今回は17世紀のイギリスに君臨したジェームズ2世についてです。イギリスはテューダー朝のヘンリー8世の時代にカトリック国からプロテスタントへ国教を変えた国だったが、ジェームズの兄チャールズ2世が死去した際にカトリック教徒のジェームズがイギリス王となり、イギリスを再びカトリック国へと転換する危機を招いた人物です。今回はイギリス王室に詳しいまぁこと一緒にジェームズ2世の生涯を詳しく解説していきます。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史に詳しいアラサー歴女。特にヨーロッパの王室に関する書籍を愛読中!今回はイギリス王ジェームズ2世の家族や彼の生涯、名誉革命について解説していく。

 

1 ジェームズ2世とは?

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ジェームズ2世は、17世紀のイギリス国王(正確にはイングランド国王)です。イギリスはプロテスタント国でしたが、兄チャールズ2世に子がいなかったため、カトリック教徒の弟ジェームズが即位することに。ジェームズ2世の家族は有名な人物が多く、ここではロイヤルファミリーについて解説していきます。

1-1 波乱の幼少期だったジェームズ

ジェームズ2世は1633年にイギリスのセント・ジェームズ宮殿で生まれました。彼は母ヘンリエッタの影響からカトリック教徒となることに。ちなみに兄のチャールズ2世も実はカトリック教徒だったのではないかと言われています。ジェームズが7歳の時に、イギリスではピューリタン革命が勃発。国王一家はオックスフォードへ逃れますが、1646年にオックスフォードが陥落。ジェームズはセント・ジェームズ宮殿に幽閉されることになりました。幽閉から2年後に女装して脱出し、オランダへ亡命。翌年には父チャールズ1世が処刑されることに。こうしてジェームズら一家は母ヘンリエッタの故郷フランスへ亡命することに。

1-2 祖父はブルボン朝の始祖

チャールズ2世、ジェームズ2世の母はフランス王女ヘンリエッタ・マリア。そして彼女の父はフランスのブルボン朝を開いたアンリ4世です。アンリ4世と言えば、16世紀に起こったフランスのユグノー戦争でプロテスタントの党首をし、その後の3アンリの戦いを制した人物として有名ですよね。ブルボン朝を開いた後に、国内の安定を図り、自身の宗教をカトリックへと改宗し、ナントの勅令(王令)を出したことでも知られていますね。

1-3 父はピューリタン革命で処刑されたチャールズ1世

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アンソニー・ヴァン・ダイク - http://www.louvre.fr/en/oeuvre-notices/charles-i-hunt?sous_dept=1, パブリック・ドメイン, リンクによる

母方の祖父はフランス国王というジェームズ2世。そして彼の父はイギリスにおいて処刑されることになったチャールズ1世。彼はピューリタン革命によって捕らえられ、処刑されることに。その後に権力を握ったオリバー・クロムウェル護国卿となりますが、彼の死後は王政復古により兄のチャールズ2世がイギリス国王となることに。

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2 ジェームズ2世の即位

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ゴドフリー・ネラー - http://www.parliament.uk/actofunion/01_02_dynasties.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

イングランド国王チャールズ1世とフランス王女ヘンリエッタの間に生まれたジェームズ。彼をはじめ一家は幼少期にピューリタン革命によってイングランドを去ることになりました。ピューリタン革命の間はどのように過ごしていたのでしょうか。ここではピューリタン革命後からジェームズ2世として即位するまでを解説していきます。

2-1 フランス亡命後のジェームズと共和制のイギリス

フランスへ亡命した後、一家は各地を転々とすることに。兄チャールズとジェームズは軍人となって生計を立てていたそう。ジェームズはフランスのティレンヌ将軍の元で、フロンドの乱で反乱軍と交戦。また1656年にはスペイン軍の指揮官コンデ公ルイ2世の元で各地を周りながら1658年の砂丘の戦いではフランス軍と刃を交えることに。この時ティレンヌ将軍、コンデ公から軍人としての才能を認められることに。

一方のイギリスではチャールズ1世の処刑後に共和制が成立。ピューリタン革命は下級階級と共に起こした市民革命でしたが、クロムウェルは次第に下級階級を弾圧していくことに。彼は水平派と呼ばれる下級階級の人々を危険視し、次々に処刑。一方で中流階級の経済力を目当てに中流階級を擁護していくように。クロムウェルの死後は、中流階級は上流階級と連携を深めるようになりました。上流階級は王制を支持し、中流は議会政治を支持していたため、この折衷案として立憲君主制が取られるように。こうしてイギリスは王政復古が実現したのです。

2-2 兄は王政復古した国王

クロムウェルの死後に議会が王政復古を承認したことで、チャールズ2世は亡命先からイギリスへ帰国しました。彼は祖父アンリ4世のように多くの愛妾を持ち、15人の庶子をもうけました。ちなみにその中に故ダイアナ妃の先祖もいたそう。

