今日は推古天皇(すいこてんのう)について勉強していきます。飛鳥時代に即位した推古天皇は、実在が確認されている中で日本で初めての女性天皇として知られている。

この時代は聖徳太子や蘇我氏などによって歴史が大きく動いた時期でもあり、覚えることは多いでしょう。そこで、今回は推古天皇について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から推古天皇をわかりやすくまとめた。

推古天皇の出生から皇后になるまで

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炊屋姫(推古天皇)の誕生

推古天皇が生まれたのは554年のこと、父・欽明天皇と母・蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ)の娘として誕生しました。ここでは分かりやすくするため呼び名を推古天皇に統一していきますが、実際には即位するまでは炊屋姫(かしきやひめ)と呼ばれていたそうです。

母である蘇我堅塩媛は有力豪族だった蘇我稲目の娘であり、「蘇我」から連想できるとおり蘇我稲目の息子・蘇我馬子は後の歴史に深く関わってきます。最も、それはまだ少々先のことで、蘇我稲目は当時欽明天皇に仕える中で、密かに権力を高めようと企んでいました。

とは言え、皇族ではない蘇我稲目には天皇の座は全くの無縁、そこで蘇我稲目は娘を天皇に嫁がせることで権力を手にしようとしたのです。要するに、欽明天皇と蘇我堅塩媛の結婚は政略結婚に等しいもので、そして2人の間に誕生した娘が推古天皇なのでした。

次期天皇を巡る後継者争い

欽明天皇が崩御した後、敏達天皇が即位しました。敏達天皇は推古天皇の異母兄弟にあたる人物ですが、その敏達天皇と推古天皇が結婚。天皇の正妻になったことで推古天皇は皇后になります。推古天皇と敏達天皇の間には5人の子供が生まれましたが、敏達天皇は推古天皇が31歳の時に亡くなりました。

このあたりから、次期天皇の座を巡る後継者争いが起こるようになっていきます。敏達天皇の死後は用明天皇が即位しますが、次期天皇の座を狙う皇子たちが争うようになり、用明天皇の死後は崇峻天皇が即位。ただしこれは、蘇我馬子が強く崇峻天皇を推薦したためでした。

蘇我馬子の目的は、父・蘇我稲目と同じく権力を手にすることで、それには崇峻天皇が都合が良いと考えたのでしょう。しかし、崇峻天皇は次第に蘇我馬子と対立するようになり、そのため蘇我馬子が崇峻天皇を殺害する事件が起きたのです。そして、ここでまた次期天皇の後継者争いが勃発します。

推古天皇の即位

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日本で初めての女帝誕生

崇峻天皇が殺害されたため、再び皇位継承が迫られます。推古天皇には5人の子供がいたものの誰もがまだ若く、天皇に即位できる年齢ではありませんでした。最も、推古天皇は将来的に息子である竹田皇子を天皇に即位させたかったようで、次期天皇はその中継ぎを果たす人物にしたいと考えていたのです。

一方、崇峻天皇を殺害した蘇我馬子は相変わらず権力を手にしたい野心に満ち溢れ、そこで目をつけたのが推古天皇でした。何しろ、推古天皇は蘇我馬子にとって姪にあたる存在だったため操りやすく、しかも聡明な女性であることから天皇に相応しい存在と考えます。

また、推古天皇も次期天皇は竹田皇子が即位するまでの中継ぎと理想としていたため、自身がその中継ぎ役を果たすことに抵抗はありませんでした。こうして、理由は違えど推古天皇と蘇我馬子の「推古天皇即位」の思惑は一致、推古天皇は第33代天皇、それも日本で初めての女帝として即位したのです

聖徳太子と蘇我馬子の二頭政治

推古天皇が即位したのは593年のこと、そして推古天皇は聖徳太子を摂政へと任命します。蘇我馬子は推古天皇が即位すれば容易に操れると思っていましたが、実際には蘇我馬子の想像以上に推古天皇の能力は高く、聖徳太子を摂政に任命したことにも理由があったのです。

推古天皇は蘇我馬子の政治に対するわがままぶりを嫌っており、しかし一方で蘇我馬子の協力なくては国の統治が不可能ということも分かっていました。ですから、推古天皇は優秀だとされた聖徳太子を摂政に任命して、聖徳太子と蘇我馬子の二頭政治を行おうとしたのです。

聖徳太子と蘇我馬子が協力する形となれば、聖徳太子を立てることで蘇我馬子との関係も良好に保てます。さらに、聖徳太子の存在が蘇我馬子のわがままな政治を抑制することにもなり、獣で例えるなら推古天皇は蘇我馬子という獣を飼いならすことに成功したのです。

