
アンドレ・ブルトンとの決別によりダダイムズは失速
By Anonymous – Museum of New Zealand (Te Papa Tongarewa), Public Domain, Link
世界中に波及したダダイズムですが、フランスのアンドレ・ブルトンが「シュルレアリスム宣言」を想起、新しい芸術運動を立ち上げます。ダダイズムの一部の芸術家はシュルレアリスムに流れ、その他はそれぞれの手法を追求するようになりました。
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ブルトンの誘いによりダダはフランス・パリに拠点を移す
シュルレアリスムとダダは、まったく別の芸術運動というわけではありません。最初は、ダダイズムに興味を持ったブルトンがダダの芸術家をパリに誘うことから始まります。いわば「引き抜き」のようなものの。各地で活発になっていたダダイムズ運動は下火となりました。
ダダの芸術家たちは、しばらくのあいだブルトンと行動を共にするものの、一部の主要な芸術家たちは彼と決裂します。そして、ブルトンの芸術に対する考えに賛同した者は、ダダイストからシュルレアリストに転向しました。
1924年の「シュルレアリスム宣言」の起草によるブルトンの決別
ダダイズムとシュルレアリスムが完全に分かれるきっかけとなったのが、アンドレ・ブルトンにより起草された「シュルレアリスム宣言」です。この起草は1924年に行われました。ブルトンは、ダダとは異なる独自の芸術理論や方法を打ち立てます。
ブルトンの芸術理論は高度に体系化されたもの。その概念に合わない芸術家を排除する傾向がありました。それでも「シュルレアリスム宣言」は多くの芸術家や批評家に評価され、ダダイズムは自然消滅するかたちとなります。
ダダイズムの精神は現代にも引き継がれている
ダダイズムは第一次世界大戦後、新たな芸術運動であるシュルレアリスムの台頭により、運動としては消滅してしまいました。しかしながら、第一次世界大戦に対する芸術家のリアクションに触れることができる貴重な作品が数多く起こした運動であったことは確かです。現代でも、世界各地で紛争が起こったり、世界や国を揺るがす大きな事件が起きることがあります。そのようなとき、当然のようにある「価値観」「伝統」は本当に正しいのか、私たちは考えることでしょう。そのようなとき、ダダのアーティストの実践や行為は、現代にも通じる問題提起となるはずです。過去の芸術運動を現代の視点から理解してみることも、歴史を学ぶ醍醐味と言えるでしょう。