今回は、日本が世界に誇る偉大な科学者のひとりである北里柴三郎について学んでみよう。

北里は、わが国における感染症研究の第一人者であり、「日本の細菌学の父」ともよばれる人物です。その生涯や、歴史に刻まれた研究成果をみていこうじゃないか。

大学で生物学を学び、現在は講師としても活動しているオノヅカユウに解説してもらおう。

ライター/小野塚ユウ

生物学を中心に幅広く講義をする理系現役講師。大学時代の長い研究生活で得た知識をもとに日々奮闘中。「楽しくわかりやすい科学の授業」が目標。

北里柴三郎とは?

北里柴三郎(きたざとしばさぶろう)は明治から大正、昭和にかけて活躍した、日本を代表する医師・細菌学者です。

北里は、ペスト菌の発見や破傷風の治療など、歴史上重要な発見を成し遂げました。また、学問の発展に寄与するべく私財を投じて研究所をつくったり、学校の創立に関与した教育者としての面もよく知られています。

生涯

北里柴三郎は、1853年に現在の熊本県で生まれました。1853年といえば、まだ江戸時代(嘉永6年)。大政奉還が1867年ですので、まさに幕末期の生まれですね。

幼いころからしっかりと躾けられていた北里は、8歳ころから漢学や国書を学んで育ちます。18歳になると熊本医学校(現・熊本大学学部)に入学し、医師の道を目指すようになりました。教師として在籍していたオランダ人医師・マンスフェルトの影響が大きかったようです。

その後、東京医学校(現・東京大学医学部)に進学し、勉強にまい進する中で「医者の使命は病気を予防することにある」と強く思うようになります。

image by iStockphoto

1886年には、医学の本場であるドイツへ留学することになりました。北里の受け入れ先はベルリン大学。なんと北里は、かの有名なロベルト・コッホの指導を受けることになったのです。

ドイツでの研究生活で得られた成果は、ヨーロッパの研究者たちを驚かせるものでした。後程詳しく解説しますが、この時代の成果の一つであった「血清療法」は大変に重要な発明です。

研究で高い評価を受けた北里は、実は第1回のノーベル賞候補にも名を連ねていました。残念なことに受賞には至りませんでしたが、北里の研究が国際的なレベルで認められていたことは確実です。

\次のページで「北里柴三郎の功績」を解説!/

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不明 - http://www.adthree.com/exanim/50nen/fac/kitazato.htm, パブリック・ドメイン, リンクによる

数々の重要な研究により有名な研究者になった北里は、ヨーロッパの複数の大学から誘いを受けます。しかしながらそれらをすべて断り、母国の医療体制の向上に身をささげることを決意。1892年、39歳の時に日本に帰国します。

帰国してすぐに北里は私立伝染病研究所を立ち上げました。この研究所の設立の際には、福沢諭吉が力を貸しています。福沢は教育者として数々の学問・教育機関の立ち上げに尽力しており、北里の伝染病研究所はその中のひとつだったのです。

その後も北里と福沢の関係は長く続きます。福沢は1901年に亡くなりますが、その15年後には福沢の設立した慶応義塾大学に医学部が創設され、初代医学部長に北里が就任しました。

1914年には伝染病研究所を辞め、新しく北里研究所を創設して初代所長となります。この研究所は数々の細菌学者を輩出しただけでなく、講演会や教育活動を行うなどして日本の感染症対策の底上げに貢献しました。

翌年には恩賜財団済生会芝病院(現・東京都済生会中央病院)を設立。ほかにも医師の団体をまとめ上げるなど、1931年に78歳で亡くなるまで、日本の医療に深くかかわり続けました。

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北里柴三郎の功績

破傷風菌の純粋培養に成功

北里が留学中に成し遂げた研究成果の一つが、破傷風菌の純粋培養です。

破傷風(はしょうふう)は、傷口に破傷風菌が入り込むことで起きる感染症で、強い痛みを伴う筋肉のけいれんや呼吸困難などの重い症状が現れます。

死に至ることも少なくない病気ですが、現在でも完全な撲滅には至っていません。日本でも年間100名ほどが罹患しているんです。

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北里の留学中、破傷風の原因が破傷風菌であることはわかっていましたが、その純粋培養はできていませんでした。実験によってその細菌の性質を調べたり、ワクチンや薬の開発をするためには、ある程度まとまった量の細菌が必要になります。細菌による伝染病を研究するうえで、純粋培養は欠かすことのできない技術なのです。

北里が培養技術を確立したことにより、破傷風菌の研究は一段と進みました。そして、破傷風が破傷風菌そのものではなく、破傷風菌の作り出す毒素によって引き起こされる病気であることが確認されたのです。この研究が、次の血清療法の発明にもつながっていきます。

