日本史歴史飛鳥時代

藤原鎌足となって一生を終えた「中臣鎌足」を元塾講師が分かりやすく5分で解説

飛鳥寺の蹴鞠会での運命の出会い

打倒蘇我氏を実現するため、当初、中臣鎌足は皇極天皇の弟・軽皇子に目をつけました。しかし、軽皇子の能力を考えると頼りなく、新たな人物を探す中で中臣鎌足は運命的な出会いを果たします。それは飛鳥寺での蹴鞠(けまり)会での出来事で、そこにいたのは皇極天皇の息子・中大兄皇子でした。

蹴鞠とは鞠を地面に落とさないように蹴り合う競技で、中大兄皇子もこれを楽しんでいたのです。その日、蹴鞠に夢中になっていた中大兄皇子の靴が脱げてしまい、中臣鎌足はその靴を拾って中大兄皇子に渡します。感謝した中大兄皇子、そして中大兄皇子の態度に感激した中臣鎌足、この出会いが蘇我氏を滅亡へと導くのでした。

中臣鎌足と中大兄皇子が親しくなったのは2人が同じ考えを持っていたからで、その考えとは「蘇我氏打倒」です。中大兄皇子もまた国の現状に危機感を抱いており、理想とする律令国家実現のためには蘇我氏を倒すべきと考えていました。こうして意気投合した2人は、蘇我氏打倒に向けた策を練っていきます。

蘇我氏の滅亡

中臣鎌足と中大兄皇子は、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)を味方に取り込むことに成功。名前から連想できるとおり、蘇我倉山田石川麻呂は蘇我氏の一族であるため、本来なら中臣鎌足らが倒そうとする蘇我入鹿を支持する立場にある人物でした。

しかし、蘇我倉山田石川麻呂は蘇我入鹿を嫌っていたため味方となり、このようにして蘇我氏の反対勢力を水面下で拡大させ、運命の日となる645年の7月10日を迎えます。その日、大極殿と呼ばれる大広間に蘇我入鹿を呼び出した中臣鎌足と中大兄皇子は、まず蘇我入鹿を殺害しました。

蘇我入鹿が殺害されれば蘇我氏の報復が起こるところですが、あらかじめ蘇我氏の反対勢力を拡大させていたことから蘇我蝦夷は孤立。さすがに観念したのか、蘇我蝦夷は自ら自邸に火を放って自害、この一連のクーデターは乙巳の変(いっしのへん)と呼ばれ、蘇我氏は滅亡しました。

no-img2″>
 <figcaption class=桜木建二

中臣鎌足と中大兄皇子のクーデターは大化の改新と間違えやすい。しかし、645年に起きたこのクーデターは乙巳の変であり、これ以降行われた一連の改革が大化の改新だ。つまり、乙巳の変は大化の改新の第一歩という位置づけになるぞ。

中臣鎌足 ~大化の改新~

image by PIXTA / 57554620

新政権の誕生

乙巳の変によって独裁政権を続けた蘇我氏の宗家を滅ぼした中臣鎌足と中大兄皇子、ここから新たな政治改革……すなわち大化の改新が始まります。蘇我蝦夷が自害した翌日に皇極天皇が退位すると、かわって軽皇子が孝徳天皇として即位、そして中大兄皇子は皇太子になりました。

最も、政治の実権を握っていたのは孝徳天皇ではなく中大兄皇子です。中大兄皇子は左大臣に阿部内麻呂、右大臣に蘇我倉山田石川麻呂、国博士に高向玄理と旻、そして中臣鎌足を内臣として指名しました。こうして新政権が整い、大化の改新が進められていきます。

大化の改新を行った目的は日本の律令国家を実現することで、これは中国の律令制を参考にした上での考えでした。これまで、国は各地方ごとに力を持つ豪族がその地の民衆を直接支配していましたが、この制度を廃止して天皇中心とする律令国家を目指していきます。

改新の詔による4つの方針

大化の改新は、646年に発布された改新の詔に基づいて行った政治改革です。具体的には、改新の詔には4つの方針が定められていました。1つ目に公地公民制、これは豪族が個々に支配していた人民や土地を廃止して、これらを天皇が統一して支配することにする制度です。

2つ目に班田収授制、これは豪族や人民に田を預けて、その収穫から税を徴収する制度になります。「与える」ではなく「預ける」と表現されているのがポイントで、豪族や人民はこれが私有地となったわけではありません。3つ目に租庸調制、これは税金の仕組みを示したものです。

人民に税や労働を負担させることを定め、税や労働の内容を「租」・「庸」・「調」で分けていました。4つ目に国郡里制、これは日本の行政区を66の国に分けたもので、さらにその国を郡に分け、役所を設置して人民を統制させて天皇による中央集権化をはかったものです。

次のページを読む
1 2 3 4
Share:
shintomoyui0311