今日は犬養毅について勉強していきます。1932年5月15日、首相官邸などを襲った海軍の青年将校達は当時の日本の首相・犬養首相に銃を発砲して殺害する事件が起こった。

暗殺されるという結末で人生に幕をおろした犬養毅の一生、ここで改めて振り返ってみよう。そこで、今回は犬養毅について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から犬養毅をわかりやすくまとめた。

犬養毅 ~誕生から役人になるまで~

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慶應義塾への入学

犬養毅が生まれたのは幕末にさしかかった頃の1855年、現在の岡山県にあたる備中国にて岡山藩士・犬飼源左衛門の次男として誕生しました。ちなみに犬飼家の「飼」は誤字ではなく、犬養毅が「養」と表記されているのは後に犬飼から犬養へと改姓したためです。

父・犬飼源左衛門は下級武士でありながらも郷士を務めており、郷士とは村役人・商人・農民などを兼業する苗字を名乗れるほどの身分でした。最も、だからと言って幼い頃の犬養毅の生活は決して裕福ではなく、なぜなら犬養毅は2歳の時に父をコレラで失っているからです。

21歳になった頃の犬養毅の学力は相当高く、その実力はヨーロッパに留学できるほどのものだっとされています。とは言え、現実的に考えると経済面の問題から留学することは難しく、そのため知人・親戚から援助を受けて上京すると慶應義塾に入って学びました。

新聞記者を経て統計院へ

慶應義塾においても犬養毅の学力の高さは健在で、成績優秀な犬養毅を福沢諭吉も評価していました。犬養毅が入学した際、保証人となっていたのが郵便報知新聞社の記者・藤田茂吉であり、その関係から犬養毅はアルバイトとして新聞の原稿を書くようになります。

ちなみに、郵便報知新聞社は名前から連想できるとおり現在の報知新聞です。記者の仕事を務める犬養毅は1877年の西南戦争が起こった際に政府軍の記者として従軍。現地からの戦争の様子を事細かく記事にした「戦争直報」は、人々の間で大変評判が良かったそうです。

犬養毅が25歳になった頃には書いた記事の人気はすさまじく、そこで犬養毅は慶應義塾を中退して東海社を作り、記者として「東海経済新報」を発刊するようになります。そして、記者の仕事を経て統計院・権少書記官という役人の仕事に就いたのでした。

犬養毅 ~役人辞職から文部大臣就任まで

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立憲改進党への参加

西南戦争が起こる少し前となる1874年、板垣退助が自由民権運動を行って国民の自由と権利を求めました。その運動は瞬く間に日本中へと広まり、その成果として1881年に明治天皇によって10年後の国会開設を約束した「国会開設の勅諭」が出されます。

政府に勤める大隈重信も国民が訴える国会開設を支持しましたが、しかし参議の中でそれに賛成したのは大隈重信ただ一人だけでした。さらに開拓使官有物払下げ事件の責任を負わされる形となったため、大隈重信は政府を追放されて失脚、すると犬養毅も大隈重信と一緒に辞職しました

さて、国会開設が約束されたことが国民に伝わると、国民は国会に参加しやすいよう政党を立ち上げていきます。この時、大隈重信も立憲改進党という政党を立ち上げており、犬養毅もその結成に参加、自由民権運動である大同団結運動で藩閥政府を批判して活躍しました

護憲運動の功績

1890年、国会開設の勅諭のとおり帝国議会開設による記念すべき第1回衆議院議員総選挙が行われます。岡山3区から立候補した犬養毅は見事当選を果たし、ここから政治家としての人生が始まるのでした。ちなみに、犬養毅は第18回選挙まで連続当選を果たすことになり、これは憲政の父と称された尾崎行雄に次ぐ記録です。

こうして政治家としての道を歩み出した犬養毅は、第一次大隈内閣において尾崎行雄の辞任に伴って後任として文部大臣へと就任。明治から大正へと時代がかわろうとしていた中、立憲政治を貫く護憲運動で活躍を見せました。護憲運動とは、簡単に言えば政府に対して大日本帝国憲法や政党の尊重を要求した運動です。

護憲運動では国民の力で総理大臣を退陣に追い込みますが、それは初めてのことでした。国民の意見の力を思い知る形となった政府は、政党や世論の動きを無視できなくなります。護憲運動の中心人物だった犬養毅は尾崎行雄と共に憲政の神様と呼ばれ、大正デモクラシーの発展に貢献しました。

