日本で初めての女帝誕生
崇峻天皇が殺害されたため、再び皇位継承が迫られます。推古天皇には5人の子供がいたものの誰もがまだ若く、天皇に即位できる年齢ではありませんでした。最も、推古天皇は将来的に息子である竹田皇子を天皇に即位させたかったようで、次期天皇はその中継ぎを果たす人物にしたいと考えていたのです。
一方、崇峻天皇を殺害した蘇我馬子は相変わらず権力を手にしたい野心に満ち溢れ、そこで目をつけたのが推古天皇でした。何しろ、推古天皇は蘇我馬子にとって姪にあたる存在だったため操りやすく、しかも聡明な女性であることから天皇に相応しい存在と考えます。
また、推古天皇も次期天皇は竹田皇子が即位するまでの中継ぎと理想としていたため、自身がその中継ぎ役を果たすことに抵抗はありませんでした。こうして、理由は違えど推古天皇と蘇我馬子の「推古天皇即位」の思惑は一致、推古天皇は第33代天皇、それも日本で初めての女帝として即位したのです。
聖徳太子と蘇我馬子の二頭政治
推古天皇が即位したのは593年のこと、そして推古天皇は聖徳太子を摂政へと任命します。蘇我馬子は推古天皇が即位すれば容易に操れると思っていましたが、実際には蘇我馬子の想像以上に推古天皇の能力は高く、聖徳太子を摂政に任命したことにも理由があったのです。
推古天皇は蘇我馬子の政治に対するわがままぶりを嫌っており、しかし一方で蘇我馬子の協力なくては国の統治が不可能ということも分かっていました。ですから、推古天皇は優秀だとされた聖徳太子を摂政に任命して、聖徳太子と蘇我馬子の二頭政治を行おうとしたのです。
聖徳太子と蘇我馬子が協力する形となれば、聖徳太子を立てることで蘇我馬子との関係も良好に保てます。さらに、聖徳太子の存在が蘇我馬子のわがままな政治を抑制することにもなり、獣で例えるなら推古天皇は蘇我馬子という獣を飼いならすことに成功したのです。
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遣隋使の派遣と失敗
推古天皇の時代で有名な政策その1……それは十七条憲法で、604年に聖徳太子によって制定されたとされています。十七条憲法とは文字どおり17の条文によって成り立ったものであり、その内容は役人や豪族に対して向けられた道徳で、いずれも仏教や儒教の影響を受けたものでした。
十七条憲法制定のいきさつは、遣隋使派遣の失敗による教訓です。600年、朝廷は隋に対して遣隋使を送ります。これは日本(当時は倭国)が新羅への遠征を計画していたためで、そこで中国大陸に使者を派遣して、ひとまず強大な力を持つ隋と交流すべきと考えたのが遣隋使派遣の目的でした。
ただ、この遣隋使派遣は残念ながら失敗に終わります。なぜなら隋の皇帝に日本の政治・風習をいくら説明しても理解されなかったからで、せっかく派遣された遣隋使は何の成果も得ることなく日本へと戻ってきたのです。要するに、現状の日本は髄の理解を得られない状態だったわけですね。
国家の体制を整えるための成文法作成
理解が得られないなら理解を得られるようにすれば問題は解決するわけで、そこで朝廷は改めて日本という国家の体裁を整えようと考えます。そこでまず必要となってくるのがルールであり、それも明確なルールが定められていれば国家の形も理解しやすくなるでしょう。
しかし暗黙の了解のようなルールには説得力がなく、法として文章に記されたルールでなければなりません。文章で書き残された方は成文法と呼ばれるもので、そのため朝廷は日本の成文法を作ることが迫られます。そして、その結果作成されたのが十七条憲法でした。
607年には再度遣隋使を派遣、騒動こそ起こったものの最終的に隋との国交成立が実現します。これには成文法を完成させたことはもちろん、十七条憲法が中国の思想を取り入れたことも大きな理由であり、隋からすれば日本が自身の国の影響を受けていることは好印象になったでしょう。
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