
3-6、明日のことを思いわずらうな
マタイの福音書第6章第34節
イエス・キリストの山上の垂訓または山上の説教と呼ばれる有名な説教の中の言葉で、「明日のことは、明日自身が思いわずらうであろう」と続き、「何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食べ物にまさり、からだは着物にまさるではないか。空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。
それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれたものではないか。あなたがたのうち、誰が思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか」ということで、一日の苦労は、その日一日だけで一十分であるということだそう。
3-7、こころの貧しい人たちは、さいわい、天国は彼らのものである
マタイの福音書第5章3節
讃美歌などにもなっている有名な聖句で、「悲しんでいる人たちは、さいわい、彼らは慰められるだろう。柔和な人たちは、さいわい、彼らは地を受けつぐだろう。義に飢えかわいている人たちは、さいわい、彼らは飽き足りるようになるだろう。あわれみ深い人たちは、さいわい、彼らはあわれみを受けるだろう。心の清い人たちは、さいわい、彼らは神を見るだろう。平和をつくり出す人たちは、さいわい、彼らは神の子と呼ばれるだろう。義のために迫害されてきた人たちは、さいわい、天国は彼らのもの」と続きます。
迫害され打ちひしがれた人は、自分の内側には何の可能性も見出せず絶望し、何の希望も持つことができないものだが、その人の目は神に向けられているということで、神に希望を見出そうとしている人が、「心の貧しい人」であり「柔和な人」であるそう。イエスはそういう神に希望を見出そうとする人々を天国の民といい、神の救いをすでに受けた人だと語ったのだということ。
3-8、一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである
ヨハネの福音書第12章第24節
「しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶように」と続く、イエスが十字架に向かっていくときの言葉で、そしてイエスが十字架にかけられて死ぬことで初めて豊かな実を結ぶという意味だということ。イエスが死によって多くの人々を救い生かすことになるという、キリストの十字架の結末。
それが転じて、ひとりの人が多くの人を救うための自己犠牲を行うとか、研究分野などで熱心に研究して生涯をささげたことが、たとえ生前は理解されなくても、ずっと後にそのことが人々に多大な影響を与えることに使われるように。
3-9、求めよ、さらば与えられん
マタイによる福音書第7章第7節
「求めよ、そうすれば、与えられるだろう。捜せ、そうすれば、見いだすだろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるだろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからです。あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があるでしょうか。魚を求めるのに、へびを与える者があるでしょうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあるでしょうか。」と続き、神に心から祈り求めると、神は正しい信仰を与えてくださるという意味だということ。
そして物事を成就しようと思えば与えられるのを待つのではなく、自分から進んで求める姿勢が大事で、努力すれば何でもできるという意味でつかわれるように。
3-10、始めに言葉ありき
ヨハネの黙示録第1章第1節
旧約聖書の創世記の天地創造と同じく、神の言葉が最初にありすべてのものが神に作られたという意味だそう。
3-11、神はあなたがたを耐えられない試練に合わせることはしない
コリント人への第一の手紙第10章第13節
「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます」これはアメリカのジョン・F・ケネディー大統領の母ローズ・ケネディーのコメントとして聞いたことがありますが、人生の困難な時期にあたって必要な聖句かも。
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