政治政策1. 十七条憲法

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遣隋使の派遣と失敗

推古天皇の時代で有名な政策その1……それは十七条憲法で、604年に聖徳太子によって制定されたとされています。十七条憲法とは文字どおり17の条文によって成り立ったものであり、その内容は役人や豪族に対して向けられた道徳で、いずれも仏教や儒教の影響を受けたものでした。

十七条憲法制定のいきさつは、遣隋使派遣の失敗による教訓です。600年、朝廷は隋に対して遣隋使を送ります。これは日本(当時は倭国)が新羅への遠征を計画していたためで、そこで中国大陸に使者を派遣して、ひとまず強大な力を持つ隋と交流すべきと考えたのが遣隋使派遣の目的でした。

ただ、この遣隋使派遣は残念ながら失敗に終わります。なぜなら隋の皇帝に日本の政治・風習をいくら説明しても理解されなかったからで、せっかく派遣された遣隋使は何の成果も得ることなく日本へと戻ってきたのです。要するに、現状の日本は髄の理解を得られない状態だったわけですね。

国家の体制を整えるための成文法作成

理解が得られないなら理解を得られるようにすれば問題は解決するわけで、そこで朝廷は改めて日本という国家の体裁を整えようと考えます。そこでまず必要となってくるのがルールであり、それも明確なルールが定められていれば国家の形も理解しやすくなるでしょう。

しかし暗黙の了解のようなルールには説得力がなく、法として文章に記されたルールでなければなりません。文章で書き残された方は成文法と呼ばれるもので、そのため朝廷は日本の成文法を作ることが迫られます。そして、その結果作成されたのが十七条憲法でした。

607年には再度遣隋使を派遣、騒動こそ起こったものの最終的に隋との国交成立が実現します。これには成文法を完成させたことはもちろん、十七条憲法が中国の思想を取り入れたことも大きな理由であり、隋からすれば日本が自身の国の影響を受けていることは好印象になったでしょう。

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政治政策2. 冠位十二階

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氏姓制度の問題点

推古天皇の時代で有名な政策その2……それは冠位十二階で、604年に誕生した日本で初めての階級制度です。これも冠位十二階の文字が示すとおり、12段階に分けた階級に対してそれぞれ色をつけたもので、朝廷内における序列を決めることを目的に作られました。

作成したのは聖徳太子や蘇我馬子ですが、ただ冠位十二階は高句麗や百済などの制度を参考にしたものと言われています。当時、朝廷には氏姓制度というものがあり、朝廷に仕える一族に対して「氏」と名付けられていました。今回の解説でたびたび登場する「蘇我氏」もこれに該当していますね。

また、身分の高さに応じた「姓」の名前も与えられました。例えば、有力豪族に与えた「臣」は有名ですね。さて、氏姓制度の問題点は2つあり、1つは「氏」に与えられた「姓」が親から子へ引き継がれたこと、もう1つは個人ではなく一族に与えられたものだということです。

有能な人材の登用を可能にした冠位十二階

氏姓制度の問題点は、例えば次のような事態を招きます。仮に朝廷に仕える同じ一族の位を分けようと思った場合、それを肩書きで示すことができません。何しろ氏姓制度では一族全てに同じ「姓」が与えられたため、その一族の中で上下を分けることができなかったのです。

また、親から子へ引き継がれることから、例えば子が優秀でなくても親が優秀なら高い地位につけてしまうでしょう。このような問題点を解消したのが冠位十二階であり、冠位十二階は一族ではなく個人に与えられるようにしたのです。それも親から子へ引き継がれないため、有能な人材にだけ冠位を与えることが可能になりました。

冠位の名称は「大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智」の順になった12段階で、それぞれの冠位に対して色も割り当てられています。ただし、具体的な色の割り当ては明らかになっておらず、様々な諸説があるものの、いずれも確実なものではありません。

推古天皇の崩御

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聖徳太子、蘇我馬子、推古天皇の死

推古天皇の二頭政治は反乱などの類で崩れることはなく、その意味で推古天皇の政治能力はやはり優秀だったのでしょう。しかし、いくら優秀な政治家でも死を防ぐことはできず、622年に聖徳太子が死亡したことで朝廷の政治は大きく変化していきます。

二頭政治の一頭を失ったことで政治は蘇我馬子が実権を握るようになり、ついには推古天皇に対して天皇領(現在の奈良県)を譲るように要求したそうです。最も、推古天皇は蘇我馬子に怖れることなく要求を拒否。しかし、そんな蘇我馬子もやがて死亡、そこで政治の世界に登場してきたのが蘇我馬子の子である蘇我蝦夷でした。

