「ダダイズム」は第一次世界大戦の真っただ中に起こった芸術運動です。伝統を破壊する革命的な作品も数多く生まれた。その中心人物であったマルセル・デュシャンは現代でも人気が高い芸術家のひとりです。芸術の歴史のなかでは、シュルレアリスムにつながる運動としても重視されている。

それじゃ、ダダイズムの芸術家たちが行った創作活動の歴史やその社会的に意味について、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。芸術史をたどるとき「ダダイズム」を避けて通ることはできない。第一次世界大戦の最中に始まった「ダダイズム」は、とくにアメリカのニューヨークで活発化した。ダダの芸術家の手法と、その後の影響を解説していく。

ダダイズムとはどのような芸術運動?

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ダダイズムとは1910年代の半ばごろから活発になった芸術運動のことを指します。戦争に対する批判的精神から、伝統的な価値観の破壊を、創作活動を通じて実践しました。ダダイズムは、ひとつの国におさまることなく、アメリカ・ヨーロッパを中心に世界的に広がっていきます。

運動が活発化したのは第一次世界大戦の最中

ダダイズムが始まった1910年代半ばは、ちょうど第一次世界大戦が開始された時期。第一次世界大戦は、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟とイギリス・フランス・ロシアの三国協商のあいだの対立から広がった戦争です。戦争の勃発により、ヨーロッパは広域にわたって戦火に見舞われました。

第一次世界大戦は、とくに若い芸術家の心に大きなインパクトを与えます。ニュース映画などで戦争を目の当たりにする、兵役につくために創作活動を中断する芸術家も少なくありませんでした。地球で初めて起こった世界的な戦争は、芸術家の心を揺さぶる衝撃的な出来事となっていきます。

戦争の無意味さや愚かさを問うダダイスト

第一次世界大戦を通じて若い芸術家たちは、戦争の無意味さや愚かさを感じ取るように。同時に、これまで信じてきた伝統的な価値観にも疑問を抱き始めます。この伝統的な価値観のなかには、美術の歴史や伝統的な絵画の手法も含まれました。

そこで若い芸術家たちが起こした行動が、これまでの既成の概念にとらわれない、新しい芸術を生み出すこと。最初は、伝統的な芸術のルールに沿いながら創作活動をしていたものの、第一次世界大戦が終わるころには、より開放されたかたちとなりました。

「ダダイズム」という名前の由来は?

Grand opening of the first Dada exhibition, Berlin, 5 June 1920.jpg
By Unknown - Richard Huelsenbeck, Editor. Dada Almanach. Berlin: Erich Reiss Verlag, 1920, insert following p. 128. The International Dada Archive, The University of Iowa Libraries, Public Domain, Link

「ダダイズム」に括られる芸術運動は、自然発生的にアメリカ・ヨーロッパで起こっていました。そのため、どの時点でダダイズムが始まっているのか、はっきりさせることはできません。具体的に命名されたのは1916年の「ダダ宣言」と言われています。

フランスの詩人トリスタン・ツァラが命名

フランスの詩人であるトリスタン・ツァラが、いくつかの新しい芸術運動の流れを「ダダ」と命名したというのが定説。辞典から適当に見つけて命名したのが「ダダ宣言」だったと言われています。トリスタン・ツァラは、このような経緯から「ダダイズムの創始者」と位置づけられました。

ツァラ自身は、ルーマニアの北部で生まれたユダヤ人。裕福な家で育てられた人物です。彼はもともと象徴主義の影響を強く受けており、実験的な詩を書いていました。その後、彼は偶然性を重視するより挑発的なパフォーマンスに興味を持つようになります。

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スイスのチューリッヒでダダイズムを創立

そこでトリスタン・ツァラは、仲間と一緒にスイスのチューリッヒに拠点を移し、そこでダダイズム運動を創設するに至ります。彼らがダダの実践の拠点としたのが「キャバレー・ヴォルテール」。ドイツ人文学者であるフーゴー・バルがつくったキャバレーで、そこには各国からの亡命者が集まりました。

