今日は大日本帝国憲法(だいにほんていこくけんぽう)について勉強していきます。近代化を目指した明治時代、日本は列強に認められるためには憲法が必要だと考えた。

早速日本はヨーロッパの列強諸国の憲法を学び、こうして大日本帝国憲法が作られていく。そこで、今回は大日本帝国憲法について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から大日本帝国憲法をわかりやすくまとめた。

憲法制定が必要と考えた日本

image by PIXTA / 59945853

列強と対等に渡り合える日本を目指す

明治時代を勉強すると、その解説の中で「列強」という言葉がよく登場しますね。この列強とは世界規模の影響力を持つ複数の国家を意味しており、つまり経済・軍事・外交・文化・政治において高い力を持つ国家です。江戸時代、開国をきっかけに日本は外国の技術や軍事力の高さを思い知りました。

1858年に日米修好通商条約が締結された際には、実質日本を支配していた幕府がアメリカのハリスに言いなりになっています。また、1864年の四国艦隊下関砲撃事件では、雄藩として名の知れた長州藩が列強四国と戦った末に壊滅的な被害を受けてしまい、これまでの思想である攘夷を断念するきっかけになりました。

こうして日本を何度も怖れさせた列強、その列強と対等に渡り合えて肩を並べられるよう日本の近代化を目指したのが明治政府です。当時の日本は列強から近代国家として認められず、その一因として憲法や法律が不充分であるため国として整っていないことが挙げられました。

日本が参考にしてドイツのビスマルク憲法

さて、そもそもなぜ日本は列強に認められる国家を目指したのでしょうか。その原因を遡るとこれも江戸時代にたどり着き、アメリカと締結させた数々の不平等条約の問題が挙げられました。一刻も早く不平等条約を解消したい日本、しかしそのためには日本が独立した法治国家であることを世界に認めさせる必要があったのです。

そこで、伊藤博文をはじめとする政治家が日本を近代国家にするため憲法の制定を決断、ヨーロッパの列強諸国の憲法を必死で学びます。そんな中、最も参考になったとされたのがドイツのビスマルク憲法で、なぜならドイツの成長は日本が目指した成長の姿と酷似していたからです。

かつてドイツは300もの諸侯が入り乱れる状態で、それがビスマルクによって1871年に統一されました。さらにドイツは1人の支配者が統治する国家形態である君主国家。300もの諸侯の存在は江戸時代での藩の存在と似た状況、なおかつ日本も天皇中心とする君主国家だったため、ドイツは日本にとって手本として学ぶのに相応しい国だったのです。

\次のページで「大日本帝国憲法の完成」を解説!/

大日本帝国憲法の完成

image by PIXTA / 12772030

太政官制から内閣制度への変更

日本はドイツのビスマルク憲法を参考にして憲法を作成することを決断、1883年には憲法草案が完成しました。この憲法草案を作成するにあたり、ドイツの憲法学者を日本に招いたそうです。また、1885年には政治のシステムを太政官制から内閣制度へと変更、これも伊藤博文が列強諸国を学んだ末のことでした。

太政官制は明治時代の始まりにアメリカの三権分立に影響されて作った制度でしたが、当初はアメリカのようにうまくいかず、試行錯誤の末にようやく三権分立を実現しています。しかし、実際には要職につくのは公家が大半で、太政官制を採用したとは言え、実質江戸時代とさほど変わりませんでした。

そんな太政官制を廃止して内閣制度への変更をはかります。最も、それは大日本帝国憲法の完成に備えたためだけでなく、自由民権運動の影響もあったのでしょう。1874年に始まった自由民権運動によって、明治天皇は10年後の国会開設を約束しました。これに伴い、伊藤博文は政治の新たなシステムを作ろうと考えたのです。

大日本帝国憲法の公布と施行

1889年2月11日、明治天皇より大日本憲法発布の詔勅が出されて大日本帝国憲法を公布、そして翌1890年11月23日に施行されます。発布は明治天皇が黒田清隆首相に手渡すという欽定憲法の形で行われました。欽定憲法とは、君主が自らの主張・意見を盛り込んで制定した憲法を意味する言葉です。

この意味から連想できるとおり、欽定憲法は必然的に君主主権になりやすく、そうなると独裁国になりやすい問題点がありました。そのため、現在では欽定憲法を採用する国はほとんど存在しておらず、国民によって会議などで制定される民定憲法を採用している国がほとんどです。

ともあれ、日本は念願としていた憲法を大日本帝国憲法として実現。それは、アジアにおいて初めて近代的な憲法を持つ立憲君主国誕生の瞬間でもありました。近代国家としての道を歩み始めた日本は成長を続け、この先に起こる日清戦争や日露戦争を経てアジア唯一の列強の地位を獲得したのです。

