今日は中臣鎌足(なかとみのかまたり)について勉強していきます。中臣鎌足と言えば、中大兄皇子と共に大化の改新を行った人物として有名ですが、逆に言えば他の部分について知らない人も多い。

例えば、「中臣鎌足=藤原鎌足(ふじわらのかまたり)」であることや、大化の改新以前の中臣鎌足を知っている人は少ない。そこで、今回は中臣鎌足について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から中臣鎌足をわかりやすくまとめた。

中臣鎌足 ~誕生から青年期~

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中臣御食子の嫡男として誕生

中臣鎌足が誕生したのは614年、中臣御食子(なかとみのみけこ)の嫡男として生まれます。中臣御食子は朝廷の祭祀を行う官庁である神祇官の長官で、神祇伯の地位につく人物でした。1つ注意点として挙げられるのが、中臣鎌足が幼い頃に中臣鎌子と名乗っていたことです。

と言うのも、物部尾輿と共に排仏を行ったのが中臣鎌子なのですが、この中臣鎌子と中臣鎌足が名乗った中臣鎌子は別人であり、その点が少々紛らわしくなっています。最も、早い段階で中臣鎌足に改名しているため、中臣鎌足が中臣鎌子の名前で歴史に登場することはまずないでしょう。

生まれた場所は現在でも明らかになっておらず、そのため複数の説が存在します。奈良県で生まれた説や茨城県で生まれた説などがあり、いずれもそれなりの根拠は解説されているものの、未だ正確に生まれた地を特定するまでには至っていないのが事実です。

蘇我入鹿と共に学んだ南淵請安の塾

中臣鎌足は中国の史書に関心を持っていて、六韜(りくとう)と呼ばれる中国の代表的な兵法書を暗記するほどでした。ある時、朝廷から隋・唐に派遣されていた南渕請安が帰国して塾を開くと、中臣鎌足はその塾に入って儒教を学びます。実はこの時、後に政敵となる蘇我入鹿も同じ塾に通っていました。

両者ともこの頃から優秀で、中臣鎌足と蘇我入鹿は南淵請安の塾での双璧と評価されていたようです。中臣鎌足が30歳になると、中臣氏が代々引き継いできた神祇官の役職への就任が勧められますが、中臣鎌足はこれを断り、摂津の三島へと退いて政治の世界から一旦離れています。

この時の中臣鎌足の本心には様々な説がありますが、一説として挙げられるのは「神祇官の地位が蘇我氏の大臣に比べてかなり下だったために避けた」との解釈です。仮にそのとおりだとすると、中臣鎌足はこの時点で既に蘇我氏を倒すことを考えていたのかもしれません。

推古天皇死後の政治

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蘇我氏の独裁政権

中臣鎌足が誕生した時は推古天皇の時代で、推古天皇は聖徳太子と蘇我馬子の二頭政治を行い、権力を高めようとする蘇我氏を制御していました。しかし、中臣鎌足が30歳になった頃には情勢が大きく変わっています。推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子はいずれも死去、しかも推古天皇は後継者を指名することなく死去してしまいました。

そこで勃発したのが天皇の後継者争いであり、蘇我馬子の子・蘇我蝦夷の動きによって天皇までもが蘇我氏の言いなり状態になっていたのです。最も、さすがの蘇我氏も自身の息のかかっていない人物が天皇に即位すれば権力を失うため、その点重々承知した上で次期天皇を推薦していました。

世間では聖徳太子の子・山背大兄王が人気を集めていましたが、山背大兄王が次期天皇の候補に挙がるたびに蘇我氏が妨害し、代々天皇は蘇我氏の望む人物が引き継いでいったのです。やがて蘇我蝦夷が子・蘇我入鹿に大臣の座を譲った後もそれは変わらず、蘇我氏による独裁政権が維持されました。

飛鳥へと戻ってきた中臣鎌足

しかし、いくら権力の高い蘇我氏でも限度があり、独裁政権に従う人々を激怒させてしまう事件が起こります。天皇の後継者争いが起こるたびに次期天皇と期待される山背大兄王、蘇我入鹿はそんな山背大兄王が邪魔になって妻子もろとも自害へと追い込んでしまったのです

人気の高い山背大兄王を死に追いやったことで蘇我氏は人々から非難され、「蘇我氏を倒すべき」の声まで挙がるようになりました。蘇我入鹿の行動は蘇我蝦夷から見ても愚かに映ったようで、山背大兄王を自害に追い込んだ蘇我入鹿を叱責し、「身を滅ぼす行為になるぞ」と警告したそうです。

そして、中臣鎌足もまた蘇我氏の独裁政権を不満に思っている一人でした。政治から退いていた中臣鎌足は、蘇我氏打倒を目的に飛鳥へと戻ってきます。中臣鎌足がまず行ったのは皇位継承の権利を持ち、なおかつ蘇我氏打倒の意義を持つほどの有能な人物を見つけ出すことでした。

