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ローマ教皇アレクサンドル6世の娘「ルクレツィア・ボルジア」を歴女がわかりやすく解説

2-3、ルクレツィア、愛人ペドロと関係、謎の子供も

ルクレツィアは、ジョヴァンニとの結婚無効騒動の間、父アレクサンデル6世の侍従ペドロ・カルデロンと愛人関係となり、カルデロンの子供を身ごもり出産したという説あり。ルクレツィアは1497年6月から12月までサン・シスト修道院に滞在、そして1498年2月、チベレ川でルクレツィアの愛人ペドロの胴体と侍女パンタシレアの遺体が発見されたそう。

ルクレツィアがビシェーリエ公アルフォンソ・ダラゴーナと結婚する前年、ボルジア家の邸宅で子供が生まれ、ジョヴァンニ・ボルジアと名づけられたが、この子は歴史家たちが「ローマの子供、王子」と呼んでいるということ。

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うーん、ローマ教皇の家族というか、ハリウッドスターの伝記みたいだぞ

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ジョン・コリア – Daily Telegraph, King Albert’s Book (London, 1914), page 152. Scanned by Dave Pape., パブリック・ドメイン, リンクによる

ジョヴァンニ・ボルジアとは
1501年に出されたというジョヴァンニ・ボルジアに関係する2通の教皇勅書が存在し、1通目には、ルクレツィアの兄チェーザレが結婚前に他の女性に生ませた庶子とあり、2通目にはアレクサンデル6世自身の子供であると記されているそう。

ジョヴァンニはルクレツィアが生んだ子供といわれているが、どちらの教皇勅書にもルクレツィアの名前はなく、ルクレツィアの子供ではないということ。2通目の文書は長い間秘密とされていて、ジョヴァンニはチェーザレの子供として育てられ、1502年、チェーザレがカメリーノを陥落させたとき、赤ん坊のジョヴァンニはカメリーノ公に任じられたので、ヴァレンティーノ公であるチェーザレの最年長の息子とみなされていたということ。

尚、アレクサンデル6世の死後、ジョヴァンニはフェラーラのルクレツィアのもとに引き取られたそう。

2-4、ルクレツィア、アルフォンソ・ダラゴーナと結婚

ルクレツィアはジョヴァンニ・スフォルツァとの婚姻無効が認められた後、1498年にナポリ王アルフォンソ2世の庶子ビシェリエ公アルフォンソ・ダラゴーナと結婚。アルフォンソはルクレツィアの弟ホフレ・ボルジアと結婚したサンチャ・ダラゴーナの異母弟で、ルクレツィアとアルフォンソの結婚生活は短命に終わることに。

2-5、ルクレツィア、スポリートの総督に、夫は暗殺

1499年、アルフォンソと結婚後、ルクレツィアは父アレクサンデル6世によってスポレートとフォリーニョの総督に任じられ、現地へ赴いたが、ペストが流行中でローマから避難の目的もあったよう。

この直後、アルフォンソはローマを離れ、ルクレツィアの要望で再びローマに戻ってきたが翌年の1500年に暗殺。この暗殺は、ルクレツィアの兄チェーザレが関係していて、フランスとの関係を強化したいために、ナポリ王国との関係を破棄するのが目的だったということ。ルクレツィアとアルフォンソの間には1499年にロドリーゴ・ダラゴーナが生まれたが、1512年に12歳で夭折。

2-6、ルクレツィア、教皇代行を務める

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1501年7月、アレクサンデル6世は、ルクレツィアと結婚させようとしていたエステ家に対し、ルクレツィアの真価を知らせようという目的もあったということで、ローマ教皇領国内歴訪の旅に出る5日間不在の間、ルクレツィアに教皇代行を任せたということ。

マーリア・ベロンチ著「ルクレツィア・ボルジア」によると、ヴァチカンの統治の権限を託し、教会関係以外の書簡を開封すること、ルクレツィアの判断ですべての物事を処理するようにということは、85歳のコスタ枢機卿を筆頭にすべての枢機卿が納得したそう。

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angelica