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3-4 ジェームズの敗北
さて、娘夫婦に敗れることになったジェームズ2世のその後はどうなったのでしょうか。彼はフランスへ亡命することに。この時既に55歳。イングランド王として復位を目指し返り咲こうと戦うも、敗北を喫することに。その後はルイ14世の計らいによって、フランスのサン=ジェルマン=アン=レー=城に住むことになりました。結局何度か甥のウィレムを暗殺しようと試みますが、67歳でこの世を去ることに。
3-5 イギリスのその後
作者不明 – Scanned from the book The National Portrait Gallery History of the Kings and Queens of England by David Williamson, ISBN 1855142287., パブリック・ドメイン, リンクによる
イギリスはその後どうなったのでしょうか。メアリー2世が亡くなり、ウィリアム3世も1702年に没すると、メアリー2世の妹のアンが即位することに。しかし彼女は世継ぎを産まなければならないというプレッシャーに押しつぶされることに。彼女は生涯で17、18回とも言われる妊娠(想像妊娠もあったと言われます)を繰り返しますが、なかなか子どもに恵まれませんでした。こうしてアン女王は後継者を残さず1714年に死去。1701年に王位継承法によって、彼女の後継者はプロテスタントでありステュアート家の血を引く者とされました。この条件に合ったのは、ドイツのハノーファー選帝侯に嫁いだ遠縁にあたるゾフィー。ゾフィー自身はアン女王よりも2か月前に死去したため、彼女の息子、ゲオルクがジョージ1世としてハノーヴァー朝を開くことになりました。
在位期間わずか3年のイングランド国王、ジェームズ2世
カトリック教徒を公言していたジェームズ2世は兄チャールズ2世に後継者がいなかったため、1685年にウェストミンスターで戴冠。彼の治世はわずか3年でした。
ジェームズは議会を解散し、その後は一度も召集することなく、専制政治を行うことに。更にジェームズは2人目の妃との間に生まれた息子を洗礼させます。この動きに次の国王もカトリックとなることを警戒した議会はオランダへ嫁いだメアリーとその夫ウィレムをイギリスへ招くことを決定。こうして名誉革命が起き、イギリスは2人の共同統治となることに。その後のジェームズは再びイギリス国王へなろうとしますが、67歳でフランスで没しました。