大日本帝国憲法の大きな欠陥

image by PIXTA / 29032300

昭和天皇の「君臨すれども統治せず」の考え

明治時代の君主制であることから、大日本帝国憲法は欽定憲法になりました。そんな大日本帝国憲法には大きな欠陥があり、それが日本を悲劇の未来へと導いていきます。大日本帝国憲法では「天皇は帝国議会の協賛を以って立法権を行う」「天皇は陸海軍を統帥する」と記されていました。

これらの内容から読み取れるのは、「全ての権利が天皇に集中する」ということです。さて、やがて日本では明治の時代が終わり、昭和の時代が始まります。昭和天皇になっても大日本帝国憲法は健在でしたが、昭和天皇は「君臨すれども統治せず」を考えとしていました。

そこで、大日本帝国憲法の内容と昭和天皇の考えを統合すると「全ての権利は天皇が持っているが、天皇は指示をしない」とも言い換えられるでしょう。この言い換えが可能であることこそ大日本帝国憲法の最大の欠陥であり、日本を悲劇の未来へと導いた原因にもなったのです。

制御されないゆえの軍隊の暴走

大日本帝国憲法の欠陥によって起こった事態……それは陸海軍による軍隊の暴走です。陸海軍に対して統帥権を持つのは天皇であり、つまり軍隊の動きに対して内閣は一切口出しができません。そして一方で、天皇が陸海軍に直接指示をすることもないのです。

と言うことは、軍隊は何者にも制御されず自由に動けることになり、結果「陸海軍は天皇に直属する」を盾にした軍隊が暴走してしまうのでした。その末に起こったのが日中戦争の長期化で、さらに日中戦争の長期化の末に起こったのが1941年の太平洋戦争です。

当時の世界は1939年に勃発した第二次世界大戦の真っ只中でした。日本は日中戦争によっていつしか太平洋戦争を引き起こすことになり、太平洋戦争を引き起こしたことで第二次世界大戦に巻き込まれる形となったのです。そんな日本の未来に待っていたのは敗戦と悲劇でした。

大日本帝国憲法の廃止

image by PIXTA / 56854093

GHQの誕生

日本が第二次世界大戦での敗戦が濃厚になった頃、アメリカらの連合国は日本の戦後処理について話し合います。そして、1945年のポツダム会談にて戦後の日本をアメリカが中心となって間接的に統治することに決定。やがて日本は無条件降伏を受け入れて第二次世界大戦が終わります。

日本の敗戦を受けて連合国は極東委員会を設立、これは日本を今後どのように統治していくのかを会議するための組織でした。そして、極東委員会で決まった意見に従って日本で政策を行う組織がGHQであり、日本政府は存続していましたが、GHQの方針に反論することは許されなかったのです。

こうしてGHQによって日本の政治は行われていきますが、GHQが最大の課題としていたのは日本の非軍事化でした。これは、日本に軍事力を存続させてしまえば再びアメリカに敵意を向けることを危惧したからで、つまり二度と戦争を起こさない国……と言うよりも「起こせない国」にしたかったのです。

大日本帝国憲法の廃止と日本国憲法の誕生

日本に非軍事化に向けてGHQは軍事裁判を行い、第二次世界大戦で日本を主導していた政治家や軍人を次々と処罰していきます。そして、次にGHQが目を向けたのが大日本帝国憲法でした。君主主権を象徴する大日本帝国憲法は軍事的な要素も高く、日本が戦争を引き起こした一因であると考えます。

そこでGHQは日本に対して「国民主権」・「平和主義」・「基本的人権の尊重」の三大原則を中心とした新たな憲法の作成を要求しました。その新たな憲法というのが現在でも存続する日本国憲法で、大日本帝国憲法は第二次世界大戦の敗戦によるGHQの指示によって廃止されることになったのです

こうして大日本帝国憲法にかわる日本国憲法が作成され、日本国憲法は1946年11月3日に公布、翌1947年5月3日に施行されました。これらの日付は日本の祝日にも反映されており、日本国憲法が平和と文化を重視していることから11月3日を文化の日、さらに日本国憲法が施行された5月3日を憲法記念日としています。

\次のページで「大日本帝国憲法と日本国憲法の違い」を解説!/

大日本帝国憲法と日本国憲法の違い

image by PIXTA / 40252375

主権・天皇の地位の違い

大日本帝国憲法と日本国憲法は全くの別物で、その内容はそれぞれ大きく異なります。そこで、大日本帝国憲法と日本国憲法の特徴を比較してみましょう。まず大日本帝国憲法が天皇によって制定された欽定憲法である一方、日本国憲法は国民によって制定された民定憲法です。

そして、最も大きな違いとなるのが主権の違い。大日本帝国憲法の主権は天皇で、全ての国民は天皇の部下と解釈されています。一方、日本国憲法の主権は国民で、そのため憲法改正においても国会の発議と国民投票によって行われる仕組みです。実際、現在でも国会で憲法改正の案が出されることがありますね。