トリスタン・ツァラは「キャバレー・ヴォルテール」にて、言語の存在を無意味にしてしまうような過激なパフォーマンスを実践。世界中の芸術家たちに大きな衝撃を与えます。そのひとりが後のシュルレアリスムの創始者となるアンドレ・ブルトンでした。

ダダイズムは人間の理性に疑問を投げかける

image by PIXTA / 36067540

ダダイズムの基本的な精神は人間の理性を信頼しないこと。人間が認識するすべては、理性を介したものにすぎません。ダダのアーティストたちは、知らず知らずのうちに影響を与えている理性を、いかに剥ぎ取るのかに情熱を注ぎます。

ダダイストは反戦系と風刺系に分かれる

ダダイストの一つの流れは戦争にたいする批判精神。自分の国の政策に疑問をもち、芸術家によっては反逆的な存在と見なされている人もいました。当初、ダダのアーティストはスイスのチューリッヒに集まりますが、実質、亡命であったケースも少なくありません。

常識とされているもの、権威的なもの、伝統的なものを風刺することも、ダダイズムの作品の大きな特徴です。のちに紹介するマルセル・デュシャンのように、創作テーマを「便器」にする、名画として名高いモナリザに「髭」を描くなど、挑発的であると同時にユーモラスな作品も生まれました。

写真の芸術的可能性を高めたのもダダイストたち

同時に、芸術の手段としての可能性が未知数であった写真を積極的に活用したのもダダの芸術家たちです。ダダイズムに括られる写真家が発展させたのがコラージュ的な手法。写真の用語で「フォトモンタージュ」と言われることもあります。

「フォトモンタージュ」は、写真を切り貼りした作品、多重露光などの技術を取り入れた作品のことです。「フォトモンタージュ」は、ダダイズムからシュルレアリスムに引き継がれ、さらにはロシアで独自の発展をとげることになります。

ニューヨーク・ダダの中心的アーティスト

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By siddarth_hanumanthu - Own work, CC BY-SA 4.0, Link

世界中に波及したダダイズム運動ですが、その中心となった場所がニューヨークです。ニューヨーク・ダダには、マルセル・デュシャンやマン・レイなど、ダダイズムを代表するアーティストが活躍しました。ニューヨークはダダの代表的場所と言ってもいいでしょう。

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便器をアートに変えたマルセル・デュシャン

マルセル・デュシャンは、既成芸術に対する異議申し立てをユニークな手法で表現した芸術家です。生まれはフランスですがアメリカで活動し、1950年代にはアメリカ国籍を取得しました。デュシャンは芸術に対する疑問から、作品らしい作品をあまり作っていません。代わりに彼が熱中したのが「レディ・メイド」と言われる方法です。

「レディ・メイド」とは、すでにある商業的な商品などに手を加えて作品化する手法。デュシャンの代表的作品となる『噴水』は、男性用の便器に署名をしただけの作品です。ニューヨーク・アンデパンダン展に匿名で出品。しかし、作品なのか何のか分からず、議論を巻き起こすこともなかったようです。

マン・レイはダダイズムを写真で表現

もう一人のニューヨーク・ダダの重要人物となるのがマン・レイです。マン・レイは、ダダイズムからシュルレアリスムの流れを作ったアーティストでもあります。彼が得意としたのが写真の撮影技術の応用。レイヨグラフ、ソラリゼーションなどの技術を使った作品を発表しました。

マン・レイはデュシャンとこうどうを共にする時期も。1921年には、デュシャンと一緒に「ニューヨーク・ダダ」誌を創刊しました。その後、フランスに渡って創作活動をするなかでシュルレアリスムと出会い、その運動に参加するようになります。第1回シュルレアリスム展では、同時期にシュルレアリスムに傾倒していたパブロ・ピカソとも共演を果たしました。

ベルリン・ダダの中心的アーティスト

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I, Ondřej Žváček, CC 表示 2.5, リンクによる

