今回はチェーザレ・ボルジアを取り上げるぞ。有名なボルジア家出身ですが、どんな人だったかいろいろと詳しく知りたいよな。

その辺のところをヨーロッパ史も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、ヨーロッパの歴史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、チェーザレ・ボルジアについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、チェーザレ・ボルジアは、ローマの生まれ

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チェーザレ・ボルジアは、1475年か1476年の9月、ロドリーゴ・ボルジア枢機卿(のちのローマ教皇アレクサンデル6世)と愛人のヴァノッツァ・カタネイの子としてローマ郊外のスビアーコのアッバツィアーレ要塞で誕生。戸籍上の父親は、当時母ヴァノッツァ・カッタネイの夫だったドメニコ・ダ・リニャーノとされているそうで、同母妹弟としてフアン(兄か弟かはっきりせず)、ルクレツィア、ホフレ、異母兄としてペドロ・ルイスら。

尚、イタリアでは単に「チェーザレ」といえば、ガイオ・ジュリオ・チェーザレすなわち、ガイウス・ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)を指すので、チェーザレ・ボルジアはヴァレンティーノ公と呼ばれるそう

1-2、チェーザレ・ボルジアの幼年期

チェーザレは6歳の時に当時の教皇シクストゥス4世によって、司教または枢機卿と既婚女性との子という教会法上の障害を免除され、聖職者を目指すことになり、翌年には実父のロドリーゴ・ボルジア枢機卿(アレクサンデル6世)が後見人に。

チェーザレは12歳までローマで家庭教師による教育を受けたのち、ペルージャ大学で法学と人文学を、パリ大学へ移って神学を学んだということ。チェーザレは狩猟や武芸全般も学んだということで、灰色の目とオレンジ色の髪を持つかなりの美形といわれていて、後にマキャヴェッリが残したチェーザレの印象は「容姿ことのほか美しく堂々とし、武器を取れば勇猛果敢」。

チェーザレは枢機卿の父の縁故で、幼少の頃から教皇庁書記長、バレンシア大聖堂司教座聖堂参事会員、ガンディア司祭他、カルタヘナ大聖堂管財官、タラゴナ大聖堂司教座聖堂参事会員他、パンプローナ司教を歴任。

1-3、チェーザレ、17歳で大司教に就任

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Cristofano dell'Altissimo - http://www.comune.fe.it/diamanti/mostra_lucrezia/quadri/q08.htm, パブリック・ドメイン, リンクによる

1492年8月、父ロドリーゴがアレクサンデル6世として教皇に就任したため、チェーザレはバレンシア大司教として異例の大抜擢。そして1493年9月の枢機卿会議で、チェーザレはバレンシア枢機卿に任命されたことで、アレクサンデル6世の教会内での後継者に。

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カトリック聖職者の子供とは
イエス・キリストが結婚しなかったためカトリックの聖職者は生涯未婚で過ごすはずが、この時代のイタリアではボルジア家だけではなく、ごく普通にカトリックの聖職者、それも枢機卿やローマ教皇が何人もの愛人を持ち、その子供も堂々とコネで出世させたり政略結婚に使ったりしたということ。

これは外国からは目をひそめられたということですが、イタリアではほかの貴族の庶子も嫡子同様に扱われて爵位を継ぐことも珍しくなく、日本で言えば戦国時代の下克上並みの世の中だったということかも。

2-1、チェーザレ、イタリア戦争時に特使に

1494年、アレクサンデル6世に教皇選挙で敗れたジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ枢機卿(のちのユリウス2世)がフランスへ逃れて、ミラノ公国のルドヴィーコ・スフォルツァ(イル・モーロ)らと共謀、そしてフランス国王シャルル8世は、王位継承問題が浮上していた親ボルジア派で縁戚関係のナポリ王国の王位継承権の行使を主張し、フランス軍をイタリアへと侵攻させたため、イタリア戦争が勃発。

フランスがミラノやフェラーラ等のイタリア諸国の協力も取り付け、ナポリ軍は敗北、フランス軍はルッカ、シエーナ等を押さえ、有力なイタリア諸邦であったフィレンツェ共和国もメディチ家の内紛で余力を失っていたため、同年12月31日にシャルル8世はバチカンへ入城。この際に、チェーザレはアレクサンデル6世の特使として、シャルル8世との交渉を担当したそう。

