日本史

明治政府が作った特権階級「華族」とは?元塾講師が分かりやすく5分で解説

よぉ、桜木建二だ。今日は華族(かぞく)について勉強していくぞ。明治時代を勉強していると、人物に対して公爵や男爵とつけられていることがあり、そのまま覚えつつも呼び名に疑問を感じた人もいるだろう。

これについて解説すると、公爵や男爵というのは華族におけるランクを示す表現だ。では華族とは何なのか?そこで、今回は華族について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から華族をわかりやすくまとめた。

華族誕生のいきさつ

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中央集権化に向けた廃藩置県の実施

幕府が政権を握っていた江戸時代、幕末の戊辰戦争によって幕府の時代は終わり、日本は明治政府による新たな時代へと突入していきます。外国と対等に渡り合える日本作りを目指す明治政府は近代化を進めていきますが、明治時代が始まって間もない頃の日本の状態は政府を悩ませるものでした。

江戸時代の名残から日本にはが存在しており、しかも藩によって貨幣・言葉・法律までもがバラバラになっていたのです。現在で例えるなら県によって法律が全く異なる状態に等しく、これではいかなる政策を打ち出してもスムーズに進められず、日本は江戸時代までの状態と全く変わらないでしょう。

そこで明治政府はひとまず藩をなくすことを考え、言わば藩という名の国境を消去することで日本を一つにしようとします。その上で政治改革を打ち出し、その中で明治政府が頂点に立つという中央集権国家を形にしようとしたのです。そこで明治政府は1871年に廃藩置県を行います。

権力を失った藩主への配慮

廃藩置県とは文字どおり藩を廃止して県を配置する政策であり、県の頂点に立つ者として県令が明治政府より派遣されました。ちなみに、県令とは現在の県知事にあたる存在とイメージすると分かりやすいでしょう。ただ、それを行うとなると考えなければならないのがこれまで藩主を務めたきた者達の処遇です。

藩主の権力の高さは江戸時代の薩摩藩などに注目すると明らかで、それが突然藩を廃止され、なおかつ県令を設置されたとなれば、藩主は突如権力を失うため納得するはずありません。明治政府も当然その点は考慮しており、東京への移住を命じた藩主達を華族として特別な扱いをすることにしたのです。

最も、華族は版籍奉還を行った時に誕生した特権階級で、廃藩置県で藩主を華族したことはあくまでも配慮でしょう。また、華族が誕生したことで公家だった家も全て華族になりました。ここで気になるのは貴族と華族の違いですが、貴族は華族と同じく国から特権を与えられた社会層の出身者を示すため、貴族は華族でもあり、華族は貴族でもあるのです

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華族は版籍奉還を行った時に誕生した特権階級で、廃藩置県を行って藩を廃止した際には配慮として藩主を華族にした。つまり、華族が誕生した年はイコール版籍奉還を行った年であり、1869年ということになる。

華族令の発令

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明治時代にも存在した身分制度

改めて明治時代を振り返ると、これまで使われてきた公家や殿様などの呼び名は一切使われなくなりましたが、それは明治維新以降から華族と呼ばれるようになったためです。また、明治時代は身分制度がなく平等のイメージがありますが、華族と呼ばれる特権階級のキーワードが存在する以上、実際には身分制度があったことも明らかですね。

要するに、華族は明治維新後に大名や公家を中心とした新たな身分というわけです。しかし、ここでさらなる課題が勃発、それは華族と一括りにするとそこには様々な境遇や地位の者が混在してしまう点であり、例えば江戸時代に殿様を務めた華族からすれば、下級武士出身の華族と同格に扱われるのは納得できないでしょう。

そのため明治政府は華族の中でランク分けをすることを考案、それが1884年に発令された華族令になります。華族は華族でも上級華族と下級華族が区別できるようにランク分けを行い、そのランクは上位から並べて公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵と設定されました。

華族のランク分け

最も位の高い公爵の地位を与えられたのは明治維新で活躍した大名や公家で、徳川本家もここに含まれます。他には清華家(摂家に次ぐ家格)の1つである三条家、薩摩藩主である島津家、長州藩主である毛利家などが公爵でした。雄藩だった薩摩藩や長州藩の藩主はやはり別格たる存在だったのでしょう。