ニューヨーク・ダダと同じ時代に派生したのがドイツのベルリン・ダダです。ニューヨークとくらべると現代でも有名なアーティストは少ないのですが、その後のナチス・ドイツの台頭を批判する芸術家も多いことから歴史的に重要な存在となりました。

諷刺画家として名高いジョージ・グロス

ジョージ・グロスはドイツ生まれの画家で、諷刺的な画風に大きな特徴があります。第一次世界大戦の志願兵として参戦するものの、戦争の実態に幻滅。ドイツの民族主義に異議を申し立てるために自分の名前を英語読みのジョージ(George)に変えます。

ジョージ・グロスの作品は、戦争の無意味さや人間の生活そのものなど、あらゆるものに疑問を投げかけました。あらゆる対象を変形させ、ときとして母国であるドイツの姿を皮肉たっぷりに描きます。社会主義に傾倒してドイツ共産党に入党した時期も。政治活動と創作活動をセットに行うタイプの芸術家でした。

ジョン・ハートフィールドはナチス批判に向かう

ジョン・ハートフィールドは、ドイツのベルリンを拠点に活躍した写真家で、ダダイストとしても活動しました。彼の写真家としての功績はダダの代名詞とも言えるフォトモンタージュの手法を完成させたこと。多くの写真家が採用したコラージュではなく、切り貼りした跡が全く分からない精巧な作りが彼の作品の特徴でした。

フォトモンタージュのテーマの大部分はナチスの政策を批判するもの。彼の作品はドイツ共産党のプロパガンダ誌であるAIZの表紙をたびたび飾りました。ジョン・ハートフィールドはナチス批判を積極的に行ったことから、特定の場所に居を構えることはせず、各地を転々としていたと言われています。

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アンドレ・ブルトンとの決別によりダダイムズは失速

Dada artists, group photograph, 1920, Paris.jpg
By Anonymous - Museum of New Zealand (Te Papa Tongarewa), Public Domain, Link

世界中に波及したダダイズムですが、フランスのアンドレ・ブルトンが「シュルレアリスム宣言」を想起、新しい芸術運動を立ち上げます。ダダイズムの一部の芸術家はシュルレアリスムに流れ、その他はそれぞれの手法を追求するようになりました。

ブルトンの誘いによりダダはフランス・パリに拠点を移す

シュルレアリスムとダダは、まったく別の芸術運動というわけではありません。最初は、ダダイズムに興味を持ったブルトンがダダの芸術家をパリに誘うことから始まります。いわば「引き抜き」のようなものの。各地で活発になっていたダダイムズ運動は下火となりました。

ダダの芸術家たちは、しばらくのあいだブルトンと行動を共にするものの、一部の主要な芸術家たちは彼と決裂します。そして、ブルトンの芸術に対する考えに賛同した者は、ダダイストからシュルレアリストに転向しました。

1924年の「シュルレアリスム宣言」の起草によるブルトンの決別

ダダイズムとシュルレアリスムが完全に分かれるきっかけとなったのが、アンドレ・ブルトンにより起草された「シュルレアリスム宣言」です。この起草は1924年に行われました。ブルトンは、ダダとは異なる独自の芸術理論や方法を打ち立てます。

ブルトンの芸術理論は高度に体系化されたもの。その概念に合わない芸術家を排除する傾向がありました。それでも「シュルレアリスム宣言」は多くの芸術家や批評家に評価され、ダダイズムは自然消滅するかたちとなります。

ダダイズムの精神は現代にも引き継がれている

ダダイズムは第一次世界大戦後、新たな芸術運動であるシュルレアリスムの台頭により、運動としては消滅してしまいました。しかしながら、第一次世界大戦に対する芸術家のリアクションに触れることができる貴重な作品が数多く起こした運動であったことは確かです。現代でも、世界各地で紛争が起こったり、世界や国を揺るがす大きな事件が起きることがあります。そのようなとき、当然のようにある「価値観」「伝統」は本当に正しいのか、私たちは考えることでしょう。そのようなとき、ダダのアーティストの実践や行為は、現代にも通じる問題提起となるはずです。過去の芸術運動を現代の視点から理解してみることも、歴史を学ぶ醍醐味と言えるでしょう。

