今日はGHQについて勉強していきます。第二次世界大戦で敗戦した日本の占領政策を実施したのが連合国軍最高司令官総司令部であり、英語ではGeneral Headquartersと表記、略してGHQです。

戦後の日本の政治はGHQによって進められていき、日本は一変して従属国の立場に等しくなった。そこで、今回はGHQについて日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」からGHQをわかりやすくまとめた。

日本の敗戦

image by PIXTA / 11777013

ポツダム会談での決定事項

1939年にドイツがポーランドに侵攻したことで始まった第二次世界大戦、そして2年後の1941年にアメリカとの間に太平洋戦争を起こした日本も第二次世界大戦に巻き込まれます。開戦当初は真珠湾攻撃で先制した日本でしたが徐々に劣勢に立たされ、敗戦は濃厚になっていきました。

1941年7月、敗戦濃厚で降伏が間近とされた日本に対して、「戦後処理をどのようにするべきか?」を話し合うための会談が連合国の間で開かれます。会談が開かれた場所はベルリン郊外のポツダム、そこで地名をそのままとってその会談はポツダム会談と呼ばれました。

ポツダム会談では日本の無条件降伏一定の期間は連合国が日本を占領することなどが決定、そして日本は翌月となる8月15日にポツダム宣言を受諾。さらに9月2日に無条件降伏をしたため、これまで長く続いた第二次世界大戦は日本の降伏敗戦という決着でようやく終戦しました。

極東委員会の設立とGHQの誕生

ちなみに、ポツダム会談において日本は軍事占領されることが決定していましたが、当初はアメリカ・イギリス・中国・ソ連による占領となる予定でした。しかし、アメリカのトルーマン大統領が急遽その予定を変更、4国ではなくアメリカ中心で間接的に日本を統治することに決まります。

これは、アメリカがソ連に対して敵対感情を抱くようになったのが理由とされており、要するにアメリカはソ連を警戒したわけですね。さて、日本の敗戦を受けて連合国は日本を占領するための極東委員会を設置、極東委員会とは連合国が日本を統治する手段を会議するための組織です。

そして、会議で決定された意見に従って実際に日本で政策を行う組織として誕生したのがGHQでした。最も、政策と言えば本来政府が行うものですが、日本政府は一応の存続は許可されたものの、GHQの意見に逆らうことは許可されず、立場として従属国に等しくなったのです。

\次のページで「GHQの最大の目的だった日本の非軍事化」を解説!/

GHQの最大の目的だった日本の非軍事化

image by PIXTA / 45733554

GHQの本部と司令官

こうして誕生したGHQ、日本では本部として当初こそ横浜税関が選ばれましたが、最終的には第一生命館のオフィスが本部に採用されました。また、皇居や東京駅に挟まれた場所に位置する丸の内地区のオフィスビルの多くが、駐留することになった連合国軍によって接収されています。

そして、総司令官を務めることになったのはダグラス・マッカーサー。本部・総司令官が決定したことで、いよいよGHQによる政策が開始されます。まずGHQが目的としていたのは日本の非軍事化であり、ただ容易に実現する問題ではなかったため、日本の非軍事化はGHQにとっての目的であると同時に課題でもありました。

ちなみに、そこまでして日本の非軍事化を目指したのは、日本の軍事能力が健在となると再びアメリカに刃向かってくる可能性があると危惧したからです。実際、日本はこれまでも軍国主義によって日清戦争・日露戦争・日中戦争を行ってきたため、警戒されるのも無理はなかったでしょう。

東京裁判の開廷

日本の非軍事化を行うため、GHQは第二次世界大戦で日本を主導した人物らを逮捕して軍事裁判にかけます。その中には軍人だけでなく政治家も含まれていて、この軍事裁判を極東国際軍事裁判、または東京裁判と呼びました。この裁判によって東條英機をはじめとした7名に死刑判決が下ります。

東條英機は陸軍を経て関東軍に入った人物で、関東軍と言えば満州事変が有名ですね。また1941年には首相に就任しており、太平洋戦争を起こした人物でもありました。さらに、戦争中に大政翼賛会に加担したとされる人々も処罰され、二度と社会の表舞台に立てないよう公職追放されます。

大政翼賛会は日本の政党全てを解散させた新たに誕生した組織で、戦争中は軍の意向に国民を従わせるための橋渡し的な行動を取っていました。このようにGHQによる裁判や処罰は徹底されていて、戦争の加担・支持に関わったとされる実に25万名もの人々が裁判や処罰の対象となったのです。

