今日は北条時宗(ほうじょうときむね)について勉強していきます。1185年に源頼朝が開いた鎌倉幕府は、やがて将軍ではなく執権の北条氏が政治の権限を握るようになった。

北条時宗はその中で第8代執権を務めており、この時期は元寇も起こっているため重要なポイントでもある。そこで、今回は北条時宗について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から北条時宗をわかりやすくまとめた。

執権・北条氏が政治の権限を握ったいきさつ

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政所別当と侍所別当の兼任

1185年、源頼朝が鎌倉幕府を開いて鎌倉時代が始まります。鎌倉幕府以外に幕府と言えば室町幕府や江戸幕府がありますが、これらの幕府での最高権力者は征夷大将軍であり、室町幕府では足利家、江戸幕府では徳川家が代々征夷大将軍を引き継いでいました。

鎌倉幕府においてもそれは例外ではなく、幕府の最高権力者である源頼朝は征夷大将軍に任命されています。源頼朝の後は、2代目として源頼家、3代目として源実朝が就きますが、源実朝が暗殺されたことで源氏の将軍が不在となり、北条政子(源頼朝の妻)の父・北条時政が政所別当に就任しました。

元々執権は政所別当で将軍の補佐を行っていましたが、次第に政所別当が侍所別当も兼務するようになります。どちらも幕府の要職のため、2つの要職を兼務した執権の権力は高まり、将軍ではなく執権が政治の権限を握るようになったのです。これが執権政治の始まりでもありました。

北条氏が将軍にならなかった理由

最も、執権が政治の権限を握っても将軍が不在になったわけではありません。4代目は源氏ではなく藤原頼経が将軍に任命されており、以後鎌倉幕府が滅亡するまで9代に渡って将軍職は引き継がれていきました。ただし、執権が幕府の権力を手にしてからの将軍は名ばかりの職となったのです。

ここで疑問なのは、「北条氏が権力を持つなら北条氏が将軍になれば良いのでは?」という点でしょう。これは北条氏の身分が理由として考えられ、例え武士でも北条氏は有力農民でしかなく、初代執権を務めた北条時政も下級役人。武士の中でも下位に位置する地位だったのです。

要するに北条氏の身分自体は低く、その北条氏が将軍に就くのは朝廷としても御家人としても考えられないことでした。確かに、北条氏は将軍を操って執権として代々その権力を手にしてきましたが、初代執権である北条時政の場合はその立場は決して安泰と言えるものではなかったでしょう。

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北条時宗の元服・結婚・執権への就任

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元服して「正寿」から「時宗」へ

さて、ここから北条時宗について覚えていきましょう。北条時宗が誕生したのは1251年のことで、相模国鎌倉の安達氏の甘縄邸にて生まれます。父は5代目執権の北条時頼、母は北条重時の娘・葛西殿、2人の次男として誕生した北条時宗には兄・北条時輔がいました。

とは言え、長男は父と側室との間に生まれた子供だったため、後継者として指名されたのは北条時宗です。わずか7歳で元服した北条時宗はこの時から「時宗」を名乗っており、それまでは「正寿」と呼ばれていました。北条時宗への期待の高さは、元服の儀式からも想像できるでしょう。

何しろ、北条時宗の元服の儀式は盛大なものだったと言われています。一方、兄・北条時輔の元服の儀式はそれとは全くの対称的で規模が小さく、それはやはり北条時宗が正室の子で北条時輔が側室の子であるという差によるものでしょう。ここから、北条時宗は執権の後継者としての道を歩んでいきます。

モンゴル帝国の脅威

1261年、北条時宗は鎌倉幕府の有力な御家人・安達義景の娘である堀内殿と結婚。最も、当時北条時宗はまだ11歳、堀内殿はまだ10歳でした。1264年、6代目執権の北条長時が出家したことで北条政村が7代目執権につき、北条時宗はその補佐役とあたる連署へと就任します。

こうして、大きな混乱や戦いが起こらないまま時が過ぎていきますが、あくまでそれは日本の中だけの話。世界では大きな問題が起こっていたのです。世界ではフビライハン率いるモンゴル帝国が急激に勢力を伸ばし、しかもその手が日本にまで及ぼうとしていました。

1268年、北条時宗は18歳の若さで8代目執権に就任します。日本征服を企むフビライハンは日本へと使者を送り、その使者は服従を要求する国書を渡してきました。こうした外交問題は朝廷が担当していましたが、使者の国書への対応に困る朝廷に対して、北条時宗は強気にも無視するよう提案したのです。