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アメリカの歴史世界史歴史独立後

芸術の既成概念の破壊を目指した「ダダイズム」を元大学教員がわかりやすく解説

「ダダイズム」は第一次世界大戦の真っただ中に起こった芸術運動です。伝統を破壊する革命的な作品も数多く生まれた。その中心人物であったマルセル・デュシャンは現代でも人気が高い芸術家のひとりです。芸術の歴史のなかでは、シュルレアリスムにつながる運動としても重視されている。

それじゃ、ダダイズムの芸術家たちが行った創作活動の歴史やその社会的に意味について、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。芸術史をたどるとき「ダダイズム」を避けて通ることはできない。第一次世界大戦の最中に始まった「ダダイズム」は、とくにアメリカのニューヨークで活発化した。ダダの芸術家の手法と、その後の影響を解説していく。

ダダイズムとはどのような芸術運動?

image by PIXTA / 3937341

ダダイズムとは1910年代の半ばごろから活発になった芸術運動のことを指します。戦争に対する批判的精神から、伝統的な価値観の破壊を、創作活動を通じて実践しました。ダダイズムは、ひとつの国におさまることなく、アメリカ・ヨーロッパを中心に世界的に広がっていきます。

運動が活発化したのは第一次世界大戦の最中

ダダイズムが始まった1910年代半ばは、ちょうど第一次世界大戦が開始された時期。第一次世界大戦は、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟とイギリス・フランス・ロシアの三国協商のあいだの対立から広がった戦争です。戦争の勃発により、ヨーロッパは広域にわたって戦火に見舞われました。

第一次世界大戦は、とくに若い芸術家の心に大きなインパクトを与えます。ニュース映画などで戦争を目の当たりにする、兵役につくために創作活動を中断する芸術家も少なくありませんでした。地球で初めて起こった世界的な戦争は、芸術家の心を揺さぶる衝撃的な出来事となっていきます。

戦争の無意味さや愚かさを問うダダイスト

第一次世界大戦を通じて若い芸術家たちは、戦争の無意味さや愚かさを感じ取るように。同時に、これまで信じてきた伝統的な価値観にも疑問を抱き始めます。この伝統的な価値観のなかには、美術の歴史や伝統的な絵画の手法も含まれました。

そこで若い芸術家たちが起こした行動が、これまでの既成の概念にとらわれない、新しい芸術を生み出すこと。最初は、伝統的な芸術のルールに沿いながら創作活動をしていたものの、第一次世界大戦が終わるころには、より開放されたかたちとなりました。

「ダダイズム」という名前の由来は?

Grand opening of the first Dada exhibition, Berlin, 5 June 1920.jpg
By UnknownRichard Huelsenbeck, Editor. Dada Almanach. Berlin: Erich Reiss Verlag, 1920, insert following p. 128. The International Dada Archive, The University of Iowa Libraries, Public Domain, Link

「ダダイズム」に括られる芸術運動は、自然発生的にアメリカ・ヨーロッパで起こっていました。そのため、どの時点でダダイズムが始まっているのか、はっきりさせることはできません。具体的に命名されたのは1916年の「ダダ宣言」と言われています。

フランスの詩人トリスタン・ツァラが命名

フランスの詩人であるトリスタン・ツァラが、いくつかの新しい芸術運動の流れを「ダダ」と命名したというのが定説。辞典から適当に見つけて命名したのが「ダダ宣言」だったと言われています。トリスタン・ツァラは、このような経緯から「ダダイズムの創始者」と位置づけられました。

ツァラ自身は、ルーマニアの北部で生まれたユダヤ人。裕福な家で育てられた人物です。彼はもともと象徴主義の影響を強く受けており、実験的な詩を書いていました。その後、彼は偶然性を重視するより挑発的なパフォーマンスに興味を持つようになります。

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