今回はルクレツィア・ボルジアを取り上げるぞ。有名なボルジア家の美女ですが、どんな人だったのか、いろいろと詳しく知りたいよな。

その辺のところをヨーロッパ史も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、ヨーロッパの歴史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、ルクレツィア・ボルジアについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、ルクレツィア・ボルジアはローマ近郊の生まれ

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バルトロメオ・ヴェネト - [1], パブリック・ドメイン, リンクによる

ルクレツィア・ボルジアは、1480年4月18日に、後のローマ教皇アレクサンデル6世であるロドリーゴ・ボルジア枢機卿とその愛人ヴァノッツァ・デイ・カタネイの娘として、ローマ近郊のスビアーコのアッバツィアーレ要塞で誕生。

同母兄弟はロマーニャ公でヴァレンティーノ公チェーザレ、ガンディア公ホアン、ホフレ。母ヴァノッツアは名目上の結婚をしていたこともあり、ルクレツィアは、幼い頃、チェーザレら兄弟たちとともに父の従妹の娘であるアドリアーナ・デル・ミラ・オルシーニに引き取られ、オルシーニ家のモンテ・ジョルダーノ宮殿で育てられたということ。

1-2、ボルジア家とは

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Cristofano dell'Altissimo - http://www.comune.fe.it/diamanti/mostra_lucrezia/quadri/q08.htm, パブリック・ドメイン, リンクによる

ルクレツィアの父のローマ教皇アレクサンデル6世はロドリーゴ・ボルジアという名で、スペインの土豪の出身。伯父アルフォンソが教皇カリストゥス3世に就任したことで、縁故主義(ネポティズム)でどんどん出世させてもらい枢機卿に。

そして不正なやり方で財産を作り、また政治腐敗と不品行でもトップクラスで、コンクラーヴェであからさまな買収を行ってい教皇位を買って就任したというのは有名で、堕落したルネサンス期ローマ教皇の典型例といわれるほど。在位中から悪徳の評判高く、敵も多かったが、生涯独身の聖職者にはいるはずのない息子のチェーザレを枢機卿にし、のちに還俗させて右腕となって活躍、娘のルクレツィアは父や兄に溺愛されたが、勢力増大のために政略結婚の道具として扱われたということ。

尚、ルクレツィアは膝までもある豊かな金髪で、角度によって色が変わって見えるヘーゼル色の瞳、美しく盛り上がった胸、生来の優雅さを持った「天女」と呼ばれ当時のイタリアで賞賛されていたほどの美しい容貌の持ち主。

また、現代から見ると独身のはずの高位の聖職者の子弟が公然と存在し、貴族の地位についたり政略結婚をしていることは不思議に思えますが、この時代では、枢機卿の子女はどこにでも出入りしていて国王や貴族と同等に扱われていたということ。

そのうえ、マリオン・ジョンソン著「ボルジア家」によれば、アレクサンデル6世が枢機卿時代にシエナで主催した放埓なパーティーをこっそり覗いた人が書いた手紙によれば、「1年以内にシエナで生まれる赤子が父親と同じ衣服であらわれるとすれば、さぞ多くの者が僧服か枢機卿のガウンをまとって生まれてくるでしょう」とあるほどで、堕落しきった時代だったことは事実のよう。

1-3、ルクレツィア、最初の婚約

ルクレツィアが、13歳の時の1491年2月、スペインのヴァレンシア王国の貴族、ヴァル・ダヨラ領主ドン・チェルビーノ・ホアン・デ・サンテーリャスとの間に婚約の取り決めがされたが、それよりも高い地位のプロシダ伯ドン・ガスパーレ・アヴェルサとルクレツィアと結婚話が持ち上がり2カ月足らずで破棄。

2-1、ルクレツィア、スフォルツァ家のジョバンニと結婚

1492年、ルクレツィアの父ロドリーゴがアレクサンデル6世としてローマ教皇に選出されたため、アレクサンデル6世はより高位の権力基盤強化のため、イタリア諸国の権力者たちとの結びつきにルクレツィアを使うことに。