チャールズの治世では、クロムウェルの時代に禁じられていた芝居小屋などの娯楽が復活。更にポルトガル王女との結婚により、多くの持参金や紅茶、更にはインドのボンベイ(現在のムンバイ)を手にすることに。更に海外貿易も好調に進んでいき、国家が繁栄していきました。

2-3 ジェームズの即位に暗雲が…

多くの愛妾や庶子がいたチャールズでしたが、肝心の正式な後継者には恵まれることはありませんでした。そのため、王位継承はジェームズの元へ。ところがここに問題が。ジェームズはプロテスタントではなく、自身はカトリックであることを公言していたのです。先のピューリタン革命のように宗教問題が再燃することになりかねなかったため、議会は難しい選択を迫られることに。この時議会ではジェームズを認めたトーリ党、反対に認めなかったホイッグ党の2党派が誕生しました。結局ジェームズの王位継承剥奪法も提出されましたが、これは否決。こうしてジェームズの即位が認められました。

2-4 ジェームズの政策

兄のチャールズ2世は次第に議会と対立していくことになりましたが、弟のジェームズは更に強硬な姿勢を見せることに。ジェームズが即位するにあたって、チャールズ2世の庶子モンマスが反乱を起こします。これに対し、ジェームズは常備軍を設置しようとしますが、議会の反対にあうことに。この時は常備軍の設置を諦めたジェームズでしたが、代わりに議会を解散させることに。その後彼は議会を開くことはありませんでした。ちなみにモンマスの反乱によってモンマスは捕らえられ、ロンドン塔で処刑されることに。

そしてジェームズは親カトリック政策を進めました。しかしこれは、プロテスタントたちから反発され、優遇されたカトリック教徒らもジェームズの死後に不利な立場に立たされることを恐れたため手放しには喜べない状況になることに。こうしてジェームズの国内人気は低下していくことに。

\次のページで「2-5 危機感を強める議会」を解説!/

2-5 危機感を強める議会

1688年には2人目の妃との間に息子が誕生しました。ジェームズは息子ジェームズ・フランシス・エドワードをカトリックとして洗礼させました。これに対し、議会は次の国王もカトリックとなることを警戒します。そしてオランダへ嫁いだジェームズの長女メアリー、彼女の夫ウィレムと密に連絡を取りました。

3 名誉革命勃発

ジェームズの親カトリック政策、専制政治の姿勢が強まるにつれ警戒していく議会。更に1688年にジェームズは息子をカトリックの洗礼を受けさせたことで、議会から次の国王もカトリック教徒となるのではないかと危惧されます。ジェームズのこれらの動きから議会はオランダへ嫁いだジェームズの長女メアリー夫妻をイングランドへ迎えようと画策することに。それではその経過を解説していきます。

3-1 議会は娘メアリ夫妻を招く

1662 Mary II.jpg
ピーター・レリー - http://www.royaltyguide.nl/images-families/stuart/1662%20Mary-10.jpg originally uploaded on de.wikipedia by Thyra (トーク · 投稿記録) at 2007年12月13日, 12:37. Filename was 1662 Mary II.jpg., パブリック・ドメイン, リンクによる

ジェームズ2世の政策などから危機感を抱いた議会はオランダへ嫁いだ長女メアリーとその夫のウィレムを国王として招くことに。ジェームズ2世の娘、メアリーとアンは父とは違ってプロテスタントを信仰。議会にとってプロテスタントであり、カトリック国フランスのルイ14世と戦うオランダのウィレムを王位に就けることはとても好ましく感じていました。一方のウィレムもイギリスを味方につけたいとの考え。こうして双方の利害が一致したことで、2人はイギリスへ向かうことに。

3-2 名誉革命

1688年の6月。議会は正式にウィレム夫妻をオランダから招くことを決定。そのわずか3ヵ月後にウィレムは5万の兵を伴ってイギリスへ向かいます。これに対してフランスのルイ14世はジェームズを助けるため援軍しようとしますが、なんとこれをジェームズは拒否。自前の兵でなんとかできるとおごっていたためでした。しかし次々に貴族や家臣らはジェームズを裏切り、なす術が無くなったジェームズが亡命。こうしてこの一連の革命は一滴の血が流れることなく革命が起こったため、名誉革命と呼ばれることに。

3-3 権利の章典

1688年の名誉革命によってジェームズ2世は追放。そしてオランダからステュアート家の血を引くメアリーとウィレムが招かれることになりました。2人は共同統治という形でイギリスを統治することに。(メアリーはメアリー2世、ウィレムはウィリアム3世として即位します)統治するにあたり、議会は権利の章典を制定。これはこれまで国王が外交交渉権、徴税権(関税など)、行政執行権の権利を持っていましたが、それを取り上げるもの。この権利の章典により、イギリスでは立憲君主制が確立していくことに。

\次のページで「3-4 ジェームズの敗北」を解説!/

3-4 ジェームズの敗北

さて、娘夫婦に敗れることになったジェームズ2世のその後はどうなったのでしょうか。彼はフランスへ亡命することに。この時既に55歳。イングランド王として復位を目指し返り咲こうと戦うも、敗北を喫することに。その後はルイ14世の計らいによって、フランスのサン=ジェルマン=アン=レー=城に住むことになりました。結局何度か甥のウィレムを暗殺しようと試みますが、67歳でこの世を去ることに。

