それじゃ、「松井須磨子」の人生を読み解きながら、明治から大正時代にかけての芸能史の出来事や変化を、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。
- 長野県に生まれた松井須磨子
- 幼少期は住みかを転々とする松井須磨子
- 離婚をきっかけに松井須磨子は女優になることを決断
- 女優になるために手段を選ばなかった松井須磨子
- 当時の最新技術であった整形手術を実行
- 坪内逍遥の文芸協会演劇研究所の第1期生に抜擢
- 運命のパートナー島村抱月と出会った松井須磨子
- 島村抱月は新劇運動を推進した劇作家
- 『人形の家』の主人公ノラ役が大当たりした松井須磨子
- 島村抱月と芸術座を旗揚げ
- 主題歌『カチューシャの唄』のヒットにより流行歌手に
- 日本初の偉業を成し遂げた松井須磨子
- ロシア帝国のウラジオストクで公演を成功させる
- レコード『今度生まれたら』は日本初の発禁レコードに
- 運命のパートナー島村抱月との別れ
- 島村抱月は大学教授の職を辞して松井須磨子と暮らす
- スペイン風邪にて亡くなった抱月を追って自殺
- 大正時代の芸能史に革新をもたらした松井須磨子
この記事の目次
ライター/ひこすけ
文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。日本の芸能史をたどるとき「松井須磨子」を避けて通ることはできない。主に大正時代に活躍した「松井須磨子」は、さまざまな日本初の偉業を成し遂げ、日本の芸能史に変化をもたらした。パートナーである島村抱月との関係と共に、彼女の新劇女優としての活動を解説していく。
長野県に生まれた松井須磨子
不明 – 自分のコレクション, パブリック・ドメイン, リンクによる
松井須磨子が生まれたのは長野県。明治19年の3月でした。実家があったのは現在の長野市松代町清野にあたる場所。彼女の「松井須磨子」は芸名で、小林正子が本名でした。
幼少期は住みかを転々とする松井須磨子
彼女の父親は小林藤太という名前の士族で、旧松代藩士でした。士族とは、旧武士階級などに相当する立場で、華族にはなれなかった人に与えられた身分です。大家族ながらも生活は豊かではなく、須磨子は養子に出されることになりました。
松井須磨子は、長谷川家の養女として小学校を卒業するものの、養父が亡くなります。そこで須磨子は再び実家に戻りました。しかしながら不幸なことに、すぐに実父も亡くなってしまいます。幼少期の須磨子は、2度も父を亡くすという悲しい経験をすることになりました。
離婚をきっかけに松井須磨子は女優になることを決断
17歳になった須磨子は、先に嫁いでいた姉を頼って上京することを決意。ちなみに姉の嫁ぎ先は「風月堂」。江戸時代中期に起源があり、現在の老舗洋菓子メーカーとして有名な和菓子屋でした。上京したあと須磨子は、現在の戸板女子短期大学である戸板裁縫学校に入学します。
須磨子はその後、ある男性と結婚後するものの、体の弱さから夫の実家との折り合いが悪くなりました。そのため結婚してから1年で離婚することに。それをきっかけに須磨子は今の状況を打破したいと大きな決断をします。それが女優を目指すことでした。
女優になるために手段を選ばなかった松井須磨子
女優を目指すことを決意視した松井須磨子は、俳優養成学校に願書を出します。面接まで進むものの、合格するには至りませんでした。その理由は彼女の顔立ち。須磨子の顔立ちは地味で、女優としての「華」に欠けていると判断されたのです。
当時の最新技術であった整形手術を実行
地味な顔立ちのままでは女優になれないと思った須磨子は、驚くべき決断をします。それが顔を整形すること。彼女は「低い鼻」を高くするためにワックスを注入する手術を実行。それにより女優松井須磨子としての顔立ちを獲得しました。
ただ、当時の美容整形の技術はとても低いもの。女優として成功したあとも須磨子は後遺症に苦しむことになります。注入したワックスはすぐにずれてしまうもの。さらに体の拒絶反応にも苦しめられます。そのため顔がはれて炎症を起こすことも少なくありませんでした。
\次のページで「坪内逍遥の文芸協会演劇研究所の第1期生に抜擢」を解説!/