1495年1月、シャルル8世とアレクサンデル6世が、バチカンが預かっていたオスマン帝国の帝位継承者ジェムの身柄をフランスに渡し、チェーザレを人質としてフランス軍の元に置く等の協定を結び、チェーザレはバチカンを退去するフランス軍と共に南下、ナポリ王国の占領に立ち会ったが、フランス軍の隙を見て逃亡。

\次のページで「2-2、兄弟のファンが殺害、チェーザレが関与か」を解説!/

2-2、兄弟のファンが殺害、チェーザレが関与か

1497年チェーザレが22歳の頃、長兄のペドロ・ルイスが亡くなった後にガンディア公爵と教皇軍最高司令官の兼任し、ボルジア家の政治と軍事担当となっていた兄弟のファンがローマ市内で暗殺。フアンと激しい敵対関係にあった枢機卿アスカーニオ・スフォルツァ (イル・モーロの弟) 、ウルビーノ公のグイドバルド・ダ・モンテフェルトロらが容疑者とされたが、翌年2月に突然、捜査は打ち切りになったため、犯人は特定されず。

ファンは、父アレクサンデル6世のお気に入りで多くの所領や莫大な富などを与えられていたため、チェーザレが嫉妬して殺害したという噂が当時から強かったそう。

2-3、チェーザレ、還俗してフランスでナヴァ―ル王の妹と結婚

1498年7月、枢機卿会議においてチェーザレは「枢機卿及びバレンシア大司教の地位を返上する」と表明し会議でも承認。これに先立って、アレクサンデル6世と即位したばかりのフランス国王ルイ12世は、チェーザレにヴァランス等の公爵位と領土、聖ミカエル騎士団の騎士の称号を与えること、軍事的な支援を行うなどといった協定を結んだため、チェーザレは10月には協定を履行するために腹心のミケロット・コレッラらと共にフランスへ。

そして1499年5月、チェーザレはルイ12世の後ろ盾を得て、ナヴァール王フアン3世の妹シャルロット・ダルブレと、アンボワーズ城で結婚。フランス王家との養子縁組も行ったために、以降、チェーザレ・ボルジア・ディ・フランチアと称することに。 妻のシャルロットとは7月にフランス国外へ出るまでの2か月だったが、翌年5月17日に一度も会わず仕舞いの娘ルイーザ・ボルジアが誕生。

全ての儀式を終えたチェーザレは、「ヴァランス公爵」(ヴァレンティーノ公爵)としてミラノ公国とフランスの戦いに参加、フランス軍の勝利に終わり、10月にチェーザレはフランス軍と共にミラノへ入城。

2-4、チェーザレ、カテリーナ・スフォルツァと対戦

1499年11月、チェーザレは、アレクサンデル6世が宣戦布告したため、フランスからの応援部隊、スイスやスペイン、イタリア各地の傭兵で構成された15000の軍隊を率いて、カテリーナ・スフォルツァの治めるイーモラ及びフォルリへ向けて進軍。カテリーナはアレクサンデル6世宛に毒薬入りの手紙を送ったものの、アレクサンデル6世には届かずに未遂に。

チェーザレはまずイーモラを陥落し、12月、フォルリ近郊の砦に籠城するカテリーナ軍を攻撃開始。2か月の戦闘の末、カテリーナを捕縛した事で、勝利。1500年2月に、チェーザレは軍を率いてローマへ入城し、謝肉祭には選考を祝して古代ローマの英雄カエサルが行った凱旋式の催しが挙行されたそう。そして3月には、アレクサンデル6世は、イーモラとフォルリの統治権をチェーザレに与え、教会軍総司令官に任命。

尚、7月には妹ルクレツィアの夫であったナポリ王家の一員であるアルフォンソが何者かによって襲撃され、死去したが、フランスとナポリ王家の微妙な関係もあり、アルフォンソの死でチェーザレが最も利益を得るために犯人として疑われたものの真相は追及されず。