中臣鎌足 ~中大兄皇子との出会いから乙巳の変~

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飛鳥寺の蹴鞠会での運命の出会い

打倒蘇我氏を実現するため、当初、中臣鎌足は皇極天皇の弟・軽皇子に目をつけました。しかし、軽皇子の能力を考えると頼りなく、新たな人物を探す中で中臣鎌足は運命的な出会いを果たします。それは飛鳥寺での蹴鞠(けまり)会での出来事で、そこにいたのは皇極天皇の息子・中大兄皇子でした。

蹴鞠とは鞠を地面に落とさないように蹴り合う競技で、中大兄皇子もこれを楽しんでいたのです。その日、蹴鞠に夢中になっていた中大兄皇子の靴が脱げてしまい、中臣鎌足はその靴を拾って中大兄皇子に渡します。感謝した中大兄皇子、そして中大兄皇子の態度に感激した中臣鎌足、この出会いが蘇我氏を滅亡へと導くのでした。

中臣鎌足と中大兄皇子が親しくなったのは2人が同じ考えを持っていたからで、その考えとは「蘇我氏打倒」です。中大兄皇子もまた国の現状に危機感を抱いており、理想とする律令国家実現のためには蘇我氏を倒すべきと考えていました。こうして意気投合した2人は、蘇我氏打倒に向けた策を練っていきます。

蘇我氏の滅亡

中臣鎌足と中大兄皇子は、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)を味方に取り込むことに成功。名前から連想できるとおり、蘇我倉山田石川麻呂は蘇我氏の一族であるため、本来なら中臣鎌足らが倒そうとする蘇我入鹿を支持する立場にある人物でした。

しかし、蘇我倉山田石川麻呂は蘇我入鹿を嫌っていたため味方となり、このようにして蘇我氏の反対勢力を水面下で拡大させ、運命の日となる645年の7月10日を迎えます。その日、大極殿と呼ばれる大広間に蘇我入鹿を呼び出した中臣鎌足と中大兄皇子は、まず蘇我入鹿を殺害しました。

蘇我入鹿が殺害されれば蘇我氏の報復が起こるところですが、あらかじめ蘇我氏の反対勢力を拡大させていたことから蘇我蝦夷は孤立。さすがに観念したのか、蘇我蝦夷は自ら自邸に火を放って自害、この一連のクーデターは乙巳の変(いっしのへん)と呼ばれ、蘇我氏は滅亡しました。

中臣鎌足 ~大化の改新~

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新政権の誕生

乙巳の変によって独裁政権を続けた蘇我氏の宗家を滅ぼした中臣鎌足と中大兄皇子、ここから新たな政治改革……すなわち大化の改新が始まります。蘇我蝦夷が自害した翌日に皇極天皇が退位すると、かわって軽皇子が孝徳天皇として即位、そして中大兄皇子は皇太子になりました。

最も、政治の実権を握っていたのは孝徳天皇ではなく中大兄皇子です。中大兄皇子は左大臣に阿部内麻呂、右大臣に蘇我倉山田石川麻呂、国博士に高向玄理と旻、そして中臣鎌足を内臣として指名しました。こうして新政権が整い、大化の改新が進められていきます。

大化の改新を行った目的は日本の律令国家を実現することで、これは中国の律令制を参考にした上での考えでした。これまで、国は各地方ごとに力を持つ豪族がその地の民衆を直接支配していましたが、この制度を廃止して天皇中心とする律令国家を目指していきます。

改新の詔による4つの方針

大化の改新は、646年に発布された改新の詔に基づいて行った政治改革です。具体的には、改新の詔には4つの方針が定められていました。1つ目に公地公民制、これは豪族が個々に支配していた人民や土地を廃止して、これらを天皇が統一して支配することにする制度です。

2つ目に班田収授制、これは豪族や人民に田を預けて、その収穫から税を徴収する制度になります。「与える」ではなく「預ける」と表現されているのがポイントで、豪族や人民はこれが私有地となったわけではありません。3つ目に租庸調制、これは税金の仕組みを示したものです。

人民に税や労働を負担させることを定め、税や労働の内容を「租」・「庸」・「調」で分けていました。4つ目に国郡里制、これは日本の行政区を66の国に分けたもので、さらにその国を郡に分け、役所を設置して人民を統制させて天皇による中央集権化をはかったものです。

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中臣鎌足 ~白村江の戦いから藤原鎌足~

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白村江の戦いと中大兄皇子の即位

孝徳天皇が死去すると、皇極天皇が再び即位して天皇となりました。ただし、この時には斉明天皇と名前が変わっています。斉明天皇は東北地方にまで朝廷の支配を広げていきますが、そんな中で起こったのが友好関係を築いていた百済の滅亡。百済が唐と新羅に攻められてしまったのです。