次に2番目に位の高い侯爵は、三条家を除く清華家、さらに徳川御三家を始めとする15万石以上の大名が含まれています。3番目に位の高い伯爵は、公家からは大臣家、大名からは徳川御三卿を始めとする5万石以上の大名が含まれており、政治家として開花した伊藤博文も実は伯爵でした。

続いて4番目の位となる子爵は公家からは堂上家、大名からは大名の分家が含まれ、明治時代の多くの政治家も子爵となっています。そして最も位が下となる男爵は明治維新後に公家や大名となった家が含まれ、言わば公家や大名の新米が該当しており、華族とは言え実際の暮らしは裕福ではありませんでした。

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華族と一括りにすれば、元々身分の高かった華族はそうでない華族と同じ位であることを不満に思うだろう。そこで1884年に華族令を発令してランク分けを行い、華族は公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の5段階のランクに分けたのだ。

華族の特権と生活

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華族に与えられた特権

華族は明治政府が作った特権階級、では華族の人々にはどのような特権が与えられていたのでしょうか。まず家を継ぐことが認められ、これは家の世襲と考えると分かりやすいでしょう。さらに確実に官位を与えられる約束、身分の保証、学習院への無条件入学も認められました。

さらに、財産がなく生活に苦労している場合は明治政府からお金が支給されるようになっており、まさに特権の言葉が相応しいほど優遇されています。最も、ここまで華族を優遇したのは、やはり廃藩置県による藩主の不満を解消するためだと考えられるでしょう。

また、大日本帝国憲法が完成すると日本では議会が開かれるようになりますが、華族はその中で貴族院議員に就任できるようになりました。議員と言えば衆議院を連想すると思いますが、貴族院の場合は貴族院の法律を自身らで決めるようになっており、衆議院と違って選挙で選ばれていない議員で構成されていたようです。

裕福で自由とは限らない華族の生活

こうした数々の特権から華族の生活は恵まれているように思えますが、自由という意味では不自由な一面もありました。ドラマや映画では、お金持ちの財閥のお嬢様が一般の女性のように振る舞えない不自由さを嘆く場面が多々ありますが、華族の生活はまさにそれに等しかったようです。

華族は国民の模範となるべき存在で、そのため学習院への入学は必須。例え学力に長けていなくても学習院で勉強しなければならず、不祥事が発生したとなれば華族の地位を一瞬で失う可能性もありました。さらに華族の中では格差が激しく、特に公家出身の華族は普通に生活することも困難でした。

何しろ公家の財産は少なく、公家から華族になった人々は大名から華族になった人々に比べて生活が苦しかったのです。その結果生活費が支払えなくなってしまい、一部の華族は自らその地位を手放すケースもありました。特に深刻な事態となったのは金融恐慌が起きたことで、これによって華族の銀行だった十五銀行が破綻してしまったのです。

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華族はその文字からも一般人とは違ったセレブな生活を送るイメージがあり、確かに多くの特権が与えられている。しかしその一方で不自由な部分も多く、またイメージどおりの生活ができず、むしろ貧困に喘ぐケースもあったのだ。

華族制度への批判

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四民平等に反した華族制度

明治時代の初期のこと、明治政府は四民平等をスローガンにして身分制度の廃止を宣言。四民とは武士・農民・職人・商人の4つの職を示すもので、江戸時代では武士が高い地位を築いていました。しかし、明治政府は全ての人々が平等だと呼びかけ、これまでの身分制度廃止の政策を打ち出していったのです。

だからこそ、華族の特権階級が作られた時には批判も多く、四民平等に反した行為だと問題視されました。最も、それは華族に限ったことではありません。これまで武家や公家の呼び方を使っていたように、明治時代でも皇族や華族や士族や平民などの名称が依然使われ、それは明らかな差別意識となっていたのです。

ただし、一方で四民平等に相応しい政策が打ち出されたことも事実であり、例えば1870年には平民が名字を名乗ることが許可されました。さらに1871年には平民が華族や士族と結婚することが許可され、1872年には学制の制定によって全ての国民が学校で教育を受けられる対象になっています。