3-5 イギリスのその後

Queen Anne and William, Duke of Gloucester by studio of Sir Godfrey Kneller.jpg
作者不明 - Scanned from the book The National Portrait Gallery History of the Kings and Queens of England by David Williamson, ISBN 1855142287., パブリック・ドメイン, リンクによる

イギリスはその後どうなったのでしょうか。メアリー2世が亡くなり、ウィリアム3世も1702年に没すると、メアリー2世の妹のアンが即位することに。しかし彼女は世継ぎを産まなければならないというプレッシャーに押しつぶされることに。彼女は生涯で17、18回とも言われる妊娠(想像妊娠もあったと言われます)を繰り返しますが、なかなか子どもに恵まれませんでした。こうしてアン女王は後継者を残さず1714年に死去。1701年に王位継承法によって、彼女の後継者はプロテスタントでありステュアート家の血を引く者とされました。この条件に合ったのは、ドイツのハノーファー選帝侯に嫁いだ遠縁にあたるゾフィー。ゾフィー自身はアン女王よりも2か月前に死去したため、彼女の息子、ゲオルクがジョージ1世としてハノーヴァー朝を開くことになりました

在位期間わずか3年のイングランド国王、ジェームズ2世

カトリック教徒を公言していたジェームズ2世は兄チャールズ2世に後継者がいなかったため、1685年にウェストミンスターで戴冠。彼の治世はわずか3年でした。

ジェームズは議会を解散し、その後は一度も召集することなく、専制政治を行うことに。更にジェームズは2人目の妃との間に生まれた息子を洗礼させます。この動きに次の国王もカトリックとなることを警戒した議会はオランダへ嫁いだメアリーとその夫ウィレムをイギリスへ招くことを決定。こうして名誉革命が起き、イギリスは2人の共同統治となることに。その後のジェームズは再びイギリス国王へなろうとしますが、67歳でフランスで没しました。

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名誉革命で倒れたイギリス最後のカトリック王「ジェームズ2世」の生涯について歴女がわかりやすく解説!

2-5 危機感を強める議会

1688年には2人目の妃との間に息子が誕生しました。ジェームズは息子ジェームズ・フランシス・エドワードをカトリックとして洗礼させました。これに対し、議会は次の国王もカトリックとなることを警戒します。そしてオランダへ嫁いだジェームズの長女メアリー、彼女の夫ウィレムと密に連絡を取りました。

3 名誉革命勃発

ジェームズの親カトリック政策、専制政治の姿勢が強まるにつれ警戒していく議会。更に1688年にジェームズは息子をカトリックの洗礼を受けさせたことで、議会から次の国王もカトリック教徒となるのではないかと危惧されます。ジェームズのこれらの動きから議会はオランダへ嫁いだジェームズの長女メアリー夫妻をイングランドへ迎えようと画策することに。それではその経過を解説していきます。

3-1 議会は娘メアリ夫妻を招く

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ピーター・レリーhttp://www.royaltyguide.nl/images-families/stuart/1662%20Mary-10.jpg originally uploaded on de.wikipedia by Thyra (トーク · 投稿記録) at 2007年12月13日, 12:37. Filename was 1662 Mary II.jpg., パブリック・ドメイン, リンクによる

ジェームズ2世の政策などから危機感を抱いた議会はオランダへ嫁いだ長女メアリーとその夫のウィレムを国王として招くことに。ジェームズ2世の娘、メアリーとアンは父とは違ってプロテスタントを信仰。議会にとってプロテスタントであり、カトリック国フランスのルイ14世と戦うオランダのウィレムを王位に就けることはとても好ましく感じていました。一方のウィレムもイギリスを味方につけたいとの考え。こうして双方の利害が一致したことで、2人はイギリスへ向かうことに。

3-2 名誉革命

1688年の6月。議会は正式にウィレム夫妻をオランダから招くことを決定。そのわずか3ヵ月後にウィレムは5万の兵を伴ってイギリスへ向かいます。これに対してフランスのルイ14世はジェームズを助けるため援軍しようとしますが、なんとこれをジェームズは拒否。自前の兵でなんとかできるとおごっていたためでした。しかし次々に貴族や家臣らはジェームズを裏切り、なす術が無くなったジェームズが亡命。こうしてこの一連の革命は一滴の血が流れることなく革命が起こったため、名誉革命と呼ばれることに。

3-3 権利の章典

1688年の名誉革命によってジェームズ2世は追放。そしてオランダからステュアート家の血を引くメアリーとウィレムが招かれることになりました。2人は共同統治という形でイギリスを統治することに。(メアリーはメアリー2世、ウィレムはウィリアム3世として即位します)統治するにあたり、議会は権利の章典を制定。これはこれまで国王が外交交渉権、徴税権(関税など)、行政執行権の権利を持っていましたが、それを取り上げるもの。この権利の章典により、イギリスでは立憲君主制が確立していくことに。

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