友好関係という立場から、斉明天皇と中大兄皇子は百済を救済するための挙兵を決意。自ら指揮をとって朝鮮半島に向かう斉明天皇でしたが、不運なことにその途中で死去してしまいます。これが指揮の低下を招き、662年の白村江の戦いでは唐と新羅の軍に敗れてしまいました。

さて、これまで皇太子として政治を進めてきた中大兄皇子は、斉明天皇が死去したことでとうとう即位して天智天皇へとなります。しかし、この頃から天智天皇は弟の大海人皇子と不仲になってしまい、ここで両者の間をうまく取り持っていたのが中臣鎌足でした。

藤原鎌足となった翌日の死去

例えば、こんな事件もありました。ある時、宴会で酔った大海人皇子が天智天皇に向けてヤリを投げつけたのです。大海人皇子の行動は本来許されるものではなく、天皇を攻撃したその行為は反逆罪に等しい罪でしょう。この時、中臣鎌足が調停として両者の間に入ったため、大事に至らずに解決しました。

669年のこと、それは中大兄皇子が天智天皇として即位した翌年のことです。御猟場に狩りに出た中臣鎌足は、馬から転落して背中を強打してしまいます。天智天皇は見舞いのために中臣鎌足のもとを訪れると、中臣鎌足は「生きては軍国に務無し」と口にしたそうです。

訳せばこれは「自分は軍略で貢献できなかった」となり、おそらくですが白村江の戦いで敗北した責任を感じていたのでしょう。そんな中臣鎌足に対して天智天皇は大織冠を授け、さらには内大臣にも任命、そして「藤原」の姓を与えたのでした。この瞬間から中臣鎌足は藤原鎌足になりますが、藤原鎌足となったその翌日に死去したのです

ポイントは乙巳の変、大化の改新、2人のエピソード!

中臣鎌足から連想するのは中大兄皇子、つまり中臣鎌足を覚えるなら中大兄皇子と行動を共にした部分を中心に覚えるべきでしょう。そうなると乙巳の変と大化の改新は欠かせないため、これらの区別を確実にできるようにしてください。

また、2人のエピソードについてもある程度把握しておきましょう。例えば、2人の出会いはまさに運命的ですし、最後に中臣鎌足を見舞った時の中大兄皇子も天皇として中臣鎌足に対して最大限の評価を与えています。

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日本史歴史飛鳥時代

藤原鎌足となって一生を終えた「中臣鎌足」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は中臣鎌足(なかとみのかまたり)について勉強していきます。中臣鎌足と言えば、中大兄皇子と共に大化の改新を行った人物として有名ですが、逆に言えば他の部分について知らない人も多い。

例えば、「中臣鎌足=藤原鎌足(ふじわらのかまたり)」であることや、大化の改新以前の中臣鎌足を知っている人は少ない。そこで、今回は中臣鎌足について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から中臣鎌足をわかりやすくまとめた。

中臣鎌足 ~誕生から青年期~

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中臣御食子の嫡男として誕生

中臣鎌足が誕生したのは614年、中臣御食子(なかとみのみけこ)の嫡男として生まれます。中臣御食子は朝廷の祭祀を行う官庁である神祇官の長官で、神祇伯の地位につく人物でした。1つ注意点として挙げられるのが、中臣鎌足が幼い頃に中臣鎌子と名乗っていたことです。

と言うのも、物部尾輿と共に排仏を行ったのが中臣鎌子なのですが、この中臣鎌子と中臣鎌足が名乗った中臣鎌子は別人であり、その点が少々紛らわしくなっています。最も、早い段階で中臣鎌足に改名しているため、中臣鎌足が中臣鎌子の名前で歴史に登場することはまずないでしょう。

生まれた場所は現在でも明らかになっておらず、そのため複数の説が存在します。奈良県で生まれた説や茨城県で生まれた説などがあり、いずれもそれなりの根拠は解説されているものの、未だ正確に生まれた地を特定するまでには至っていないのが事実です。

蘇我入鹿と共に学んだ南淵請安の塾

中臣鎌足は中国の史書に関心を持っていて、六韜(りくとう)と呼ばれる中国の代表的な兵法書を暗記するほどでした。ある時、朝廷から隋・唐に派遣されていた南渕請安が帰国して塾を開くと、中臣鎌足はその塾に入って儒教を学びます。実はこの時、後に政敵となる蘇我入鹿も同じ塾に通っていました。

両者ともこの頃から優秀で、中臣鎌足と蘇我入鹿は南淵請安の塾での双璧と評価されていたようです。中臣鎌足が30歳になると、中臣氏が代々引き継いできた神祇官の役職への就任が勧められますが、中臣鎌足はこれを断り、摂津の三島へと退いて政治の世界から一旦離れています。

この時の中臣鎌足の本心には様々な説がありますが、一説として挙げられるのは「神祇官の地位が蘇我氏の大臣に比べてかなり下だったために避けた」との解釈です。仮にそのとおりだとすると、中臣鎌足はこの時点で既に蘇我氏を倒すことを考えていたのかもしれません。

推古天皇死後の政治

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