\次のページで「大日本帝国憲法の廃止と日本国憲法の作成」を解説!/

大日本帝国憲法の廃止と日本国憲法の作成

image by PIXTA / 32537721

戦争の原因が憲法にあると考えたGHQ

日本を非軍事化させる上で、次にGHQが目をつけたのは憲法でした。当時日本では大日本帝国憲法が制定されていましたが、天皇中心の憲法だった大日本帝国憲法は軍事的要素が高いと判断。事実、大日本帝国憲法では国民の兵役の義務や戦争参加について記されていたのです。

そこでGHQは日本政府に対して大日本帝国憲法を廃止して新たな憲法の作成を要求。その末に完成したのが日本国憲法であり、1946年11月3日に公布、翌1947年5月3日に施行されました。最も、実際には日本政府が一から作成したわけではなく、総司令官のダグラス・マッカーサーがある程度の草案を作成したようです。

何しろ、当初日本政府が持ってきた日本国憲法の内容は大日本帝国憲法の内容と酷似。「これではダメだ」と判断したダグラス・マッカーサーは、他の民主主義の国々の憲法を参考にしたようで、日本政府はダグラス・マッカーサーの草案をベースに日本国憲法を作るよう要求されたのです。

日本国憲法と大日本帝国憲法の違い

ここで問題となるのは、日本国憲法が大日本帝国憲法とどう違うのかという点ですね。まず大日本帝国憲法では国の主権が天皇にあるとされていましたが、日本国憲法では全ての国民に主権があるとされており、国民主権・平和主義・基本的人権の尊重の三大原則が大切なポイントです。

戦争関連で特に意味を持つのは日本国憲法の第9条で、ここでは日本国民は戦争と武力を放棄する、軍の保有を禁止すると記されています。最も、軍の保有禁止によって軍隊は解体されたものの、その一方で自衛隊が存在することは矛盾しているように思えるかもしれません。

これは自衛権によるもので、日本の防衛省は交戦権と自衛権は別だと区別しているためです。要するに「戦争をするための武力は放棄するが、日本が攻められて守るための武力は放棄しない」という解釈で、「他国を攻めることはしないが自国を守ることはする」の目的で自衛隊は存在しています。

ダグラス・マッカーサーの五大革命指令

image by PIXTA / 36937051

日本民主化に向けた五大革命指令

日本国憲法で国民主義を原則としたように、GHQは日本の民主化を目指します。しかし、ただ目指すだけでは実現不可能で、そこでGHQは民主化実現のための改革を積極的に推し進めていきました。その中でも、ダグラス・マッカーサーが特に重要視したのは次の5つの改革です。

「女性解放」・「教育制度改革」・「労働組合の結成奨励」・「圧政撤廃」・「経済の民主化」…これら5つの改革の指令を五大革命指令と呼びました。では、五大革命指令を一つずつ見ていきましょう。1つ目の「女性解放」、これはこれまで抑圧されてきた女性に対して男女平等を法によって実現したものです。

最も、この男女平等はあくまで法によっての実現ですから、男女各々の意識まで改革されたとは言い難いかもしれません。実際、現在でも時折「男性は〇〇すべきだ」や「女性なら△△すべきだ」のような発言が起こって差別発言だと問題視ケースがありますからね。

五大革命指令の内容

2つ目の「教育制度改革」では、まず教職追放を行って軍国主義や職業軍人に該当する教員を辞職させました。そして平和主義・個人の尊重・男女共学などの理念を示した教育基本法が制定、さらに学校教育法により小学校6年・中学校3年・高校3年・大学4年の制度が完成します。

3つ目の「労働組合の結成奨励」、これは労働組合法・労働関係調整法・労働基準法の労働三法を制定、さらに労働者の基本官庁となる労働省が設置されました。4つ目の「圧政撤廃」では、これまで存在していた治安維持法・特高警察・内務省を廃止、一方で政治犯や思想犯が釈放されています。

最後は5つ目の「経済の民主化」、戦前の日本では財閥が経済を握っていましたが、これを解体した上で独占禁止法を制定。要するに、アメリカ同様の経済の民主化を進めていったのです。最も、これには日本を無力化させる目的があったかもしれません。しかし、日本にとってはむしろ経済大国になる要因となり、多くの企業が誕生しました。

\次のページで「GHQの廃止」を解説!/

GHQの廃止

image by PIXTA / 1460630

逆コース

このようにしてGHQは日本の民主化を進めていきましたが、その状況を一変させたのが冷戦です。1945年に始まった冷戦はソ連が共産主義国を世界中に広めようとしたことで拡大していき、その影響を受けた日本は国内で共産主義が広まっていきました。