また、天皇の地位においても違いがみられます。大日本帝国憲法では、天皇は国政を行う権限全てを持つ絶対的な存在とされていて、「神聖不可侵」という神様のような地位です。一方、日本国憲法において天皇の存在は「国民の象徴」の表現に留まり、政治上の実権もなくなりました。

国民の義務と権利の違い

国民に対する義務や権利においても、大日本帝国憲法と日本国憲法では違いがみられます。大日本帝国憲法では国民に対して兵役の義務・納税の義務・教育を受けさせる義務がありました。さらに、戦争が起こった場合は国民全体で戦争に参加するとされており、これは「国民皆兵」とも呼ばれます。

また、権利としては人権は天皇から授かったものとされ、法律の範囲内において認められるものでした。一方の日本国憲法ですが、納税の義務・教育を受けさせる義務がある点は同じですが、兵役の義務は廃止されており、そのかわりとして勤労の義務が定められています。

兵役については、義務がない以前に戦争の行使を放棄するようになっていて、人権も最大限に尊重すべき権利として扱われるようになりました。このように、日本国憲法によって日本は君主主権から国民主権へとかわり、戦争の悲劇を繰り返さないよう国としての再出発が始まったのです。

大日本帝国憲法は日本国憲法との比較が大切!

大日本帝国憲法のポイントは、アジアで初めての近代的な憲法であること、そして伊藤博文らによってドイツのビスマルク憲法を参考に作られたということです。もちろん、1889年2月11日の公布日と1890年11月23日の施行日も覚えておきましょう。

また、大日本帝国憲法は日本国憲法との比較で出題されるケースも多く、そのため日本国憲法についても覚えてください。それぞれを比較した上で分かる明確な違いこそ、重要なポイントになってきます。

" /> 簡単でわかりやすい「大日本帝国憲法」!特徴や作られた経緯を元塾講師が詳しく解説 – Study-Z
日本史明治歴史

簡単でわかりやすい「大日本帝国憲法」!特徴や作られた経緯を元塾講師が詳しく解説

今日は大日本帝国憲法(だいにほんていこくけんぽう)について勉強していきます。近代化を目指した明治時代、日本は列強に認められるためには憲法が必要だと考えた。

早速日本はヨーロッパの列強諸国の憲法を学び、こうして大日本帝国憲法が作られていく。そこで、今回は大日本帝国憲法について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から大日本帝国憲法をわかりやすくまとめた。

憲法制定が必要と考えた日本

image by PIXTA / 59945853

列強と対等に渡り合える日本を目指す

明治時代を勉強すると、その解説の中で「列強」という言葉がよく登場しますね。この列強とは世界規模の影響力を持つ複数の国家を意味しており、つまり経済・軍事・外交・文化・政治において高い力を持つ国家です。江戸時代、開国をきっかけに日本は外国の技術や軍事力の高さを思い知りました。

1858年に日米修好通商条約が締結された際には、実質日本を支配していた幕府がアメリカのハリスに言いなりになっています。また、1864年の四国艦隊下関砲撃事件では、雄藩として名の知れた長州藩が列強四国と戦った末に壊滅的な被害を受けてしまい、これまでの思想である攘夷を断念するきっかけになりました。

こうして日本を何度も怖れさせた列強、その列強と対等に渡り合えて肩を並べられるよう日本の近代化を目指したのが明治政府です。当時の日本は列強から近代国家として認められず、その一因として憲法や法律が不充分であるため国として整っていないことが挙げられました。

日本が参考にしてドイツのビスマルク憲法

さて、そもそもなぜ日本は列強に認められる国家を目指したのでしょうか。その原因を遡るとこれも江戸時代にたどり着き、アメリカと締結させた数々の不平等条約の問題が挙げられました。一刻も早く不平等条約を解消したい日本、しかしそのためには日本が独立した法治国家であることを世界に認めさせる必要があったのです。

そこで、伊藤博文をはじめとする政治家が日本を近代国家にするため憲法の制定を決断、ヨーロッパの列強諸国の憲法を必死で学びます。そんな中、最も参考になったとされたのがドイツのビスマルク憲法で、なぜならドイツの成長は日本が目指した成長の姿と酷似していたからです。

かつてドイツは300もの諸侯が入り乱れる状態で、それがビスマルクによって1871年に統一されました。さらにドイツは1人の支配者が統治する国家形態である君主国家。300もの諸侯の存在は江戸時代での藩の存在と似た状況、なおかつ日本も天皇中心とする君主国家だったため、ドイツは日本にとって手本として学ぶのに相応しい国だったのです。

\次のページで「大日本帝国憲法の完成」を解説!/

次のページを読む
1 2 3
Share: