今回はパックス・ブリタニカについてです。パックス・ブリタニカとは、19世紀のイギリスが産業革命によって圧倒的な工業力と海軍力をもって諸外国よりも優位な立場を築いたことで比較的平和な時代だったんです。

そこでパックス・ブリタニカとなった経緯を辿りつつ、この時代のイギリスの様子をヨーロッパ史に詳しい歴女のまぁこと一緒に解説していきます。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー歴女。特にヨーロッパの王室に関する書籍を愛読中。今回はイギリスの平和とされた、パックス・ブリタニカについての解説をヴィクトリア女王が君臨した当時の様子に触れながら解説していく。

1 パックス・ブリタニカとは?

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パックス・ブリタニカとは、ラテン語でイギリスの平和という意味。古代ローマのパックス・ロマーナになぞって呼ばれました。これはイギリスが圧倒的な工業力と海軍力を備えていたため、他の諸国を圧倒し国際社会で優位な立場にいたことを指します。ちなみにパックス・ブリタニカの期間は、女王の統治した期間(1837~1901)や1850~1870年の20年間、ナポレオン戦争後(1815年)から第一次世界大戦(1914年)という見方も。今回はヴィクトリア女王が君臨した時期のイギリスの様子を解説しながらイギリスがどのようにパックス・ブリタニカに向かっていったのか解説していきます。

1-1 産業革命が起こったイギリス

1760年頃からイギリスは産業革命を経験することになりました。最初にマンチェスターで綿工業が発達することに。また機械産業石灰業鉄工業なども発展していきました。

この産業革命の結果、イギリスは安くて良質な工業製品を世界各国へ販売していきます。ここからイギリスは世界の工場と呼ばれるように。こうして産業革命によって工業力を身に着けたイギリスはパックス・ブリタニカを迎えます。また産業革命により、大規模な機械工場が出現したことで工場を経営する資本家の地位が向上。さらに労働者も生活様式が様変わりしました。ロンドンやバーミンガムなどの都市には人口が集中し、1851年のロンドンだと236万人超の人々が住んでいたそう。(1750年の頃には67.5万人でした。)

1-2 イギリスの自由貿易

産業革命が達成されると、次に資本主義社会が形成されました。これによってイギリスは新たな原料の調達地や市場を求めて植民地を拡大していくことに。植民地では、原料をイギリスへ供給してイギリスで作られた工業製品をそこで販売するという構図になりました。これは原料を作る為に現地の人々の労働を搾取し、更にイギリスの工業製品の市場となったことで2重の搾取という見方ができました。

2 アヘン戦争

自由貿易を進めていたイギリス。イギリスは更に利益を求めて、アヘン戦争を引き起こして清国を半植民地化することに成功しました。ここではその経緯について見ていきましょう。

2-1 赤字貿易となったイギリス

19世紀に入ると、産業革命によって経済力、軍事力をつけたヨーロッパの国々が中国への進出を目論むことに。特にイギリスは18世紀から清との貿易を独占して利益を上げていました。ところがイギリス国内でお茶の需要が高まり、輸出よりも輸入が増加していくことに。イギリスは支払いに銀を使っていたため、銀の流出が深刻となりました。

この問題を解決するためにイギリスは、三角貿易を行うことに。それはイギリスで作った綿製品をインドへ、インドで作ったアヘンを清へ送り清からお茶を購入するものでした。イギリスの思惑通り、清との貿易赤字は解消され黒字化されることに。しかし清ではアヘンが蔓延し、事態を重く見た同光帝はアヘン厳禁論を唱えた林則徐に対応を取らせることに。

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2-2 アヘン戦争勃発!

Destroying Chinese war junks, by E. Duncan (1843).jpg
Edward Duncan - http://ocw.mit.edu/ans7870/21f/21f.027/opium_wars_01/ow1_gallery/pages/1841_0792_nemesis_jm_nmm.htm, パブリック・ドメイン, リンクによる

欽差(きんさ)大臣に任命された林則徐は早速対応に乗り出します。彼はすぐにアヘンを没収し、焼却処分することに。更にイギリスに対し、アヘンを輸出することを止めなければ貿易には応じないという毅然とした対応を取ります。

これに対し、イギリスは自由貿易の実現を掲げて戦争を起こすことに。これが1840年に起こったアヘン戦争です。当時のイギリス議会の野党はこの戦争に反対しますが、時のメルバーン内閣が決定を下すことに。なんとこの決定に対し、ヴィクトリアも承認していたそう。こうしてイギリスが清に差し向けたのは、軍艦と輸送艦合わせて43隻、更にインドからも武装蒸気船4隻、インド傭兵4000人にも及びました。これに対し清は木造のジャンク船で対抗。ところが強大な海軍力を備えたイギリスに全く歯が立たず完敗。こうして南京条約を結ぶことに。イギリスは更にフランスと共にアロー戦争を引き起こし、天津条約を結ばせます。こうして不平等条約を結びイギリスは清を半植民地化していくことに。

2-3 1世紀前よりも世界に広がった領土

イギリスは次々に植民地を拡大させていきました。19世紀に入ると、イギリスの植民地は、アジアではビルマ、マレーシア、清の香港など。他の地域ではオーストラリアやニュージーランド、ナイジェリア、南アフリカなどを支配することに。(インドは1877年に直接統治されることになり、ヴィクトリアが皇帝となりました。)

こうしてヴィクトリア朝時代のイギリスでは、地球の25%を植民地化することに成功。更に当時の世界の人口の25%に当たる4億人をイギリスが支配することになったのです。もちろんイギリスの支配に対して、各地では反乱など抵抗する動きが。しかしイギリス王が女王であったため、植民地の人々の心理的な抵抗は抑えられたのです。ヴィクトリアは植民地の現地の人々を文明化することがイギリスの使命と考え、「帝国の母」として教育活動の慈善活動を支援。ちなみにインドのガンジーもヴィクトリアを敬愛していたそう。

3 ヴィクトリア女王の即位

さて、アヘン戦争が勃発する少し前にイギリスではウィリアム4世が崩御。これによって18歳のヴィクトリアが即位することに。彼女は64年間という長きに渡ってイギリスに君臨しました。そんなヴィクトリアは一体どんな人物だったのでしょうか。それでは見ていきましょう。

3-1 18歳の若き女王

イギリスでは女王の時代には繁栄するというジンクスがあります。これに当てはまるのが、テューダー朝時代のエリザベス1世、そしてハノーヴァー朝のヴィクトリア女王が挙げられますね。

さて、ヴィクトリアが即位したのは18歳の頃。彼女は実務能力があり、書類仕事を厭わない真面目な性格でした。1839年にいとこにあたるアルバートと結婚。ヴィクトリアがアルバートに一目ぼれし、プロポーズしたというエピソードが残されています。ちなみにこの2人の結婚式でヴィクトリアがシルクサテンの真っ白なドレスを着たことから、花嫁衣裳の定番となることに。

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3-2 ヴィンター・ハルターによる「1846年の女王ご一家」絵画

Franz Xaver Winterhalter Family of Queen Victoria.jpg
フランツ・ヴィンターハルター - Royal Collection RCIN 405413, 投稿者自身による作品, user:Rlbberlin, パブリック・ドメイン, リンクによる

ヴィンターハルターによるヴィクトリア女王一家の絵画。ヴィンターハルターと言えば、画面に登場する人物を美しく仕上げることに定評があり、多くの王族や貴族らから引っ張りだことなった画家。彼はエリザベート皇后を描いたことでも有名ですよね。余談ですが、この当時のヴィクトリアは既に肥満に悩まされていたそうで、この絵画も美化されています。

ヴィクトリア朝の肖像画は、くつろいだ雰囲気が特徴。画面の真ん中にはヴィクトリアと夫のアルバートが、この2人の周りには子どもたちが描かれています。このような家族が団らんし、仲睦まじい様子がイギリスでは好意的に取られていました。

3-3 アルバート公のプロデュースによる万博

Crystal Palace - Queen Victoria opens the Great Exhibition.jpg
Louis Haghe - Artfinder.com, パブリック・ドメイン, リンクによる

1851年に世界で初となる万博博覧会がロンドンで開催されることに。アルバート公は学問や芸術に関心があったことから、万博をプロデュースし大きな成功を収めることに。5か月間の間に来場者数は延べ600万人だったとも言われています。ここまで多くの来場者が訪れたのは、国内だと印刷技術の発達で宣伝のチラシを大量に印刷できたこと、交通革命により鉄道などの交通網の発達のお陰でした。更に海外からの来場者については定期蒸気船の航路が張り巡らされたため。

この万博の目玉となったのが、ロンドンのハイドパークに建設されたクリスタルパレスと呼ばれた水晶宮です。ここで展示されたものは、美術品、機械や土木などの機械部門、化学薬品や鉱物などの化学部門など。

3-4 最愛の夫の死

9人の子宝に恵まれ、愛する夫との生活を過ごしていたヴィクトリアに突然悲劇が襲いました。ずっとヴィクトリア女王を献身的に支えてきたアルバート公が病に倒れたのが1861年。腸チフスでした。精神的にかなり依存していた女王は、当時の日記や手紙にアルバートを失った悲しみを綴っていたそう。アルバート公の葬儀が終わっても、ヴィクトリアはずっと黒い喪服を身に着けていました。こうして女王として公務を避け続けた彼女でしたが、1871年に復帰。そして1901年に崩御するまで女王として君臨することに。

4 ヴィクトリア朝時代の光と影

パックス・ブリタニカと呼ばれる空前の繁栄時代を築いたヴィクトリア朝。この繁栄は一般庶民にも恩恵がありましたが、多くの問題も潜んでいました。ここでは当時のイギリスで起こった変化や問題について解説していきます。

4-1 イギリス人とドリンクの歴史

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さてイギリスと言えば、紅茶を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。しかし1850年代のイギリスでは、コーヒーも日常的に飲まれていたそう。コーヒーは1820年代に関税が引き下げられたことにより一般的なものになりました。40年代のロンドンだと、コーヒーハウスは3000軒、コーヒー・ストールと呼ばれる屋台も300軒もあったそう。

ところが1880年代になると、コーヒーは低迷します。当時のイギリスはジャマイカやコスタリカ、ブラジル、セイロン島などから輸入していましたが、コーヒーの価格が高騰することに。更にセイロン島では害虫被害からコーヒー豆から紅茶栽培へ切り替えられました。2つ目は、コーヒーにチコリの根などを混ぜて提供されていたことが原因に。1853年にコーヒーに混ぜ物をすることが合法となり、質の悪いコーヒーが出回りました。こうしてコーヒーの消費が低迷するにつれ、価格が安くなった紅茶が一般的となるように。

\次のページで「4-2 都市の汚染と労働問題」を解説!/

4-2 都市の汚染と労働問題

世界の工場と謳われるようになったイギリスでしたが、一方で問題もありました。産業革命時のロンドンでは大気汚染が深刻な問題に。かつては霧の街として知られたロンドンでしたが、この時代のロンドンはスモッグが発生。更に馬車が走っていたため、地べたは馬糞などの汚泥がすごかったそう。スラム街に至っては、そこで暮らす人々は顔や手を洗うことさえ厭う状況で、衛生環境は最悪でした。

また資本家が富をより多く得ようとしたため、工場労働者は低賃金で長時間労働に従事させられるケースが多発。更に炭鉱では幼い子どもが過酷な労働を強いられ、命を落としたり心身の健康を損なうように。このような問題から、1833年に工場法により少しずつ労働環境が改善されていきました。

4-3 選挙法が改正されることに

政治面では、1867年に第2回選挙法改正が行われました。この時は都市の労働者にも選挙権が与えられることに。続いて第3回の改正では農業や鉱山の労働者にも権利が拡大されたことで普通選挙のような形となりました。選挙資格が広がったことで、産業革命で豊かになった中流階級の人々の政治的発言が強まりました。もちろん、資本家の発言もまたしかり。ところが女性には参政権は与えられることはなかったそう。

4-4 当時の過酷な状況に置かれた女性たち

19世紀のイギリスでは女性の働き口が少なく、あっても薄給でした。そのため1日でも休めばすぐに困窮してしまう状況に。そのためお金を稼ぐために娼婦とならざる女性が多かったのです。ちなみに当時の法律では12歳から娼婦となれたそう。仮に妊娠してしまえば、生活の困窮を意味しました。しかも堕胎は罪とされていたことから、八方ふさがりの状況に。こうして追い詰められた女性たちはテムズ川のウォータールー橋から身を投げたのでした。ちなみにこのウォータールー橋は、先のナポレオン戦争の戦勝記念(ワーテルローの戦いから取ったもの)として名付けられたもの。当時のイギリス人にとってこの橋が戦勝記念というイメージよりも娼婦のイメージの方が強かったそうですが。

4-5 切り裂きジャック

更にイギリス中を震撼させた切り裂きジャック事件が1888年に発生しました。ロンドンの貧民街イーストエンドでわずか3ヵ月の間に5人もの娼婦が惨殺されることに。過去にも猟奇的な殺人はありましたが、当時のロンドンでの識字率の向上から多くの民衆の知ることになりました。更にショッキングなことは、当時の新聞には娼婦の死体が掲載されていたそう。娼婦は最貧困層という位置づけであり、彼女たちに人権はなかったことが明らかですね。

そして切り裂きジャックの犯人としての有力者には、ヴィクトリア女王の孫、クラレンス公や宮廷侍医ガル、他にも医師や弁護士、シッカート(画家)など中流から上流階級の人々の名が挙がることに。残念ながら犯人は結局捕まることなく、現在も謎に包まれています。

