松井須磨子は大正時代に活躍した新劇女優です。劇作家で小説家の島村抱月と不倫関係にありながら、生涯行動を共にしたことでも知られている。松井須磨子を語るとき、彼女の恋愛に生きる情熱が強調されることが多い。しかし、芸能史に多くの功績を残した人物でもあるんです。

それじゃ、「松井須磨子」の人生を読み解きながら、明治から大正時代にかけての芸能史の出来事や変化を、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。日本の芸能史をたどるとき「松井須磨子」を避けて通ることはできない。主に大正時代に活躍した「松井須磨子」は、さまざまな日本初の偉業を成し遂げ、日本の芸能史に変化をもたらした。パートナーである島村抱月との関係と共に、彼女の新劇女優としての活動を解説していく。

長野県に生まれた松井須磨子

松井須磨子
不明 - 自分のコレクション, パブリック・ドメイン, リンクによる

松井須磨子が生まれたのは長野県。明治19年の3月でした。実家があったのは現在の長野市松代町清野にあたる場所。彼女の「松井須磨子」は芸名で、小林正子が本名でした。

幼少期は住みかを転々とする松井須磨子

彼女の父親は小林藤太という名前の士族で、旧松代藩士でした。士族とは、旧武士階級などに相当する立場で、華族にはなれなかった人に与えられた身分です。大家族ながらも生活は豊かではなく、須磨子は養子に出されることになりました。

松井須磨子は、長谷川家の養女として小学校を卒業するものの、養父が亡くなります。そこで須磨子は再び実家に戻りました。しかしながら不幸なことに、すぐに実父も亡くなってしまいます。幼少期の須磨子は、2度も父を亡くすという悲しい経験をすることになりました。

離婚をきっかけに松井須磨子は女優になることを決断

17歳になった須磨子は、先に嫁いでいた姉を頼って上京することを決意。ちなみに姉の嫁ぎ先は「風月堂」。江戸時代中期に起源があり、現在の老舗洋菓子メーカーとして有名な和菓子屋でした。上京したあと須磨子は、現在の戸板女子短期大学である戸板裁縫学校に入学します。

須磨子はその後、ある男性と結婚後するものの、体の弱さから夫の実家との折り合いが悪くなりました。そのため結婚してから1年で離婚することに。それをきっかけに須磨子は今の状況を打破したいと大きな決断をします。それが女優を目指すことでした。

女優になるために手段を選ばなかった松井須磨子

image by PIXTA / 41869677

女優を目指すことを決意視した松井須磨子は、俳優養成学校に願書を出します。面接まで進むものの、合格するには至りませんでした。その理由は彼女の顔立ち。須磨子の顔立ちは地味で、女優としての「華」に欠けていると判断されたのです。

当時の最新技術であった整形手術を実行

地味な顔立ちのままでは女優になれないと思った須磨子は、驚くべき決断をします。それが顔を整形すること。彼女は「低い鼻」を高くするためにワックスを注入する手術を実行。それにより女優松井須磨子としての顔立ちを獲得しました。

ただ、当時の美容整形の技術はとても低いもの。女優として成功したあとも須磨子は後遺症に苦しむことになります。注入したワックスはすぐにずれてしまうもの。さらに体の拒絶反応にも苦しめられます。そのため顔がはれて炎症を起こすことも少なくありませんでした。

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坪内逍遥の文芸協会演劇研究所の第1期生に抜擢

整形後、彼女は念願の俳優養成学校入学が叶います。そして東京俳優養成所の日本史講師であった前沢誠助と結婚。女優と並行して結婚生活が始まります。しかしながら、須磨子の女優人生が順調にすすむにつれて、夫婦のあいだに溝が生じてきました。

決定的となったのが、須磨子が坪内逍遥の文芸協会演劇研究所第1期生に抜擢されたこと。逍遥は、演劇改良運動の中心人物である大物劇作家です。須磨子は女優としての活動が忙しくなり、家事がおろそかになったことから、離婚することになりました。

運命のパートナー島村抱月と出会った松井須磨子

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不明 - 毎日新聞社「昭和史 第3巻」より。, パブリック・ドメイン, リンクによる

着々と女優としての階段を上がり、松井須磨子は運命の男性と出会います。それが島村抱月。坪内逍遥と行動を共にし、演劇改良運動に取り組んでいた作家です。ただ、抱月には妻がいたことから須磨子は愛人という位置づけ。そのためスキャンダルの対象となりつづけました。

島村抱月は新劇運動を推進した劇作家

島村抱月は現在の早稲田大学である東京専門学校を卒業。「早稲田文学」や読売新聞の記者を経て母校の講師になります。早稲田大学の留学生としてイギリスやドイツの大学に留学。帰国後は早稲田大学の教授となり、自然主義文学運動の中心人物として活躍しました。

坪内逍遥と一緒に文芸協会を設立した抱月は、新劇運動の中心人物のひとりとして活躍するようになります。しかしながら松井須磨子とのスキャンダルが逍遥の怒りを買い、文芸協会のみならず早稲田大学も去ることになりました。