蘇我蝦夷が大臣になると、蘇我馬子同様の野心から政治の実権を握るようになります。そんな中、推古天皇が628年に亡くなりました。野心溢れる蘇我氏を上手く制御したこと、そして十七条憲法や冠位十二階を制定したこと、推古天皇は初めての女帝でありながら、天皇としての責務を立派に果たしました。

蘇我氏の全盛期と滅亡

推古天皇が崩御した後、日本の歴史は大きく動きます。優秀な推古天皇でしたが、自身の後継者を指名しておかなかった点は問題で、そのためまたしても次期天皇の座を巡る後継者問題が起こってしまいました。そして、ここから日本の政治を動かしていったのは蘇我蝦夷です。

蘇我蝦夷は自身の権力を高めるため、それに都合の良い人物を次期天皇候補に推薦、この手口は父・蘇我馬子にそっくりですね。また、その上でライバルとなる人物を殺害するほどの行動を起こしており、ついには天皇を凌ぐほどの権力を手にしたと言われています。

さらに蘇我蝦夷の息子・蘇我入鹿もやはり野心家で、権力を高める上で妨げとなる聖徳太子の血を引く一族を自害へと追い込みました。最も、そんな行動がいつまでも人々に支持されるはずありません。やがては中大兄皇子や中臣鎌足のクーデターによって殺害され、蘇我氏は滅亡する運命にあるのでした。

複雑な人間関係や人名を覚えよう!

推古天皇を覚えるポイントは、何と言っても複雑な人間関係や人名の把握です。天皇を務めた期間の短さからも覚える政策は大したことなく、十七条憲法や冠位十二階を覚えておけば充分でしょう。

一方で人命は分かりづらく、母の蘇我堅塩媛を覚えるだけで一苦労かもしれません。また、この頃は名前から性別も連想しづらく、例えば蘇我馬子は女性ではなく男性であり、こうした部分の理解が必要です。

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日本史歴史飛鳥時代

聡明な女性天皇「推古天皇」の一生を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は推古天皇(すいこてんのう)について勉強していきます。飛鳥時代に即位した推古天皇は、実在が確認されている中で日本で初めての女性天皇として知られている。

この時代は聖徳太子や蘇我氏などによって歴史が大きく動いた時期でもあり、覚えることは多いでしょう。そこで、今回は推古天皇について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から推古天皇をわかりやすくまとめた。

推古天皇の出生から皇后になるまで

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炊屋姫(推古天皇)の誕生

推古天皇が生まれたのは554年のこと、父・欽明天皇と母・蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ)の娘として誕生しました。ここでは分かりやすくするため呼び名を推古天皇に統一していきますが、実際には即位するまでは炊屋姫(かしきやひめ)と呼ばれていたそうです。

母である蘇我堅塩媛は有力豪族だった蘇我稲目の娘であり、「蘇我」から連想できるとおり蘇我稲目の息子・蘇我馬子は後の歴史に深く関わってきます。最も、それはまだ少々先のことで、蘇我稲目は当時欽明天皇に仕える中で、密かに権力を高めようと企んでいました。

とは言え、皇族ではない蘇我稲目には天皇の座は全くの無縁、そこで蘇我稲目は娘を天皇に嫁がせることで権力を手にしようとしたのです。要するに、欽明天皇と蘇我堅塩媛の結婚は政略結婚に等しいもので、そして2人の間に誕生した娘が推古天皇なのでした。

次期天皇を巡る後継者争い

欽明天皇が崩御した後、敏達天皇が即位しました。敏達天皇は推古天皇の異母兄弟にあたる人物ですが、その敏達天皇と推古天皇が結婚。天皇の正妻になったことで推古天皇は皇后になります。推古天皇と敏達天皇の間には5人の子供が生まれましたが、敏達天皇は推古天皇が31歳の時に亡くなりました。

このあたりから、次期天皇の座を巡る後継者争いが起こるようになっていきます。敏達天皇の死後は用明天皇が即位しますが、次期天皇の座を狙う皇子たちが争うようになり、用明天皇の死後は崇峻天皇が即位。ただしこれは、蘇我馬子が強く崇峻天皇を推薦したためでした。

蘇我馬子の目的は、父・蘇我稲目と同じく権力を手にすることで、それには崇峻天皇が都合が良いと考えたのでしょう。しかし、崇峻天皇は次第に蘇我馬子と対立するようになり、そのため蘇我馬子が崇峻天皇を殺害する事件が起きたのです。そして、ここでまた次期天皇の後継者争いが勃発します。

推古天皇の即位

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