聖徳太子、蘇我馬子、推古天皇の死
推古天皇の二頭政治は反乱などの類で崩れることはなく、その意味で推古天皇の政治能力はやはり優秀だったのでしょう。しかし、いくら優秀な政治家でも死を防ぐことはできず、622年に聖徳太子が死亡したことで朝廷の政治は大きく変化していきます。
二頭政治の一頭を失ったことで政治は蘇我馬子が実権を握るようになり、ついには推古天皇に対して天皇領(現在の奈良県)を譲るように要求したそうです。最も、推古天皇は蘇我馬子に怖れることなく要求を拒否。しかし、そんな蘇我馬子もやがて死亡、そこで政治の世界に登場してきたのが蘇我馬子の子である蘇我蝦夷でした。
蘇我蝦夷が大臣になると、蘇我馬子同様の野心から政治の実権を握るようになります。そんな中、推古天皇が628年に亡くなりました。野心溢れる蘇我氏を上手く制御したこと、そして十七条憲法や冠位十二階を制定したこと、推古天皇は初めての女帝でありながら、天皇としての責務を立派に果たしました。
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蘇我氏の全盛期と滅亡
推古天皇が崩御した後、日本の歴史は大きく動きます。優秀な推古天皇でしたが、自身の後継者を指名しておかなかった点は問題で、そのためまたしても次期天皇の座を巡る後継者問題が起こってしまいました。そして、ここから日本の政治を動かしていったのは蘇我蝦夷です。
蘇我蝦夷は自身の権力を高めるため、それに都合の良い人物を次期天皇候補に推薦、この手口は父・蘇我馬子にそっくりですね。また、その上でライバルとなる人物を殺害するほどの行動を起こしており、ついには天皇を凌ぐほどの権力を手にしたと言われています。
さらに蘇我蝦夷の息子・蘇我入鹿もやはり野心家で、権力を高める上で妨げとなる聖徳太子の血を引く一族を自害へと追い込みました。最も、そんな行動がいつまでも人々に支持されるはずありません。やがては中大兄皇子や中臣鎌足のクーデターによって殺害され、蘇我氏は滅亡する運命にあるのでした。
複雑な人間関係や人名を覚えよう!
推古天皇を覚えるポイントは、何と言っても複雑な人間関係や人名の把握です。天皇を務めた期間の短さからも覚える政策は大したことなく、十七条憲法や冠位十二階を覚えておけば充分でしょう。
一方で人命は分かりづらく、母の蘇我堅塩媛を覚えるだけで一苦労かもしれません。また、この頃は名前から性別も連想しづらく、例えば蘇我馬子は女性ではなく男性であり、こうした部分の理解が必要です。