2-5、チェーザレ、連戦連勝でロマーニャ公爵に

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F l a n k e r - Image:Italy 1494 shepherd.jpg, パブリック・ドメイン, リンクによる

1500年8月、チェーザレは内紛状態のチェゼーナを軍を動かさずに手中にしたうえ、アレクサンデル6世が、マラテスタ家、マンフレディ家、スフォルツァ家を破門して宣戦布告したために、再びフランスの応援部隊と傭兵の12000の軍隊を率いて、リミニへ進軍。10月、リミニを支配していたパンドルフォ4世マラテスタが降伏して国外退去したために、無血入城。続くペーザロでもジョヴァンニ・スフォルツァが遁走した後で無血入城し、ファーノも降伏させたということ。

11月、アストール3世マンフレディを当主とするファエンツァでは、チェーザレの降伏勧告を拒否して激しく抵抗したが、1501年4月にアストールの命を保証することを条件に降伏。後にアストールはローマへ送られたが、バチカンのサンタンジェロ城で暗殺。ファエンツァ陥落の後、アレクサンデル6世はチェーザレをロマーニャ公爵に任じたということ。

2-6、チェーザレ、ウルビーノなどを征服

1501年5月、チェーザレはフィレンツェ共和国の国境沿いまで進軍、このときはアレクサンデル6世の要請、ルイ12世の仲裁でフィレンツェ攻略を断念して和約したが、その後を任されたヴィテロッツォ・ヴィテッリが、フィレンツェ南方のキアーナ渓谷一帯を略奪し、反乱を煽動したため、ルイ12世の要請でチェーザレはカプアの攻撃を任されて陥落。

チェーザレが参加したフランス軍は8月までにナポリ全土を征服したので、アラゴン家のナポリ王家は没落。 そして1501年9月、それまではナポリ王家との結びつきをバックに、ローマ近郊に勢力を保っていたコロンナ家やサヴェッリ家に対し、チェーザレはコロンナ家の所領を攻撃して征服し、フィレンツェの南のピオンビーノも征服し、ボルジア家と教皇領の所領に組み入れたということ。

12月には、デステ家のフェラーラ公アルフォンソ1世と妹のルクレツィアとの結婚で、フェラーラ公国からの脅威が抑えられることになり、1502年5月にはピサ、6月にアレッツォも影響下に収めることに。そして1502年6月、チェーザレはウルビーノ公国を突然包囲したが、ウルビーノ公グイドバルド・ダ・モンテフェルトロは逃走したため、ウルビーノに入城。

2-7、チェーザレ、マキャヴェッリと出会う

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アルトベロ・メローネ - allposters.com, パブリック・ドメイン, リンクによる

このとき、フィレンツェ政府の使節としてフランチェスコ・ソデリーニと、マキャヴェッリがチェーザレと会談、ヴィテロッツォによるキアーナ渓谷一帯での略奪を抗議したため、チェーザレはヴィテロッツォを呼び戻す代わりにフィレンツェから年間傭兵料を受け取ることで協定を締結。ウルビーノ征服の後、サンマリノ共和国がチェーザレに降伏し、カメリーノも陥落したため、領主のジュリオ・チェーザレ・ダ・ヴァラーノと3人の息子を処刑。

マキャヴェッリは後に「君主論」の中で、チェーザレを混乱するイタリア統一実現のための理想的な君主像として挙げ、たとえ非道徳的行為でも、結果として国家の利益優先ならば許されるというマキャヴェリズムの体現者として著すことに。

\次のページで「2-8、チェーザレ、マジョーネの反乱を鎮圧」を解説!/

2-8、チェーザレ、マジョーネの反乱を鎮圧

1502年10月、チェーザレ軍に参加した傭兵隊長(コンドッティエーレ)らがチェーザレに対して反旗を翻し、彼らが最初に会合した場所の名をとってマジョーネの反乱と呼ばれることに。

反乱軍の傭兵隊長は最初はカステッロ領主のヴィテロッツォ・ヴィテッリ、パオロ・オルシーニ、グラヴィーナ公フランチェスコ・オルシーニ、ペルージャ領主ジャンパオロ・バリオーニ、フェルモ領主のオリヴェロット・ダ・フェルモの5人が中心で、のちにはジョヴァンニ・バッティスタ・オルシーニ枢機卿、シエナのパンドルフォ・ペトゥルッチ、ボローニャのジョヴァンニ2世ベンティヴォーリョ、元ウルビーノ公グイドバルド、ヴァラーノ家のジャンマリーアらが加わったそう。

反乱軍はウルビーノで決起し、当初の戦局を優位に進めたが、ヴィテロッツォやオルシーニらが、チェーザレ軍の傭兵隊長のときにフィレンツェを攻撃したことについて、フランス王から弁明を求められたが無視したため、フランスはチェーザレ側につき、チェーザレはフィレンツェなどの周辺の諸国の暗黙の支持を得、軍事面を増強、教皇軍最高司令官で父アレクサンデル6世も健在なので、反乱軍の一部がチェーザレと和睦交渉を行うなど、内部対立が起って結束は崩れたということ。

グイドバルドは再びウルビーノから亡命、ジャンマリーノはカメリーノを退去、ボローニャはチェーザレと個別に傭兵契約を結んで反乱軍から距離を置くなど、チェーザレ優位に事態は進んだそう。

2-9、チェーザレ、ラミーロ・デ・ロルカを処刑

1500年1月にチェーザレによってロマーニャ総督に任命され、苛烈な支配を行っていた側近のラミーロ・デ・ロルカは、ロマーニャ国民の新鮮な食料を不正に売却して自身の利益と、ロマーニャ公爵であるチェーザレに重い負担を強いた罪で告発され、1502年12月26日に処刑。

2-10、チェーザレ、シニガッリア事件で反乱軍を鎮圧

1502年12月31日、チェーザレは反乱側の5人の傭兵隊長から、反乱軍が既に制圧していたシニガッリアで交渉を持ちかけられ、チェーザレと、病を理由に欠席したバリオーニ以外の4人が、シニガッリアへ軍を率いて集合。

チェーザレは4人を油断させて自軍から離れてシニガッリア城内に入ったところを、腹心のミケロットらに命じて捕縛させ、同時に、4人の軍を攻撃して壊走させたということ。 そして4人のうちのヴィテロッツォとオリヴェロットは尋問ののちに反逆罪でその場で処刑され、オルシーニ家のパオロとフランチェスコは即時に処刑はされず、ローマで弟ホフレの教皇軍がオルシーニ一党を討伐した後に処刑。ジョヴァンニ・バッティスタは獄死、リナルドは釈放。

チェーザレはその後も反乱に加担した一味の壊滅を掲げて進軍し、反乱軍の傭兵隊長たちの領地を平定し、教皇領のほとんどを平定。ペルージャ、ボローニャ、シエナでも領主は追放されてチェーザレに従う意向で、フェラーラとは同盟、マントヴァとも友好関係となり、イタリアの5大国のうちナポリとミラノは消滅、フィレンツェもフランスの影響下にあるという具合に、ロマーニャ公国は領地を広げて大国に。

しかし、正式に和睦して再び契約した相手を謀殺するわ、妹の夫や兄弟の暗殺疑惑、腹心に汚れ仕事をさせた挙句に処刑するなどで、チェーザレとボルジア家の悪評は決定的になったということ。

3-1、父アレクサンデル6世の死

1503年7月、チェーザレは軍を率いてローマへ入ったが、8月にアレクサンデル6世と共に原因不明の重病に。現在はマラリア説が有力だが、歴史家によれば、毒入りりワインを飲んだことが原因とか、他人に飲ませるための毒を誤って飲んだ説まであるということ。

そして8月18日、アレクサンデル6世は死去。チェーザレは「父教皇が死去した場合のあらゆる対策を考えていたが、まさか自分も死にかけているとは」と後にマキャベリに語ったそうだが、チェーザレは命はとりとめたもののしばらく身体の自由も利かず、対応が後手後手に回ったということ。この機を捉えて、反ボルジア勢力が一斉に蜂起、グイドバルドやバリオーニらが元々のロマーニャの領土の当主の座に復帰、わずか1ヶ月余りで、残ったのはフォルリ、イモラ、チェゼーナ、ファエンツァだけということ。

