日本史歴史飛鳥時代

藤原鎌足となって一生を終えた「中臣鎌足」を元塾講師が分かりやすく5分で解説

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大化の改新によって、日本は律令国家としての形を作っていった。中臣鎌足や中大兄皇子がそこまでして律令国家にこだわったたのは、唐の存在が理由だ。大国である唐と対等に渡り合うには、日本も1つになる必要があると考えていたのだ。

中臣鎌足 ~白村江の戦いから藤原鎌足~

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白村江の戦いと中大兄皇子の即位

孝徳天皇が死去すると、皇極天皇が再び即位して天皇となりました。ただし、この時には斉明天皇と名前が変わっています。斉明天皇は東北地方にまで朝廷の支配を広げていきますが、そんな中で起こったのが友好関係を築いていた百済の滅亡。百済が唐と新羅に攻められてしまったのです。

友好関係という立場から、斉明天皇と中大兄皇子は百済を救済するための挙兵を決意。自ら指揮をとって朝鮮半島に向かう斉明天皇でしたが、不運なことにその途中で死去してしまいます。これが指揮の低下を招き、662年の白村江の戦いでは唐と新羅の軍に敗れてしまいました。

さて、これまで皇太子として政治を進めてきた中大兄皇子は、斉明天皇が死去したことでとうとう即位して天智天皇へとなります。しかし、この頃から天智天皇は弟の大海人皇子と不仲になってしまい、ここで両者の間をうまく取り持っていたのが中臣鎌足でした。

藤原鎌足となった翌日の死去

例えば、こんな事件もありました。ある時、宴会で酔った大海人皇子が天智天皇に向けてヤリを投げつけたのです。大海人皇子の行動は本来許されるものではなく、天皇を攻撃したその行為は反逆罪に等しい罪でしょう。この時、中臣鎌足が調停として両者の間に入ったため、大事に至らずに解決しました。

669年のこと、それは中大兄皇子が天智天皇として即位した翌年のことです。御猟場に狩りに出た中臣鎌足は、馬から転落して背中を強打してしまいます。天智天皇は見舞いのために中臣鎌足のもとを訪れると、中臣鎌足は「生きては軍国に務無し」と口にしたそうです。

訳せばこれは「自分は軍略で貢献できなかった」となり、おそらくですが白村江の戦いで敗北した責任を感じていたのでしょう。そんな中臣鎌足に対して天智天皇は大織冠を授け、さらには内大臣にも任命、そして「藤原」の姓を与えたのでした。この瞬間から中臣鎌足は藤原鎌足になりますが、藤原鎌足となったその翌日に死去したのです

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中大兄皇子にとって、中臣鎌足は部下というよりも生涯の相棒だったのだろう。だからこそ中臣鎌足が負傷した時には見舞いに行き、これ以上はないと言えるほどの評価を授けた。そして、藤原の中臣鎌足は藤原の姓を賜って死去した。

ポイントは乙巳の変、大化の改新、2人のエピソード!

中臣鎌足から連想するのは中大兄皇子、つまり中臣鎌足を覚えるなら中大兄皇子と行動を共にした部分を中心に覚えるべきでしょう。そうなると乙巳の変と大化の改新は欠かせないため、これらの区別を確実にできるようにしてください。

また、2人のエピソードについてもある程度把握しておきましょう。例えば、2人の出会いはまさに運命的ですし、最後に中臣鎌足を見舞った時の中大兄皇子も天皇として中臣鎌足に対して最大限の評価を与えています。

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shintomoyui0311