
早速日本はヨーロッパの列強諸国の憲法を学び、こうして大日本帝国憲法が作られていく。そこで、今回は大日本帝国憲法について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ
元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から大日本帝国憲法をわかりやすくまとめた。
列強と対等に渡り合える日本を目指す
明治時代を勉強すると、その解説の中で「列強」という言葉がよく登場しますね。この列強とは世界規模の影響力を持つ複数の国家を意味しており、つまり経済・軍事・外交・文化・政治において高い力を持つ国家です。江戸時代、開国をきっかけに日本は外国の技術や軍事力の高さを思い知りました。
1858年に日米修好通商条約が締結された際には、実質日本を支配していた幕府がアメリカのハリスに言いなりになっています。また、1864年の四国艦隊下関砲撃事件では、雄藩として名の知れた長州藩が列強四国と戦った末に壊滅的な被害を受けてしまい、これまでの思想である攘夷を断念するきっかけになりました。
こうして日本を何度も怖れさせた列強、その列強と対等に渡り合えて肩を並べられるよう日本の近代化を目指したのが明治政府です。当時の日本は列強から近代国家として認められず、その一因として憲法や法律が不充分であるため国として整っていないことが挙げられました。
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日本が参考にしてドイツのビスマルク憲法
さて、そもそもなぜ日本は列強に認められる国家を目指したのでしょうか。その原因を遡るとこれも江戸時代にたどり着き、アメリカと締結させた数々の不平等条約の問題が挙げられました。一刻も早く不平等条約を解消したい日本、しかしそのためには日本が独立した法治国家であることを世界に認めさせる必要があったのです。
そこで、伊藤博文をはじめとする政治家が日本を近代国家にするため憲法の制定を決断、ヨーロッパの列強諸国の憲法を必死で学びます。そんな中、最も参考になったとされたのがドイツのビスマルク憲法で、なぜならドイツの成長は日本が目指した成長の姿と酷似していたからです。
かつてドイツは300もの諸侯が入り乱れる状態で、それがビスマルクによって1871年に統一されました。さらにドイツは1人の支配者が統治する国家形態である君主国家。300もの諸侯の存在は江戸時代での藩の存在と似た状況、なおかつ日本も天皇中心とする君主国家だったため、ドイツは日本にとって手本として学ぶのに相応しい国だったのです。
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