新劇運動とは、ヨーロッパスタイルの演劇を目指す日本の演劇運動のこと。同時の日本の演劇は2種類ありました。それが歌舞伎を意味する旧劇、そして書生芝居の伝統を付け継ぐ新派です。それに対して新劇運動は、ヨーロッパの芸術的な演劇を持ち込むことで、2つとは異なる演劇テーマやスタイルを確立することを目指しました。

『人形の家』の主人公ノラ役が大当たりした松井須磨子

image by PIXTA / 29529045

女優松井須磨子の注目度が一気に上がったのが1911年に上演された『人形の家』。須磨子は主人公のノラを演じて高く評価されました。新劇運動のシンボルとして知名度を上げた須磨子は、坪内逍遥のもとを破門された抱月と共に、次のステージにすすみます。

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島村抱月と芸術座を旗揚げ

逍遥のもとを離れた島村抱月と松井須磨子は1913年に劇団・芸術座を旗揚げします。一緒に旗揚げしたのは、相馬御風、水谷竹紫、沢田正二郎、秋田雨雀などでした。

相馬御風は早稲田大学の校歌である「都の西北」の作詞者。澤田正二郎は当時の人気役者のひとり、秋田雨雀は童謡作家でした。さまざまなジャンルの創作家と共に劇団・芸術座は公演活動をはじめます。

松井須磨子が評価されるきっけけとなった『人形の家』はノルウェーの劇作家であるヘンリック・イプセンの戯曲。ひとりの女性が「ひとりの人間」として新しい生き方に目覚めるまでの経緯を描いた社会派の作品です。男性の保護のもと生きる女性の「自立の物語」と言われることも。2度の離婚を経験し、妻子ある抱月と行動を共にする須磨子の意生き方と重なる作品です。

主題歌『カチューシャの唄』のヒットにより流行歌手に

もっとも成功したのがロシアの文豪であるトルストイ原作の『復活』でした。原作を翻訳したのがパートナーの抱月。須磨子は主人公のカチューシャを演じました。『復活』のなかで須磨子が歌った歌が「カチューシャの歌」。これが爆発的にヒットします。作詞は抱月、作曲は中山晋平でした。

レコード化された「カチューシャの歌」は、人々に広く歌われる流行歌となります。当時、蓄音機は一般家庭に普及していませんでした。それにもかかわらず「カチューシャの歌」は2万枚を売り上げるまでに。須磨子は日本初の女性流行歌手となった言えるでしょう。

日本初の偉業を成し遂げた松井須磨子

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松井須磨子は、日本で初めての歌う女優、流行歌手というように、日本の芸能史で初めでと言われる偉業を達成しています。その他、日本で初めてロシア帝国で公演を成功させる、レコード発禁の憂き目に合うということもありました。

ロシア帝国のウラジオストクで公演を成功させる

1915年、松井須磨子はパートナーの島村抱月と一緒に、ロシア帝国のウラジオストクを訪れます。当時のロシア帝国はロマノフ王朝時代の末期。社会主義を目指すロシア革命が起こるちょうど2年前のことでした。

日本における須磨子の代表作のひとつがトルストイの『復活』。トルストイはロシア文学を代表する小説家です。トルストイの舞台を成功させたことが縁で、プーシキン劇場でロシアの劇団との合同講演を行うことが実現。この公演は見事に成功をおさめました。

レコード『今度生まれたら』は日本初の発禁レコードに

また、1917年に発売したレコードである『今度生まれたら』が発禁騒ぎになるということも。この曲は、芸術座による公演『生ける屍』の劇中歌として作られました。北原白秋が作詞したこの曲の一文である「かわい女子(おなご)と寝て暮らそ」が大問題になります。

当時の文部省が、この歌詞を「不適切」であると判断。そのため『今度生まれたら』は発禁レコードとなり、須磨子の幻の作品となります。『今度生まれたら』は日本の芸能史で初めての発禁レコード。須磨子は意図せずに日本初の発禁レコード歌手となりました。

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運命のパートナー島村抱月との別れ

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このように須磨子は、パートナーの島村抱月と一緒に、さまざまな経験と成功を重ねていきます。しかしながら二人の関係は禁じられた不倫関係。抱月には妻子がいたため、当時の新聞のネタとなるようなスキャンダルでした。それでも一緒にいた二人ですが、その関係は長くは続きませんでした。

島村抱月は大学教授の職を辞して松井須磨子と暮らす

島村抱月は須磨子との関係を続けますが、その姿勢は真剣なものでした。抱月は、須磨子と関係を続ける代償として、大御所である坪内逍遥から破門されます。その結果、早稲田大学の教授職も辞めざるを得なくなりました。それでも抱月は須磨子と一緒にいることを選んだのです。

同時に須磨子もまた、抱月との関係を継続することにより、坪内逍遥の研究所を退所する流れに。須磨子と抱月は、覚悟を持って一緒にいる道を選び、劇団・芸術座を立ち上げました。そこで偉業を達成した二人は、結果的に運命共同体だったと言えるでしょう。

スペイン風邪にて亡くなった抱月を追って自殺

しかしながら、抱月との別れは突然に訪れます。1918年、世界ではスペイン風邪が大流行。これは当時のインフルエンザの通称です。最初、スペイン風邪にかかったのは須磨子のみ。それを抱月が看病するという形でした。

しかしながらスペイン風邪は看病する側であった抱月を襲います。その結果、抱月の容態は急に悪くなり、急性の肺炎を併発。急死するに至ります。須磨子は2か月ほど芸術座の公演を続けますが、抱月の後を追って自ら命を絶ちました。

大正時代の芸能史に革新をもたらした松井須磨子

松井須磨子は、養父と実父との死別や二度の離婚を経験するなど、その私生活は波乱万丈でした。しかしながら、女優として生きていく決断をし、そのために努力を重ねた人物。坪内逍遥や島村抱月のような新劇運動の推進者と出会うことで、彼女の才能は一気に開花。新劇は、芸術性の高い舞台を追求するものでしたが、劇中歌をレコード発売して流行させるなど、大正時代の人々の暮らしに彩を与えることにも貢献しました。松井須磨子の人生は、その後も映画化・テレビドラマ化されることもしばしば。彼女の生き方や抱月との関係に注目が集まりがちですが、大正時代の芸能史に変化をもたらす経緯や、歴史的な出来事との接点も含めて見ていくとさらに興味深くなると思います。

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日本史明治歴史

日本初の歌う新劇女優「松井須磨子」の芸能史における貢献を元大学教員がわかりやすく解説

松井須磨子は大正時代に活躍した新劇女優です。劇作家で小説家の島村抱月と不倫関係にありながら、生涯行動を共にしたことでも知られている。松井須磨子を語るとき、彼女の恋愛に生きる情熱が強調されることが多い。しかし、芸能史に多くの功績を残した人物でもあるんです。

それじゃ、「松井須磨子」の人生を読み解きながら、明治から大正時代にかけての芸能史の出来事や変化を、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。日本の芸能史をたどるとき「松井須磨子」を避けて通ることはできない。主に大正時代に活躍した「松井須磨子」は、さまざまな日本初の偉業を成し遂げ、日本の芸能史に変化をもたらした。パートナーである島村抱月との関係と共に、彼女の新劇女優としての活動を解説していく。

長野県に生まれた松井須磨子

松井須磨子
不明 – 自分のコレクション, パブリック・ドメイン, リンクによる

松井須磨子が生まれたのは長野県。明治19年の3月でした。実家があったのは現在の長野市松代町清野にあたる場所。彼女の「松井須磨子」は芸名で、小林正子が本名でした。

幼少期は住みかを転々とする松井須磨子

彼女の父親は小林藤太という名前の士族で、旧松代藩士でした。士族とは、旧武士階級などに相当する立場で、華族にはなれなかった人に与えられた身分です。大家族ながらも生活は豊かではなく、須磨子は養子に出されることになりました。

松井須磨子は、長谷川家の養女として小学校を卒業するものの、養父が亡くなります。そこで須磨子は再び実家に戻りました。しかしながら不幸なことに、すぐに実父も亡くなってしまいます。幼少期の須磨子は、2度も父を亡くすという悲しい経験をすることになりました。

離婚をきっかけに松井須磨子は女優になることを決断

17歳になった須磨子は、先に嫁いでいた姉を頼って上京することを決意。ちなみに姉の嫁ぎ先は「風月堂」。江戸時代中期に起源があり、現在の老舗洋菓子メーカーとして有名な和菓子屋でした。上京したあと須磨子は、現在の戸板女子短期大学である戸板裁縫学校に入学します。

須磨子はその後、ある男性と結婚後するものの、体の弱さから夫の実家との折り合いが悪くなりました。そのため結婚してから1年で離婚することに。それをきっかけに須磨子は今の状況を打破したいと大きな決断をします。それが女優を目指すことでした。

女優になるために手段を選ばなかった松井須磨子

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女優を目指すことを決意視した松井須磨子は、俳優養成学校に願書を出します。面接まで進むものの、合格するには至りませんでした。その理由は彼女の顔立ち。須磨子の顔立ちは地味で、女優としての「華」に欠けていると判断されたのです。

当時の最新技術であった整形手術を実行

地味な顔立ちのままでは女優になれないと思った須磨子は、驚くべき決断をします。それが顔を整形すること。彼女は「低い鼻」を高くするためにワックスを注入する手術を実行。それにより女優松井須磨子としての顔立ちを獲得しました。

ただ、当時の美容整形の技術はとても低いもの。女優として成功したあとも須磨子は後遺症に苦しむことになります。注入したワックスはすぐにずれてしまうもの。さらに体の拒絶反応にも苦しめられます。そのため顔がはれて炎症を起こすことも少なくありませんでした。

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