戦争が起こった際に政府軍の記者として従軍。現地からの戦争の様子を事細かく記事にした「戦争直報」は、人々の間で大変評判が良かったそうです。
犬養毅が25歳になった頃には書いた記事の人気はすさまじく、そこで犬養毅は慶應義塾を中退して東海社を作り、記者として「東海経済新報」を発刊するようになります。そして、記者の仕事を経て統計院・権少書記官という役人の仕事に就いたのでした。
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