そういうわけで、ルクレツィアとアヴェルサとの婚約を白紙に戻して、当時のミラノの支配者だったスフォルツァ家の、ペーザロの君主でカティニョーラ伯ジョヴァンニ・スフォルツァとルクレツィアを婚約させることに。ジョヴァンニはスフォルツァ家のコスタンツォ1世の庶子で、1493年6月にローマでルクレツィアと結婚。

2-2、ボルジア家、スフォルツァ家と距離を置くため結婚を無効に

ルクレツィアとジョヴァンニ・スフォルツァとの結婚後、ボルジア家はスフォルツァ家と距離を置くことになり、アレクサンデル6世はジョヴァンニの暗殺を命じたとされていて、ルクレツィアは兄チェーザレから夫ジョヴァンニの暗殺計画を聞かされたためジョヴァンニに警告し、ジョヴァンニはローマから逃げ出したということ。

そしてアレクサンデル6世はジョヴァンニの叔父のアスカニオ・スフォルツァ枢機卿に、ジョヴァンニを説得してルクレツィアとの離婚を承諾させるよう命令したが、ジョヴァンニは離婚を拒絶、父、兄との近親相姦の疑いがあるとしてルクレツィアに対する訴えを起こしたそう。

ルクレツィアの父アレクサンデル6世は、ルクレツィアとジョヴァンニの結婚は不完全なもので無効だとして、激しく主張。ジョヴァンニは離婚の条件として、ルクレツィアの持参金を返却しないと申し出たり、スフォルツァ家は、ローマ警護のためのスフォルツァ家の傭兵を引き上げると教皇庁を脅したりもしたが、最後にはジョヴァンニはボルジア家の圧力に屈して、ルクレツィアとの結婚を無効と認めて婚姻は破棄に。

\次のページで「2-3、ルクレツィア、愛人ペドロと関係、謎の子供も」を解説!/

2-3、ルクレツィア、愛人ペドロと関係、謎の子供も

ルクレツィアは、ジョヴァンニとの結婚無効騒動の間、父アレクサンデル6世の侍従ペドロ・カルデロンと愛人関係となり、カルデロンの子供を身ごもり出産したという説あり。ルクレツィアは1497年6月から12月までサン・シスト修道院に滞在、そして1498年2月、チベレ川でルクレツィアの愛人ペドロの胴体と侍女パンタシレアの遺体が発見されたそう。

ルクレツィアがビシェーリエ公アルフォンソ・ダラゴーナと結婚する前年、ボルジア家の邸宅で子供が生まれ、ジョヴァンニ・ボルジアと名づけられたが、この子は歴史家たちが「ローマの子供、王子」と呼んでいるということ。

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ジョン・コリア - Daily Telegraph, King Albert's Book (London, 1914), page 152. Scanned by Dave Pape., パブリック・ドメイン, リンクによる

ジョヴァンニ・ボルジアとは
1501年に出されたというジョヴァンニ・ボルジアに関係する2通の教皇勅書が存在し、1通目には、ルクレツィアの兄チェーザレが結婚前に他の女性に生ませた庶子とあり、2通目にはアレクサンデル6世自身の子供であると記されているそう。

ジョヴァンニはルクレツィアが生んだ子供といわれているが、どちらの教皇勅書にもルクレツィアの名前はなく、ルクレツィアの子供ではないということ。2通目の文書は長い間秘密とされていて、ジョヴァンニはチェーザレの子供として育てられ、1502年、チェーザレがカメリーノを陥落させたとき、赤ん坊のジョヴァンニはカメリーノ公に任じられたので、ヴァレンティーノ公であるチェーザレの最年長の息子とみなされていたということ。