犬養毅 ~逓信大臣から政界への復帰まで~

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革新俱楽部の結成

1922年、犬養毅は新たな政党とある革新倶楽部を結成。革新俱楽部は立憲国民党を解党した犬養毅を中心に、尾崎行雄、島田三郎、古島一雄らを含めた46名のメンバーで結成されました。翌1923年には第二次山本内閣、加藤内閣で逓信大臣に就任、この時犬養毅は68歳です。

やがて、普通選挙法が公布されたことで犬養毅は自身の政治家としての役目を終えたと考えます。政治家と悔いのない人生を歩んだ犬養毅は政治の世界から引退しますが、そんな犬養毅の引退を惜しむ支持者達は、引退してからもなお犬養毅を選挙で当選させ続けたのでした。

国民の熱意が届いたのか、1929年に犬養毅は再び政治の世界へと復帰、立憲政友会の総裁となります。ただ、当時アメリカの株価暴落が発端となって世界恐慌に覆われ、日本にも深刻な不況が訪れました。これを受けて第二次若槻内閣が総辞職しますが、このことが犬養毅の運命を変えてしまうのです。

第二次若槻内閣総辞職のいきさつ

第二次若槻内閣が誕生する前の1930年、浜口内閣がロンドン海軍軍縮条約を締結されます。この時に全権大使を任されていたのが元総理の若槻禮次郎、そして浜口内閣が崩壊したことで若槻禮次郎が再び総理となって第二次若槻内閣が誕生したのでした。

さて、ロンドン海軍軍縮条約に対して強い不満を抱いたのが海軍。さらに陸軍もまた政府に対して不満を抱き、なぜなら満州での権益が中国・ソ連に脅かされる状況の中、一向にその対策を練ろうとしない政府に嫌気がさしていたからです。ちなみにここで満州がキーワードとして挙がったのは、1931年の満州事変によるものでした。

満州事変を起こした関東軍は政府ですら制御不能で暴走状態、そのためいくら総理の若槻禮次郎が制止しても関東軍を戦争を止めません。不況に喘ぐ国民も政府よりも関東軍に期待するようになり、関東軍を制御できなかった若槻禮次郎は責任を取る形で内閣を総辞職したのです

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犬養毅 ~五・一五事件での暗殺~

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五・一五事件の計画

1932年5月15日、海軍の青年将校たちが武装して総理大臣官邸へと乱入した五・一五事件が起こりました。事件の計画・指揮を行ったのは海軍中尉の古賀清志、同年の2月~3月にかけて起こった血盟団事件に続く2回目の昭和維新の意味で決行されます。この計画では、参加したグループを4組に分けていました。

まず第1組として軍の青年将校達が総理大臣官邸へ、次に第2組が内大臣の官邸へ、続いて第3組が立憲政友会本部の襲撃へ、最後に第4組が三菱銀行に対して爆弾攻撃。最も、これは計画の始まりでしかなく、さらに何組かのメンバーが合流して警視庁を襲撃することも考えていました。

犬養毅は若槻禮次郎を引き継ぐ形で総理大臣になっており、計画実行の当日……すなわち5月15日には予定されていた宴会が変更となったことで官邸で過ごします。昭和維新計画の主要メンバーは首相官邸へと侵入、首相の犬養毅を発見したのは第1組の三上卓海軍中尉でした。

銃弾に倒れた犬養毅

犬養毅を発見した三上卓海軍中尉は拳銃を向けて発射、しかし偶然にも弾が装着されておらず、実際には発砲されませんでした。一方、犬養毅は三上卓海軍中尉に対して和室の客間で話し合うよう伝えますが、犬養毅発見の知らせを大声で他のメンバー達に伝えます。

命を狙われながらも犬養毅は落ち着いており、客間に座ると首相としての考えや将来の日本の在り方などを話そうとしたそうです。 そんな犬養毅を他のメンバーが取り囲み、「問答無用」と挙がった声によって次々と発砲、数発の弾丸を受けた犬養毅は重症を負いました。

ただ、それでも犬養毅は意識を失っておらず、駆け付けた女中に対して発砲した者を連れてくるよう伝えます。銃撃を受けてもなお、犬養毅は話し合いで解決しようとしたのです。しかし、徐々に衰弱していくと深夜に死亡、犬養毅は五・一五事件で暗殺されました

五・一五事件のその後

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二・二六事件への伏線

犬養毅の最期は有名で、銃を向けてきた五・一五事件のメンバーに対して「話せば分かる」と冷静に伝えています。これはメンバーに隙を生ませるたけの口実ではなく、実際に犬養毅自らがメンバーを応接室へと案内していました。犬養毅が望んだのは、あくまでも話し合いでの解決だったのです。

