その辺のところをヨーロッパ史も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。
- 1-1、チェーザレ・ボルジアは、ローマの生まれ
- 1-2、チェーザレ・ボルジアの幼年期
- 1-3、チェーザレ、17歳で大司教に就任
- 2-1、チェーザレ、イタリア戦争時に特使に
- 2-2、兄弟のファンが殺害、チェーザレが関与か
- 2-3、チェーザレ、還俗してフランスでナヴァ―ル王の妹と結婚
- 2-4、チェーザレ、カテリーナ・スフォルツァと対戦
- 2-5、チェーザレ、連戦連勝でロマーニャ公爵に
- 2-6、チェーザレ、ウルビーノなどを征服
- 2-7、チェーザレ、マキャヴェッリと出会う
- 2-8、チェーザレ、マジョーネの反乱を鎮圧
- 2-9、チェーザレ、ラミーロ・デ・ロルカを処刑
- 2-10、チェーザレ、シニガッリア事件で反乱軍を鎮圧
- 3-1、父アレクサンデル6世の死
- 3-2、父のライバルを教皇に後押しして失敗
- 3-3、チェーザレの最期
- ローマ教皇の息子として権力の座につき、権謀術数を尽くして活躍
この記事の目次
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、ヨーロッパの歴史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、チェーザレ・ボルジアについて5分でわかるようにまとめた。
1-1、チェーザレ・ボルジアは、ローマの生まれ
チェーザレ・ボルジアは、1475年か1476年の9月、ロドリーゴ・ボルジア枢機卿(のちのローマ教皇アレクサンデル6世)と愛人のヴァノッツァ・カタネイの子としてローマ郊外のスビアーコのアッバツィアーレ要塞で誕生。戸籍上の父親は、当時母ヴァノッツァ・カッタネイの夫だったドメニコ・ダ・リニャーノとされているそうで、同母妹弟としてフアン(兄か弟かはっきりせず)、ルクレツィア、ホフレ、異母兄としてペドロ・ルイスら。
尚、イタリアでは単に「チェーザレ」といえば、ガイオ・ジュリオ・チェーザレすなわち、ガイウス・ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)を指すので、チェーザレ・ボルジアはヴァレンティーノ公と呼ばれるそう。
1-2、チェーザレ・ボルジアの幼年期
チェーザレは6歳の時に当時の教皇シクストゥス4世によって、司教または枢機卿と既婚女性との子という教会法上の障害を免除され、聖職者を目指すことになり、翌年には実父のロドリーゴ・ボルジア枢機卿(アレクサンデル6世)が後見人に。
チェーザレは12歳までローマで家庭教師による教育を受けたのち、ペルージャ大学で法学と人文学を、パリ大学へ移って神学を学んだということ。チェーザレは狩猟や武芸全般も学んだということで、灰色の目とオレンジ色の髪を持つかなりの美形といわれていて、後にマキャヴェッリが残したチェーザレの印象は「容姿ことのほか美しく堂々とし、武器を取れば勇猛果敢」。
チェーザレは枢機卿の父の縁故で、幼少の頃から教皇庁書記長、バレンシア大聖堂司教座聖堂参事会員、ガンディア司祭他、カルタヘナ大聖堂管財官、タラゴナ大聖堂司教座聖堂参事会員他、パンプローナ司教を歴任。
1-3、チェーザレ、17歳で大司教に就任
Cristofano dell’Altissimo – http://www.comune.fe.it/diamanti/mostra_lucrezia/quadri/q08.htm, パブリック・ドメイン, リンクによる
1492年8月、父ロドリーゴがアレクサンデル6世として教皇に就任したため、チェーザレはバレンシア大司教として異例の大抜擢。そして1493年9月の枢機卿会議で、チェーザレはバレンシア枢機卿に任命されたことで、アレクサンデル6世の教会内での後継者に。
カトリック聖職者の子供とは
イエス・キリストが結婚しなかったためカトリックの聖職者は生涯未婚で過ごすはずが、この時代のイタリアではボルジア家だけではなく、ごく普通にカトリックの聖職者、それも枢機卿やローマ教皇が何人もの愛人を持ち、その子供も堂々とコネで出世させたり政略結婚に使ったりしたということ。
これは外国からは目をひそめられたということですが、イタリアではほかの貴族の庶子も嫡子同様に扱われて爵位を継ぐことも珍しくなく、日本で言えば戦国時代の下克上並みの世の中だったということかも。
2-1、チェーザレ、イタリア戦争時に特使に
1494年、アレクサンデル6世に教皇選挙で敗れたジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ枢機卿(のちのユリウス2世)がフランスへ逃れて、ミラノ公国のルドヴィーコ・スフォルツァ(イル・モーロ)らと共謀、そしてフランス国王シャルル8世は、王位継承問題が浮上していた親ボルジア派で縁戚関係のナポリ王国の王位継承権の行使を主張し、フランス軍をイタリアへと侵攻させたため、イタリア戦争が勃発。
フランスがミラノやフェラーラ等のイタリア諸国の協力も取り付け、ナポリ軍は敗北、フランス軍はルッカ、シエーナ等を押さえ、有力なイタリア諸邦であったフィレンツェ共和国もメディチ家の内紛で余力を失っていたため、同年12月31日にシャルル8世はバチカンへ入城。この際に、チェーザレはアレクサンデル6世の特使として、シャルル8世との交渉を担当したそう。
1495年1月、シャルル8世とアレクサンデル6世が、バチカンが預かっていたオスマン帝国の帝位継承者ジェムの身柄をフランスに渡し、チェーザレを人質としてフランス軍の元に置く等の協定を結び、チェーザレはバチカンを退去するフランス軍と共に南下、ナポリ王国の占領に立ち会ったが、フランス軍の隙を見て逃亡。
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