尚、アレクサンデル6世の死後、ジョヴァンニはフェラーラのルクレツィアのもとに引き取られたそう。

2-4、ルクレツィア、アルフォンソ・ダラゴーナと結婚

ルクレツィアはジョヴァンニ・スフォルツァとの婚姻無効が認められた後、1498年にナポリ王アルフォンソ2世の庶子ビシェリエ公アルフォンソ・ダラゴーナと結婚。アルフォンソはルクレツィアの弟ホフレ・ボルジアと結婚したサンチャ・ダラゴーナの異母弟で、ルクレツィアとアルフォンソの結婚生活は短命に終わることに。

2-5、ルクレツィア、スポリートの総督に、夫は暗殺

1499年、アルフォンソと結婚後、ルクレツィアは父アレクサンデル6世によってスポレートとフォリーニョの総督に任じられ、現地へ赴いたが、ペストが流行中でローマから避難の目的もあったよう。

この直後、アルフォンソはローマを離れ、ルクレツィアの要望で再びローマに戻ってきたが翌年の1500年に暗殺。この暗殺は、ルクレツィアの兄チェーザレが関係していて、フランスとの関係を強化したいために、ナポリ王国との関係を破棄するのが目的だったということ。ルクレツィアとアルフォンソの間には1499年にロドリーゴ・ダラゴーナが生まれたが、1512年に12歳で夭折。

2-6、ルクレツィア、教皇代行を務める

image by PIXTA / 7955860

1501年7月、アレクサンデル6世は、ルクレツィアと結婚させようとしていたエステ家に対し、ルクレツィアの真価を知らせようという目的もあったということで、ローマ教皇領国内歴訪の旅に出る5日間不在の間、ルクレツィアに教皇代行を任せたということ。

マーリア・ベロンチ著「ルクレツィア・ボルジア」によると、ヴァチカンの統治の権限を託し、教会関係以外の書簡を開封すること、ルクレツィアの判断ですべての物事を処理するようにということは、85歳のコスタ枢機卿を筆頭にすべての枢機卿が納得したそう。

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3-1、ルクレツィア、フェラーラ公と3度目の結婚

Bemberg Fondation Toulouse - Portrait d'Alphonse dEste - Titien Inv.1053.jpg
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ, パブリック・ドメイン, リンクによる

アルフォンソ・ダラゴーナの暗殺後、アレクサンデル6世はルクレツィアの3回目の結婚を画策し、1501年に名門エステ家のフェラーラ公エルコレ1世デステ家の嫡子アルフォンソ1世(イザベラ・デステの弟)と結婚することに。

マリオン・ジョンソン著「ボルジア家」によれば、デステ家ではボルジア家からの嫁は最初は歓迎されず、莫大な持参金などの結婚契約の条件を厳しく要求したということ。アルフォンソの姉のイザベラ・デステも最初はルクレツィアに冷たかったが、その後文通を続けるうちに心からの親しみに変わって行ったそう。

またルクレツィアは多数の侍女を連れていったことで、舅と常に家計や経費について争ったとか、肝心の夫のアルフォンソは大砲鋳造所か売春宿に入り浸るような武骨な男で、思いやりを期待できるような相手ではなく、ルクレツィアを愛してはいなかったが尊重していたなど、ルクレツィアはフェラーラで孤軍奮闘することに。

3-2、晩年のフェラーラ公妃ルクレツィア

ルクレツィアはフェラーラで孤独な生活を送ったが、1503年のアレクサンデル6世が死去、ボルジア家は没落の一途をたどることに。

しかしデステ家の人たちは、教皇という後ろ盾のなくなったルクレツィアを放り出すことはなかったということ。その理由として、莫大なルクレツィアの持参金を返すつもりはないこと、当時強力な仇敵だったヴェネチアがロマーニャ侵略したため、ルクレツィアの兄チェーザレに味方したこと、そしてルクレツィアの魅力的な人柄に好意を持っていたからだそう。

アルフォンソが外国へ行くなど不在の時は、ルクレツィアが摂政を務め、弟のイッポリート枢機卿に補佐させたということ。また1508年の長男のエルコレ2世誕生直後に起こったカンブレー同盟戦争で、イタリア全土が混乱し戦争状態となったため、夫アルフォンソが前線に出る間、ルクレツィアは統治を任されていたということ。