この犬養毅の「話せば分かる」は有名なセリフとして語られています。また、五・一五事件のメンバーが目的としていた昭和維新は実現しませんでした。事件を起こしたメンバーは自首して捉えられますが、ただ裁判で下された判決は死刑判決の予想に反して軽いものになります

メンバーの中心人物ですら禁固10~15年、その他のメンバーは禁固4年の判決。ここまで軽い罪になったのは、海軍兵学校に通う学生、さらにその卒業生らが助命運動を行った結果だと言われました。最も、陸軍の青年将校達は後となる1936年に同様のクーデター計画を立てた二・二六事件を起こします。

政党制の廃止

首相である犬養毅が暗殺された事件は、支配層を怖れさせる結果になります。犬養毅暗殺によって犬養内閣は事件翌日に総辞職となりますが、これまで総理大臣の任命は、議会で多数を取った政党勢力から選ばれる政党制を採用していました。しかし、同様の方法で総理大臣を決めれば、また同じテロ活動が行われるかもしれません。

そのためこれまでの仕組みは廃止され、政党内閣は犬飼内閣が最後となりました。そもそも、五・一五事件は軍部の不満が引き金となって発生した事件です。そのため、軍部と政党の対立を避ける意味でも元海軍大将・斉藤実が次期総理へと任命されました。

最後まで武力ではなく言論を重んじた犬養毅でしたが、ただ日本はそんな犬養毅の気持ちに反して軍国主義の道を進んでいきます。中国進出を進める中で日本は世界の国々から孤立、そして日中戦争を起こした末に太平洋戦争まで起こしてしまい、武力行使の姿勢が大きな過ちを引き起こすのでした。

五・一五事件と二・二六事件を間違えないようにしよう!

犬養毅は政治家としての活動が長く、そのためポイントはやはり政治家としての部分でしょう。そうなると暗殺された五・一五事件は欠かさないですが、紛らわしいものとして二・二六事件と間違えないようにしてください。

また、政治家になる以前で言えば、慶應義塾に入っていたこと、戦争直報を出していたこと、東海社を作って東海経済新報を発刊していたことなど、重要なキーワードは覚えておきましょう。

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大正日本史歴史

銃を向けられても言論にこだわった政治家「犬養毅」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は犬養毅について勉強していきます。1932年5月15日、首相官邸などを襲った海軍の青年将校達は当時の日本の首相・犬養首相に銃を発砲して殺害する事件が起こった。

暗殺されるという結末で人生に幕をおろした犬養毅の一生、ここで改めて振り返ってみよう。そこで、今回は犬養毅について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から犬養毅をわかりやすくまとめた。

犬養毅 ~誕生から役人になるまで~

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慶應義塾への入学

犬養毅が生まれたのは幕末にさしかかった頃の1855年、現在の岡山県にあたる備中国にて岡山藩士・犬飼源左衛門の次男として誕生しました。ちなみに犬飼家の「飼」は誤字ではなく、犬養毅が「養」と表記されているのは後に犬飼から犬養へと改姓したためです。

父・犬飼源左衛門は下級武士でありながらも郷士を務めており、郷士とは村役人・商人・農民などを兼業する苗字を名乗れるほどの身分でした。最も、だからと言って幼い頃の犬養毅の生活は決して裕福ではなく、なぜなら犬養毅は2歳の時に父をコレラで失っているからです。

21歳になった頃の犬養毅の学力は相当高く、その実力はヨーロッパに留学できるほどのものだっとされています。とは言え、現実的に考えると経済面の問題から留学することは難しく、そのため知人・親戚から援助を受けて上京すると慶應義塾に入って学びました。

新聞記者を経て統計院へ

慶應義塾においても犬養毅の学力の高さは健在で、成績優秀な犬養毅を福沢諭吉も評価していました。犬養毅が入学した際、保証人となっていたのが郵便報知新聞社の記者・藤田茂吉であり、その関係から犬養毅はアルバイトとして新聞の原稿を書くようになります。

ちなみに、郵便報知新聞社は名前から連想できるとおり現在の報知新聞です。記者の仕事を務める犬養毅は1877年の西南戦争が起こった際に政府軍の記者として従軍。現地からの戦争の様子を事細かく記事にした「戦争直報」は、人々の間で大変評判が良かったそうです。

犬養毅が25歳になった頃には書いた記事の人気はすさまじく、そこで犬養毅は慶應義塾を中退して東海社を作り、記者として「東海経済新報」を発刊するようになります。そして、記者の仕事を経て統計院・権少書記官という役人の仕事に就いたのでした。

犬養毅 ~役人辞職から文部大臣就任まで

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