3-2、父のライバルを教皇に後押しして失敗

アレクサンデル6世の死を受けて選出されたピウス3世は、即位後1か月弱で死去、ピウス3世の後継となったユリウス2世は、チェーザレの父と教皇の座を激しく争ったライバルのジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ。

その教皇選出の際、ボルジア家の親族や関係者などスペイン系の枢機卿に影響力を持っていたチェーザレは「教皇軍最高司令官」及び「ロマーニャ公」の地位の確保をユリウス2世と密約、ユリウス2世の教皇就任を後押し。しかしユリウス2世は11月、チェーザレがローマからロマーニャへの帰路についたときに、チェーザレとの密約を裏切って捕縛、ローマへ移送されることに。

マキャヴェッリはユリウス2世の法王就任を後押ししたチェーザレの判断を「誤った選択をし、チェーザレが破滅した最終的な原因となった」と評しているということ。

\次のページで「3-3、チェーザレの最期」を解説!/

3-3、チェーザレの最期

1504年2月、チェーザレの旧領のイーモラやチェゼーナが抵抗を続けていたため、チェーザレが降伏を命じ、その引き換えに釈放することがユリウス2世との間で合意され、チェーザレはナポリへ。

しかし当時ナポリを支配していたカスティーリャ=アラゴン(スペイン)と裏切ったユリウス2世との密約で、チェーザレは再び捕虜となり、8月には、兄弟のフアン殺害容疑でスペインへ移送。最初はアルバセーテ近郊、そしてメディーナ・デル・カンポのモタ城に収監され、フランス国王ルイ12世はチェーザレに与えたフランス国内の領土を没収したため、チェーザレは無一文に。

1506年10月に、チェーザレは収監されていたモタ城を脱出、骨折しながらも12月に妻の兄フアン3世のナヴァール王国へ逃亡、そして1507年3月、ナバラ王国対スペインとの戦闘で、ナヴァール軍の一部隊を率いて参戦したが32歳で戦死。

チェーザレの遺体はビアナのサンタ・マリア教会に埋葬されたが、その後カラオラ司教が聖なる場所に罪深い者が埋葬されているとして墓は破壊され遺骸は教会の外に。1945年、偶然に人夫に掘り起こされ、役人たちが教会への埋葬を懇願したが司教は拒絶。2007年にパンプローナ大司教がようやく没後500年を前に教会の内に移されたそう。

ローマ教皇の息子として権力の座につき、権謀術数を尽くして活躍

チェーザレ・ボルジアは、枢機卿を父として生まれ、子供の頃から聖職者になるよう教育を受け、父がローマ教皇になると若くして枢機卿に昇進。しかし父が溺愛した兄弟の暗殺後(チェーザレが関わった説濃厚)に枢機卿から還俗、「皇帝(チェーザレ)か死か」をモットーとしボルジア家の軍事担当として才能を発揮、フランス国王の姪と結婚するなど外交面でもローマ教皇の父の権力欲をもとに、重要人物としてのし上がるように。

当時のローマ教皇は宗教的指導者以上に現生利益の教皇領の領主として、群雄割拠のイタリアで領地争いを行っていたため、チェーザレも傭兵やフランスの援軍で構成された教皇軍を率いて連戦連勝、また暗殺も行って莫大な資産を横取りしたりと打つ手がすべて成功したという感じで、マキャヴェッリに理想的な君主と評価され、イタリア統一へもあと一歩だったかも。

しかしローマ教皇の私生児という立場は薄氷の上の矛盾した繁栄で、父教皇が亡くなるとたちまち没落の一途をたどり、最期はスペインへのがれて32歳で戦死。ボルジア家はその後も悪名高い一家として歴史に名前を残すことに。

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ローマ教皇アレクサンデル6世の息子「チェーザレ・ボルジア」を歴女がわかりやすく解説

今回はチェーザレ・ボルジアを取り上げるぞ。有名なボルジア家出身ですが、どんな人だったかいろいろと詳しく知りたいよな。

その辺のところをヨーロッパ史も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、ヨーロッパの歴史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、チェーザレ・ボルジアについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、チェーザレ・ボルジアは、ローマの生まれ