血清療法の確立

北里は破傷風菌を培養し、菌のつくりだす毒素を取り出すことに成功しました。この毒素を薄めたものを動物に注射すると、その個体は非常に軽い症状を呈するだけで比較的すぐ回復し、死に至ることがありません。

軽い破傷風から回復した個体に、もう少し濃度の高い毒素を注射しても、やはり回復します。これを繰り返すことで、かなり高い濃度の毒素を与えても破傷風菌に耐えられる個体を得ることができるのです。

破傷風菌の毒素に強くなった個体の体内では、毒素に対抗できるような物質ができていると考え、北里はこれを「抗毒素」とよびました。そして、抗毒素を備えた個体の血清をほかの個体に注射すると、血清をうたれた個体も毒素への抵抗性を身につけることがわかったのです。

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北里が「抗毒素」とよんだものは、現在の私たちが知るところの「抗体」です。動物に毒素や細菌を少しずつ注射してその体内で抗体をつくらせ、その抗体が含まれた血清を得る。その血清を治療に用いる血清療法を、北里は開発しました。

血清療法は、それまでなすすべがないと思われていた感染症へ対抗するためのあたらしい治療方法として歓迎されたのです。

さらに、北里は同僚のベーリングとともに、ジフテリアという感染症にも血清療法を応用することに成功します。ジフテリアも、ジフテリア菌がつくる毒素が原因となる感染症なんです。ベーリングはこの研究が評価され、第1回ノーベル生理学・医学賞を受賞しました。

ペスト菌の発見

ペスト菌の発見は帰国後の1894年、伝染病研究所の所長をしていた時のことでした。その当時、香港でペストが大流行しており、北里は政府から調査のために派遣されたのです。北里は見事にペストの原因となる細菌(ペスト菌)を突き止めました。

ペストといえば、黒死病という名前でも知られる感染症です。世界史を学習している方であれば、必ず耳にしたことがあるでしょう。ヨーロッパでは14世紀に大流行し、ヨーロッパの全人口の半分ほどがペストに命を落としたといわれています。

そんな、人類の歴史に大きな影響を与えたペストの原因を突き止めた…これがどれだけ重要な研究成果か、お分かりいただけるでしょう。

世界が認めた研究者・北里柴三郎

極めて優秀な研究者だった北里が日本に帰国し、感染症対策の旗振り役になったことで、国内の感染症研究は大きく進展しました。世界に胸を張って自慢できる日本の科学者の一人だと感じずにはいられません。

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理科生物生物の分類・進化

日本の細菌学の父「北里柴三郎」とはどんな人物?現役講師がわかりやすく解説

今回は、日本が世界に誇る偉大な科学者のひとりである北里柴三郎について学んでみよう。

北里は、わが国における感染症研究の第一人者であり、「日本の細菌学の父」ともよばれる人物です。その生涯や、歴史に刻まれた研究成果をみていこうじゃないか。

大学で生物学を学び、現在は講師としても活動しているオノヅカユウに解説してもらおう。

ライター/小野塚ユウ

生物学を中心に幅広く講義をする理系現役講師。大学時代の長い研究生活で得た知識をもとに日々奮闘中。「楽しくわかりやすい科学の授業」が目標。

北里柴三郎とは?

北里柴三郎(きたざとしばさぶろう)は明治から大正、昭和にかけて活躍した、日本を代表する医師・細菌学者です。

北里は、ペスト菌の発見や破傷風の治療など、歴史上重要な発見を成し遂げました。また、学問の発展に寄与するべく私財を投じて研究所をつくったり、学校の創立に関与した教育者としての面もよく知られています。

生涯

北里柴三郎は、1853年に現在の熊本県で生まれました。1853年といえば、まだ江戸時代(嘉永6年)。大政奉還が1867年ですので、まさに幕末期の生まれですね。

幼いころからしっかりと躾けられていた北里は、8歳ころから漢学や国書を学んで育ちます。18歳になると熊本医学校(現・熊本大学学部)に入学し、医師の道を目指すようになりました。教師として在籍していたオランダ人医師・マンスフェルトの影響が大きかったようです。

その後、東京医学校(現・東京大学医学部)に進学し、勉強にまい進する中で「医者の使命は病気を予防することにある」と強く思うようになります。

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1886年には、医学の本場であるドイツへ留学することになりました。北里の受け入れ先はベルリン大学。なんと北里は、かの有名なロベルト・コッホの指導を受けることになったのです。

ドイツでの研究生活で得られた成果は、ヨーロッパの研究者たちを驚かせるものでした。後程詳しく解説しますが、この時代の成果の一つであった「血清療法」は大変に重要な発明です。

研究で高い評価を受けた北里は、実は第1回のノーベル賞候補にも名を連ねていました。残念なことに受賞には至りませんでしたが、北里の研究が国際的なレベルで認められていたことは確実です。

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