日本の民主化においてそれは深刻な事態であり、そこでGHQは共産主義者を抑制するため公職追放した人々を復帰させるなどの対策をとります。しかしそれは目指すべき日本の民主化・非軍事化に対してむしろ逆光する動きとなってしまい、これを逆コースと呼びました。

その結果、GHQが目的・課題としていた日本の非軍事化はなかったものとなり、日本では警察予備隊や海上保安庁が設立されることになります。ちなみに、警察予備隊は後に自衛隊となる存在で、冷戦対処の末に起こった逆コースによって日本は再び軍を所持したのでした。

7年間の支配の終わり

1950年のこと、朝鮮戦争において日本は物資を送ったことで好景気が訪れ、戦後の不景気を完全に払拭して経済大国への成長が期待されます。そんな日本に対してアメリカは独立させることを考えており、西側諸国の一員とさせたい気持ちがありました。

そこで、1951年にアメリカは日本との間に講和条約となるサンフランシスコ平和条約を結びます。ちなみに、サンフランシスコ平和条約に調印したのは1951年ですが、発行したのは1952年のこと。こうして、戦後占領された日本はとうとう主権を取り戻して西側諸国の一員となったのです。

サンフランシスコ平和条約によって日本は朝鮮半島や台湾を放棄、さらにアメリカによる沖縄や小笠原諸島の支配を認めました。そして、日本が主権を取り戻したということは日本への支配が終わることであり、そのためサンフランシスコ平和条約の締結と同時にGHQも廃止されたのです。

そもそもGHQとは何なのかをしっかり覚えよう!

GHQを覚えるポイントは、そもそもGHQとは何かをしっかりと理解することです。ポツダム宣言で記された内容の実行する上で日本を統治する必要があり、そのために誕生した組織がGHQになります。

また、GHQが行った政策を覚えることも重要で、日本国憲法の作成や五大革命指令はいずれも現在につながっていることです。そして、GHQは1952年のサンフランシスコ平和条約の締結によって廃止されました。

" /> 戦後の日本を統治した「GHQ」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説 – Study-Z
日本史昭和歴史

戦後の日本を統治した「GHQ」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日はGHQについて勉強していきます。第二次世界大戦で敗戦した日本の占領政策を実施したのが連合国軍最高司令官総司令部であり、英語ではGeneral Headquartersと表記、略してGHQです。

戦後の日本の政治はGHQによって進められていき、日本は一変して従属国の立場に等しくなった。そこで、今回はGHQについて日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」からGHQをわかりやすくまとめた。

日本の敗戦

image by PIXTA / 11777013

ポツダム会談での決定事項

1939年にドイツがポーランドに侵攻したことで始まった第二次世界大戦、そして2年後の1941年にアメリカとの間に太平洋戦争を起こした日本も第二次世界大戦に巻き込まれます。開戦当初は真珠湾攻撃で先制した日本でしたが徐々に劣勢に立たされ、敗戦は濃厚になっていきました。

1941年7月、敗戦濃厚で降伏が間近とされた日本に対して、「戦後処理をどのようにするべきか?」を話し合うための会談が連合国の間で開かれます。会談が開かれた場所はベルリン郊外のポツダム、そこで地名をそのままとってその会談はポツダム会談と呼ばれました。

ポツダム会談では日本の無条件降伏一定の期間は連合国が日本を占領することなどが決定、そして日本は翌月となる8月15日にポツダム宣言を受諾。さらに9月2日に無条件降伏をしたため、これまで長く続いた第二次世界大戦は日本の降伏敗戦という決着でようやく終戦しました。

極東委員会の設立とGHQの誕生

ちなみに、ポツダム会談において日本は軍事占領されることが決定していましたが、当初はアメリカ・イギリス・中国・ソ連による占領となる予定でした。しかし、アメリカのトルーマン大統領が急遽その予定を変更、4国ではなくアメリカ中心で間接的に日本を統治することに決まります。

これは、アメリカがソ連に対して敵対感情を抱くようになったのが理由とされており、要するにアメリカはソ連を警戒したわけですね。さて、日本の敗戦を受けて連合国は日本を占領するための極東委員会を設置、極東委員会とは連合国が日本を統治する手段を会議するための組織です。

そして、会議で決定された意見に従って実際に日本で政策を行う組織として誕生したのがGHQでした。最も、政策と言えば本来政府が行うものですが、日本政府は一応の存続は許可されたものの、GHQの意見に逆らうことは許可されず、立場として従属国に等しくなったのです。

\次のページで「GHQの最大の目的だった日本の非軍事化」を解説!/

次のページを読む
1 2 3 4
Share: