
3-2、人はパンのみにて生くるにあらず
マタイの福音書第4章第4節
洗礼を受けたあとに、イエスが荒れ野で修行していたとき、サタンが現れ、空腹なら石をパンに変えればよい、と言うと、「イエスは答えて言われた。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による』と書いてあると」いうことで、人間が生きるのは、物質的なものだけによるのではなく、神の御言葉に養われて、初めて本当の意味で生きることができるという意味だということ。
3-3、だれかがあなたの右の頬を打ったら、左をも向けよ
カール・ハインリッヒ・ブロッホ – http://4.bp.blogspot.com/_Ycv0BE0wFr4/TU8WRXJmxYI/AAAAAAAAAgI/2QjVrd4bEHo/s1600/Sermon_on_the_Mount_Carl_Bloch.jpg および Carl Bloch, p. 313, ISBN 9788798746591, パブリック・ドメイン, リンクによる
マタイの福音書第5章第39節
イエスが12人の弟子と一行に従う人を山に集めてユダヤの律法の解釈を説明した、山上の説教または山上の垂訓という有名な場面で用いられたもので、「敵を愛せよ、自分を迫害するもののために祈れ、人を裁いてはならない、自分が神に裁かれないため」と続きます。
3-4、狭き門より入れ
マタイの福音書第7章第13節と14節
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか、それを見いだす者は少ない」ジイドの小説「狭き門」の表題にもなり、競争率の高い大学や会社という使い方もされ、困難な道をあえて選んでがんばると成功するという意味でも使われるが、当時迫害されていたキリスト教の信仰を選ぶと救われるという意味だそう。
3-5、神聖なものを犬にやるな。真珠を豚に投げてやるな
マタイの福音書第7節第6節
「豚はそれを足で踏みつけ、あなたたちをかみ裂くかもしれない」と続く、「豚に真珠」のもととなった言葉で、「値打ちがわからない者には、どんなに高価で価値のあるものを与えても意味がない」という意味で使用。
聖書では真珠は、古代から高価な宝石として扱われ、神の御国を表すのに用いられていること、そして犬や豚は、モーセの律法下では汚れた動物とされていたため、マイナスなイメージのたとえに使われることが多く、犬や豚が人間を表すのに用いられたときは、神の義の道を捨てて、道徳的に汚れた状態にある人間という意味だそう。
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