二月騒動の発生

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兄・北条時輔の不満

国書を無視した日本に対して、1271年にモンゴル帝国は再び日本に使節を送り込みます。やはり国書という元首の文書を無視した日本の態度に怒りを感じたのか、モンゴル帝国は武力行使によって日本を侵攻すると警告してきました。最も、これまでのモンゴル帝国の動きを見ればその警告がただの脅しではないことは百も承知です。

北条時宗はモンゴル帝国の襲来に備えて異国警固番役を設置、さらに御家人に対しても戦いの準備をさせました。しかし、そんな緊迫した状況の中、1272年にあろうことか北条氏一門で内紛が起きてしまいます。この内紛は二月騒動と呼ばれ、よりによってモンゴル帝国の襲来の直前に起きたのです。

その頃、北条時宗が執権に就任したことに不満を持つ者がいました。それは北条時宗の兄・北条時輔です。やはり、側室の子であったため弟・北条時宗との地位には大きな差があり、兄である自身が六波羅探題の南方の別当だったことに対して、弟が執権を務めていたことが許せなかったのでしょう。

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北条時宗への謀反を企んだ者達

北条時宗に謀反を起こそうとしていたのは、兄・北条時輔だけではありません。北条時章、そしてその弟である・北条教時も同様の謀反を企んでおり、そのためこれらの3人……すなわち、北条時輔・北条時章・北条教時を誅殺(罪をとがめて殺害する)したのでした

また、この二月騒動によって御家人の世良田頼氏も島流しの刑に処されています。これは世良田頼氏が北条教時の姉妹を正室にしていたのが理由で、世良田頼氏も北条教時とつながっていて二月騒動に関係していると判断されました。ただ、この二月騒動は闇が深い事件と解釈されています。

と言うのも、謀反を企んだことで北条時章が誅殺されていますが、その後北条時章の無実が発覚したのです。すると今度は北条時章を誅殺したとされる複数の人物が処罰を受けており、二月騒動は表面化している事実とは異なる真相があるのではないかという意見もあります。

文永の役の発生

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赤坂の戦い

1274年、とうとうモンゴル帝国が日本に襲来してきます。およそ900もの軍船、40000人近くの兵という圧倒的な数のモンゴル軍が対馬へと上陸。次に壱岐にも侵攻すると、次々と日本軍を蹴散らしながら女性や子供などを捕虜にしていきます。さらにモンゴル軍は博多湾にも上陸しました。

日本軍もモンゴル軍の襲来に備えていたため、九州では鎮西奉行を含めた御家人が待ち構えます。モンゴル軍はまず博多西部の赤坂に本陣を構え、馬に乗りながら弓で攻撃。しかし、肥後の御家人・菊池武房の軍勢が立ちはだかって戦闘の末にモンゴル軍を撃退、これを赤坂の戦いと呼びます。

一方、モンゴル軍もそのまま退いたわけではありません。現在の福岡県に位置する麁原山へと逃れると、再びその周辺一帯に陣を構えました。そうすると今度は肥後の御家人・竹崎季長の軍勢と戦闘、ここでも劣勢となったモンゴル軍は麁原から鳥飼潟へと逃げていきます。

鳥飼潟の戦い

肥後の御家人・竹崎季長は、逃げるモンゴル軍を追って自らも前線へ。この鳥飼潟で起きた戦いは鳥飼潟の戦いと呼ばれました。しかし、ここでモンゴル軍が反撃を行ったことで竹崎季長は負傷。一転して危機に陥りますが、肥前の御家人・白石通泰の軍勢が加勢します。

そして、次々と援軍が到着してモンゴル軍を撃退、鳥飼潟の戦いでも日本軍が勝利しました。こうして日本軍はモンゴル軍に何とか勝利、1274年に起きたモンゴル軍の襲来によるこの戦いは文永の役と呼ばれ、後に起こる弘安の役とあわせて元寇と呼ばれています

ちなみに、文永の役の結末は神風と呼ばれる台風によってモンゴル軍が退却したとの解釈でした。「でした」と過去形にしたのは、現在その説は否定されていて、時期や記録から探っても台風到来の事実は確認されず、日本の武士がその強さでモンゴル軍を追い払ったと改訂されています。

弘安の役の発生

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再びの戦いに備えた7年間

1281年、文永の役で撤退したモンゴル軍が再び日本に襲来。2度目となるモンゴル軍との戦いは弘安の役と呼ばれ、1274年の文永の役とあわせて元寇と呼ばれます。ちなみに、弘安の役では北条時宗の名前で作戦が指示されており、それに従って御家人は指揮をとっていました。

文永の役での撤退はモンゴル軍からすれば完全な想定外、7年も期間を空けたのは今度こそ日本軍に勝利するためです。その期間、モンゴル軍は文永の役の時とは比較にならないほどの大規模な艦隊を準備しており、しかも2つの部隊に分かれて攻めるという作戦も考えていました。

その兵力を合わせると兵士150000人以上、軍船4000以上という桁違いの数で、当時では紛れもなく史上最大規模の艦隊だったでしょう。しかし、文永の役からの7年間では日本もまた防衛対策を練っており、石塁を築くなどしてモンゴル軍の襲来に備えていたのです。

北条時宗の死

日本軍の作戦は優秀で、夜襲をかけるなどしてモンゴル軍を次々と撃退、戦いは日本軍の優勢で進んでいきました。さらにここで大型台風が到来してモンゴル軍の軍船が沈没、2ヶ月に及ぶ戦いの上、天候の味方もあって日本軍は再びモンゴル軍に勝利したのです

元寇に勝利した日本軍、当然幕府のトップである北条時宗は日本を救った英雄となりますが、称賛されたのは僅かな期間でしかありません。戦いに勝利しても恩賞となる土地を与えられず、御家人の不満を高めてしまいます。皮肉にも、それは鎌倉幕府が重んじてきた御恩と奉公が災いした結果でした。

幕府にとってそんな不穏な状況の中、1284年に北条時宗は死去。結核もしくは心臓病を患っていたとされていて、当時北条時宗は自身でも死を悟ったそうです。それを示す行動として、まだ34歳だった北条時宗は出家しており、そして出家した当日に息を引き取りました

元寇前の二月騒動を忘れないように!

北条時宗を覚える上で、実際に最も難しいのは名前の暗記です。執権の北条氏は誰もが名前・漢字が似たものになっており、その紛らわしさこそが最大の敵と言っても良いでしょう。最も、それは各々で覚えるしかありません。

一方、今回の解説のように北条時宗の一生の中でのポイントを挙げるなら、それは二月騒動です。二月騒動は元寇の陰に隠れて勉強を見過ごしやすく、元寇の前に二月騒動が起こっていることを忘れないでください。

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日本史歴史鎌倉時代

鎌倉幕府8代目執権「北条時宗」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は北条時宗(ほうじょうときむね)について勉強していきます。1185年に源頼朝が開いた鎌倉幕府は、やがて将軍ではなく執権の北条氏が政治の権限を握るようになった。

北条時宗はその中で第8代執権を務めており、この時期は元寇も起こっているため重要なポイントでもある。そこで、今回は北条時宗について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から北条時宗をわかりやすくまとめた。

執権・北条氏が政治の権限を握ったいきさつ

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政所別当と侍所別当の兼任

1185年、源頼朝が鎌倉幕府を開いて鎌倉時代が始まります。鎌倉幕府以外に幕府と言えば室町幕府や江戸幕府がありますが、これらの幕府での最高権力者は征夷大将軍であり、室町幕府では足利家、江戸幕府では徳川家が代々征夷大将軍を引き継いでいました。

鎌倉幕府においてもそれは例外ではなく、幕府の最高権力者である源頼朝は征夷大将軍に任命されています。源頼朝の後は、2代目として源頼家、3代目として源実朝が就きますが、源実朝が暗殺されたことで源氏の将軍が不在となり、北条政子(源頼朝の妻)の父・北条時政が政所別当に就任しました。

元々執権は政所別当で将軍の補佐を行っていましたが、次第に政所別当が侍所別当も兼務するようになります。どちらも幕府の要職のため、2つの要職を兼務した執権の権力は高まり、将軍ではなく執権が政治の権限を握るようになったのです。これが執権政治の始まりでもありました。

北条氏が将軍にならなかった理由

最も、執権が政治の権限を握っても将軍が不在になったわけではありません。4代目は源氏ではなく藤原頼経が将軍に任命されており、以後鎌倉幕府が滅亡するまで9代に渡って将軍職は引き継がれていきました。ただし、執権が幕府の権力を手にしてからの将軍は名ばかりの職となったのです。

ここで疑問なのは、「北条氏が権力を持つなら北条氏が将軍になれば良いのでは?」という点でしょう。これは北条氏の身分が理由として考えられ、例え武士でも北条氏は有力農民でしかなく、初代執権を務めた北条時政も下級役人。武士の中でも下位に位置する地位だったのです。

要するに北条氏の身分自体は低く、その北条氏が将軍に就くのは朝廷としても御家人としても考えられないことでした。確かに、北条氏は将軍を操って執権として代々その権力を手にしてきましたが、初代執権である北条時政の場合はその立場は決して安泰と言えるものではなかったでしょう。

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