ルクレツィアは義兄のマントヴァ侯フランチェスコ・ゴンザーガ(アルフォンソの姉イザベラ・デステの夫)と不倫関係にあったとか、高名な学者で詩人ピエトロ・ベンボと関係があったという話もあるものの、ルクレツィアは病院や修道院を設立し、「善良な公爵夫人」として領民に慕われたそう。

ルクレツィアはスペイン語で会話、読み書きができ、ラテン語、ギリシア語も少し理解する程度で、あまり深い知識は持たなかったが、武骨な夫に代わってフェラーラの宮廷で芸術家のパトロンとしても重要な役割を担ったということ。ルクレツィアは1519年にアルフォンソの7人目の女の子を出産したが夭折し、産褥の合併症のために6月24日に39歳で死去。

父アレクサンドル6世と兄チェーザレに翻弄され、波乱の人生を送った

ルクレツィア・ボルジアは、悪名高いボルジア家の女性として誕生。ローマ教皇の娘として権力者との政略結婚の道具に使われ、幼い頃から婚約、結婚、結婚無効、夫、愛人を暗殺されるなど、波乱の人生を送った人。

ボルジア家は父アレクサンデル6世が教皇としてトップにいた当時から悪の根源とされ、滅亡後は存在を抹殺するようにいろいろな資料なども破棄されたほど忌み嫌われたため、父アレクサンデル6世の最後の子とされるジョバンニが、兄チェーザレとルクレツィアとの間の子供ではとか、ルクレツィアも性的に奔放で近親相姦の噂すらあるのですが、アレクサンデル6世不在時には、ルクレツィアが教皇の代理を務めたり、地方の総督も任されたことも。

そして父アレクサンデル6世が亡くなり、ボルジア家が滅びた後も、ルクレツィアは次々と子供が生まれたうえに、夫の不在時には摂政を任され領民にも慕われ、フェラーラ公家では重要な存在となったということは、父や兄の悪事とは切り離されて考えられるほど、かなりしっかりした有能な賢い女性だったのでは。

ボルジア家では父と兄に次いで有名で、絶世の美人という見方をされることが多いルクレツィアですが、有能さについても再評価されてもいいのではないでしょうか。

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ローマ教皇アレクサンドル6世の娘「ルクレツィア・ボルジア」を歴女がわかりやすく解説

今回はルクレツィア・ボルジアを取り上げるぞ。有名なボルジア家の美女ですが、どんな人だったのか、いろいろと詳しく知りたいよな。

その辺のところをヨーロッパ史も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、ヨーロッパの歴史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、ルクレツィア・ボルジアについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、ルクレツィア・ボルジアはローマ近郊の生まれ

Lucrezia Borgia.jpg
バルトロメオ・ヴェネト[1], パブリック・ドメイン, リンクによる

ルクレツィア・ボルジアは、1480年4月18日に、後のローマ教皇アレクサンデル6世であるロドリーゴ・ボルジア枢機卿とその愛人ヴァノッツァ・デイ・カタネイの娘として、ローマ近郊のスビアーコのアッバツィアーレ要塞で誕生。

同母兄弟はロマーニャ公でヴァレンティーノ公チェーザレ、ガンディア公ホアン、ホフレ。母ヴァノッツアは名目上の結婚をしていたこともあり、ルクレツィアは、幼い頃、チェーザレら兄弟たちとともに父の従妹の娘であるアドリアーナ・デル・ミラ・オルシーニに引き取られ、オルシーニ家のモンテ・ジョルダーノ宮殿で育てられたということ。

1-2、ボルジア家とは

ルクレツィアの父のローマ教皇アレクサンデル6世はロドリーゴ・ボルジアという名で、スペインの土豪の出身。伯父アルフォンソが教皇カリストゥス3世に就任したことで、縁故主義(ネポティズム)でどんどん出世させてもらい枢機卿に。