特権を失った武士の末路

ちなみに、四民平等はこれまで身分の低かった者にとっては支持すべき政策でしたが、身分の高かった者にとっては不満の多い政策でした。中でも特に不満が多かったのは武士で、江戸時代まで武士は時代の主役と呼ばれるほどの存在であり、実際に多くの特権を手にしていたのです。

しかし、四民平等によってその特権は失われ、それどころか近代化を目指す日本において武士の力は不要とされました。もちろん、大名のように華族の地位を手にした武士も存在しましたが、一方で華族になれない武士は特権を失った士族となってしまい、やがて不満の既に暴動を起こす不平士族が現れます。

事実、明治時代に起こった反乱の多くは不平士族が引き起こしたもので、日本史上最後の内戦と呼ばれる西南戦争も西郷隆盛と不平士族によって起きた戦争でした。華族は四民平等に反していると批判され、一方で四民平等に相応しい政策はこれまでの武士の反発を招くものになったのです。

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四民平等をスローガンとする明治政府において、華族制度の施行は明らかに矛盾している。そのため、華族が誕生した時にはかなりの批判が寄せられた。最も、平等ゆえの批判も起こり、特権を失った武士は不平士族として治安を悪化させた。

華族の廃止

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第二次世界大戦敗戦の戦後処理

華族制度が廃止されるきっかけとなったのは1945年のことで、「1945年」という年から連想できるとおり第二次世界大戦での敗戦がきっかけとなりました。日本の敗戦後、戦後処理として日本にGHQが介入、GHQとは連合国最高司令部を意味するGeneral・Headquartersの略になります。

当時、敗戦した日本に対して勝利した連合国は日本を占領する組織を設立、それは極東委員会と呼ばれるもので、組織設立はポツダム宣言の内容に沿ったものでした。そして、極東委員会にて今後の日本の統治を会議する中でGHQが誕生、GHQは日本で政策を行う組織となったのです。

この時、日本の政府に一切の権限はなく、存続こそ許可されたもののGHQの意見や決断に反論する資格はありませんでした。例えるならそれは服従に等しく、立場的に日本は完全な従属国となってしまいます。そんなGHQが課題としたのが日本の非軍事化であり、これは再度アメリカに宣戦布告する可能性をゼロにする目的もあったのでしょう。

GHQの要求

日本の非軍事化を目指すGHQは、日本を主導した軍人・政治家を逮捕するなどの対応をしますが、さらに憲法の改正を要求しました。と言うのも、これまでの大日本帝国憲法は天皇中心かつ軍事的な要素を含んでいたためで、国民主義・平和主義・基本的人権の尊重を中心とした憲法作成を日本の政府に命令します。

これに対して日本の政府がどう思ったのか分かりません。しかし、どちらにしても日本の政府はGHQに逆らう権限はなく、1946年には大日本帝国憲法にかわる日本国憲法を公布、その翌年に早くも施行されました。そして、日本国憲法を作成する際に華族も廃止されたのです

華族廃止の理由は、改めて日本国民全てを平等にするためでした。最も、華族と呼ばれた人々は戦後においても活躍を見せており、現在でも霞会館と呼ばれる親睦会が残っています。つまり、1869年の版籍奉還の際に誕生した華族は、1947年まで続いて日本国憲法の施行によって廃止されたのです。

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華族は日本国憲法の作成時に廃止された。それでは日本国憲法を作成したきっかけは何か?……それは第二次世界大戦の敗戦であり、日本の非軍事化を目的とするGHQによって大日本帝国憲法にかわる日本国憲法の作成を要求されたのだ。

華族はいつ始まっていつ廃止されたのか

華族を覚えるポイントは、基本ですがまずは誕生した年と廃止された年を覚えることです。ただ華族の場合はその基本が少し難しく、「〇〇年に華族が誕生しました」と丁寧な解説がなされていません。

そのため、いつの間にか華族というキーワードが登場し、華族令における公爵などの5つのランクも同様です。華族の始まりは1869年の版籍奉還時、そして1947年まで続いた華族が廃止されたのは日本国憲法の作成によるものだという点をしっかり覚えておきましょう。

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