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チェーザレ・ボルジアは、1475年か1476年の9月、ロドリーゴ・ボルジア枢機卿(のちのローマ教皇アレクサンデル6世)と愛人のヴァノッツァ・カタネイの子としてローマ郊外のスビアーコのアッバツィアーレ要塞で誕生。戸籍上の父親は、当時母ヴァノッツァ・カッタネイの夫だったドメニコ・ダ・リニャーノとされているそうで、同母妹弟としてフアン(兄か弟かはっきりせず)、ルクレツィア、ホフレ、異母兄としてペドロ・ルイスら。

尚、イタリアでは単に「チェーザレ」といえば、ガイオ・ジュリオ・チェーザレすなわち、ガイウス・ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)を指すので、チェーザレ・ボルジアはヴァレンティーノ公と呼ばれるそう

1-2、チェーザレ・ボルジアの幼年期

チェーザレは6歳の時に当時の教皇シクストゥス4世によって、司教または枢機卿と既婚女性との子という教会法上の障害を免除され、聖職者を目指すことになり、翌年には実父のロドリーゴ・ボルジア枢機卿(アレクサンデル6世)が後見人に。

チェーザレは12歳までローマで家庭教師による教育を受けたのち、ペルージャ大学で法学と人文学を、パリ大学へ移って神学を学んだということ。チェーザレは狩猟や武芸全般も学んだということで、灰色の目とオレンジ色の髪を持つかなりの美形といわれていて、後にマキャヴェッリが残したチェーザレの印象は「容姿ことのほか美しく堂々とし、武器を取れば勇猛果敢」。

チェーザレは枢機卿の父の縁故で、幼少の頃から教皇庁書記長、バレンシア大聖堂司教座聖堂参事会員、ガンディア司祭他、カルタヘナ大聖堂管財官、タラゴナ大聖堂司教座聖堂参事会員他、パンプローナ司教を歴任。

1-3、チェーザレ、17歳で大司教に就任

1492年8月、父ロドリーゴがアレクサンデル6世として教皇に就任したため、チェーザレはバレンシア大司教として異例の大抜擢。そして1493年9月の枢機卿会議で、チェーザレはバレンシア枢機卿に任命されたことで、アレクサンデル6世の教会内での後継者に。

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カトリック聖職者の子供とは
イエス・キリストが結婚しなかったためカトリックの聖職者は生涯未婚で過ごすはずが、この時代のイタリアではボルジア家だけではなく、ごく普通にカトリックの聖職者、それも枢機卿やローマ教皇が何人もの愛人を持ち、その子供も堂々とコネで出世させたり政略結婚に使ったりしたということ。

これは外国からは目をひそめられたということですが、イタリアではほかの貴族の庶子も嫡子同様に扱われて爵位を継ぐことも珍しくなく、日本で言えば戦国時代の下克上並みの世の中だったということかも。

2-1、チェーザレ、イタリア戦争時に特使に

1494年、アレクサンデル6世に教皇選挙で敗れたジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ枢機卿(のちのユリウス2世)がフランスへ逃れて、ミラノ公国のルドヴィーコ・スフォルツァ(イル・モーロ)らと共謀、そしてフランス国王シャルル8世は、王位継承問題が浮上していた親ボルジア派で縁戚関係のナポリ王国の王位継承権の行使を主張し、フランス軍をイタリアへと侵攻させたため、イタリア戦争が勃発。

フランスがミラノやフェラーラ等のイタリア諸国の協力も取り付け、ナポリ軍は敗北、フランス軍はルッカ、シエーナ等を押さえ、有力なイタリア諸邦であったフィレンツェ共和国もメディチ家の内紛で余力を失っていたため、同年12月31日にシャルル8世はバチカンへ入城。この際に、チェーザレはアレクサンデル6世の特使として、シャルル8世との交渉を担当したそう。

1495年1月、シャルル8世とアレクサンデル6世が、バチカンが預かっていたオスマン帝国の帝位継承者ジェムの身柄をフランスに渡し、チェーザレを人質としてフランス軍の元に置く等の協定を結び、チェーザレはバチカンを退去するフランス軍と共に南下、ナポリ王国の占領に立ち会ったが、フランス軍の隙を見て逃亡。

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