そして不正なやり方で財産を作り、また政治腐敗と不品行でもトップクラスで、コンクラーヴェであからさまな買収を行ってい教皇位を買って就任したというのは有名で、堕落したルネサンス期ローマ教皇の典型例といわれるほど。在位中から悪徳の評判高く、敵も多かったが、生涯独身の聖職者にはいるはずのない息子のチェーザレを枢機卿にし、のちに還俗させて右腕となって活躍、娘のルクレツィアは父や兄に溺愛されたが、勢力増大のために政略結婚の道具として扱われたということ。

尚、ルクレツィアは膝までもある豊かな金髪で、角度によって色が変わって見えるヘーゼル色の瞳、美しく盛り上がった胸、生来の優雅さを持った「天女」と呼ばれ当時のイタリアで賞賛されていたほどの美しい容貌の持ち主。

また、現代から見ると独身のはずの高位の聖職者の子弟が公然と存在し、貴族の地位についたり政略結婚をしていることは不思議に思えますが、この時代では、枢機卿の子女はどこにでも出入りしていて国王や貴族と同等に扱われていたということ。

そのうえ、マリオン・ジョンソン著「ボルジア家」によれば、アレクサンデル6世が枢機卿時代にシエナで主催した放埓なパーティーをこっそり覗いた人が書いた手紙によれば、「1年以内にシエナで生まれる赤子が父親と同じ衣服であらわれるとすれば、さぞ多くの者が僧服か枢機卿のガウンをまとって生まれてくるでしょう」とあるほどで、堕落しきった時代だったことは事実のよう。

1-3、ルクレツィア、最初の婚約

ルクレツィアが、13歳の時の1491年2月、スペインのヴァレンシア王国の貴族、ヴァル・ダヨラ領主ドン・チェルビーノ・ホアン・デ・サンテーリャスとの間に婚約の取り決めがされたが、それよりも高い地位のプロシダ伯ドン・ガスパーレ・アヴェルサとルクレツィアと結婚話が持ち上がり2カ月足らずで破棄。

2-1、ルクレツィア、スフォルツァ家のジョバンニと結婚

1492年、ルクレツィアの父ロドリーゴがアレクサンデル6世としてローマ教皇に選出されたため、アレクサンデル6世はより高位の権力基盤強化のため、イタリア諸国の権力者たちとの結びつきにルクレツィアを使うことに。

そういうわけで、ルクレツィアとアヴェルサとの婚約を白紙に戻して、当時のミラノの支配者だったスフォルツァ家の、ペーザロの君主でカティニョーラ伯ジョヴァンニ・スフォルツァとルクレツィアを婚約させることに。ジョヴァンニはスフォルツァ家のコスタンツォ1世の庶子で、1493年6月にローマでルクレツィアと結婚。

2-2、ボルジア家、スフォルツァ家と距離を置くため結婚を無効に

ルクレツィアとジョヴァンニ・スフォルツァとの結婚後、ボルジア家はスフォルツァ家と距離を置くことになり、アレクサンデル6世はジョヴァンニの暗殺を命じたとされていて、ルクレツィアは兄チェーザレから夫ジョヴァンニの暗殺計画を聞かされたためジョヴァンニに警告し、ジョヴァンニはローマから逃げ出したということ。

そしてアレクサンデル6世はジョヴァンニの叔父のアスカニオ・スフォルツァ枢機卿に、ジョヴァンニを説得してルクレツィアとの離婚を承諾させるよう命令したが、ジョヴァンニは離婚を拒絶、父、兄との近親相姦の疑いがあるとしてルクレツィアに対する訴えを起こしたそう。

ルクレツィアの父アレクサンデル6世は、ルクレツィアとジョヴァンニの結婚は不完全なもので無効だとして、激しく主張。ジョヴァンニは離婚の条件として、ルクレツィアの持参金を返却しないと申し出たり、スフォルツァ家は、ローマ警護のためのスフォルツァ家の傭兵を引き上げると教皇庁を脅したりもしたが、最後にはジョヴァンニはボルジア家の圧力に屈して、ルクレツィアとの結婚を無効と認めて婚姻は破棄に。

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