
蘇我氏の独裁政権
中臣鎌足が誕生した時は推古天皇の時代で、推古天皇は聖徳太子と蘇我馬子の二頭政治を行い、権力を高めようとする蘇我氏を制御していました。しかし、中臣鎌足が30歳になった頃には情勢が大きく変わっています。推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子はいずれも死去、しかも推古天皇は後継者を指名することなく死去してしまいました。
そこで勃発したのが天皇の後継者争いであり、蘇我馬子の子・蘇我蝦夷の動きによって天皇までもが蘇我氏の言いなり状態になっていたのです。最も、さすがの蘇我氏も自身の息のかかっていない人物が天皇に即位すれば権力を失うため、その点重々承知した上で次期天皇を推薦していました。
世間では聖徳太子の子・山背大兄王が人気を集めていましたが、山背大兄王が次期天皇の候補に挙がるたびに蘇我氏が妨害し、代々天皇は蘇我氏の望む人物が引き継いでいったのです。やがて蘇我蝦夷が子・蘇我入鹿に大臣の座を譲った後もそれは変わらず、蘇我氏による独裁政権が維持されました。
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飛鳥へと戻ってきた中臣鎌足
しかし、いくら権力の高い蘇我氏でも限度があり、独裁政権に従う人々を激怒させてしまう事件が起こります。天皇の後継者争いが起こるたびに次期天皇と期待される山背大兄王、蘇我入鹿はそんな山背大兄王が邪魔になって妻子もろとも自害へと追い込んでしまったのです。
人気の高い山背大兄王を死に追いやったことで蘇我氏は人々から非難され、「蘇我氏を倒すべき」の声まで挙がるようになりました。蘇我入鹿の行動は蘇我蝦夷から見ても愚かに映ったようで、山背大兄王を自害に追い込んだ蘇我入鹿を叱責し、「身を滅ぼす行為になるぞ」と警告したそうです。
そして、中臣鎌足もまた蘇我氏の独裁政権を不満に思っている一人でした。政治から退いていた中臣鎌足は、蘇我氏打倒を目的に飛鳥へと戻ってきます。中臣鎌足がまず行ったのは皇位継承の権利を持ち、なおかつ蘇我氏打倒の意義を持つほどの有能な人物を見つけ出すことでした。

推古天皇は蘇我氏をうまく制御して聖徳太子との二頭政治を行っていた。しかし、推古天皇が死去すると蘇我氏はやがて天皇を凌ぐほどの権力を手にする。そんな蘇我氏の独裁政権を不満に思う中臣鎌足は、蘇我氏打倒のため飛鳥へと戻ってきた。