4-6 次第に失われる優位

パックス・ブリタニカと呼ばれたイギリスの繁栄の時代でしたが、19世紀末になると次第に陰りが。新興国のドイツやアメリカが工業力でイギリスに迫る勢いとなりました。特にアメリカに対しては世界での工業力1の座を明け渡す結果となることに。しかしイギリスは世界の工場から世界の銀行として牽引していくことになりました。

またドイツ帝国はヴィルヘルム2世が新航路政策によってイギリスとの利害関係が対立することになると、1904年に敵対関係だったフランスと英仏協商を結びドイツに対抗。またロシアの南下政策に対抗するため、日本と1902年に日英同盟を結びました。こうしてイギリスは長らく行ってきた栄光ある孤立政策を終わらせることに。

貧しい人々、多くの植民地の支配から得た「空前の繁栄」

19世紀のイギリスはヴィクトリア朝時代にパックス・ブリタニカと呼ばれる空前の繁栄を手にしました。これはイギリスで起こった産業革命によって工業力、強力な海軍力のお陰によるもの。

更に世界の各植民地から次々にお茶、砂糖、コーヒーなど多くの異国の品や富がイギリスに流入していきました。しかしその富はイギリス国民に平等に分配されることなく、富める者の隣で毎日の生活に喘ぐ貧民が大勢おり、不平等な社会に。もちろん、植民地にした現地の人々からの搾取によって成り立つ繁栄でもありました。19世紀のイギリスは、繁栄によって豊かさを手にしましたが、手放しには喜べない背景があることを知ることはとても大切ですね。

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イギリスヨーロッパの歴史世界史歴史

19世紀のイギリスで起こった「パックス・ブリタニカ」とは?その経緯について歴女がわかりやすく解説!

今回はパックス・ブリタニカについてです。パックス・ブリタニカとは、19世紀のイギリスが産業革命によって圧倒的な工業力と海軍力をもって諸外国よりも優位な立場を築いたことで比較的平和な時代だったんです。

そこでパックス・ブリタニカとなった経緯を辿りつつ、この時代のイギリスの様子をヨーロッパ史に詳しい歴女のまぁこと一緒に解説していきます。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー歴女。特にヨーロッパの王室に関する書籍を愛読中。今回はイギリスの平和とされた、パックス・ブリタニカについての解説をヴィクトリア女王が君臨した当時の様子に触れながら解説していく。

1 パックス・ブリタニカとは?

image by iStockphoto

パックス・ブリタニカとは、ラテン語でイギリスの平和という意味。古代ローマのパックス・ロマーナになぞって呼ばれました。これはイギリスが圧倒的な工業力と海軍力を備えていたため、他の諸国を圧倒し国際社会で優位な立場にいたことを指します。ちなみにパックス・ブリタニカの期間は、女王の統治した期間(1837~1901)や1850~1870年の20年間、ナポレオン戦争後(1815年)から第一次世界大戦(1914年)という見方も。今回はヴィクトリア女王が君臨した時期のイギリスの様子を解説しながらイギリスがどのようにパックス・ブリタニカに向かっていったのか解説していきます。

1-1 産業革命が起こったイギリス

1760年頃からイギリスは産業革命を経験することになりました。最初にマンチェスターで綿工業が発達することに。また機械産業石灰業鉄工業なども発展していきました。

この産業革命の結果、イギリスは安くて良質な工業製品を世界各国へ販売していきます。ここからイギリスは世界の工場と呼ばれるように。こうして産業革命によって工業力を身に着けたイギリスはパックス・ブリタニカを迎えます。また産業革命により、大規模な機械工場が出現したことで工場を経営する資本家の地位が向上。さらに労働者も生活様式が様変わりしました。ロンドンやバーミンガムなどの都市には人口が集中し、1851年のロンドンだと236万人超の人々が住んでいたそう。(1750年の頃には67.5万人でした。)

1-2 イギリスの自由貿易

産業革命が達成されると、次に資本主義社会が形成されました。これによってイギリスは新たな原料の調達地や市場を求めて植民地を拡大していくことに。植民地では、原料をイギリスへ供給してイギリスで作られた工業製品をそこで販売するという構図になりました。これは原料を作る為に現地の人々の労働を搾取し、更にイギリスの工業製品の市場となったことで2重の搾取という見方ができました。

2 アヘン戦争

自由貿易を進めていたイギリス。イギリスは更に利益を求めて、アヘン戦争を引き起こして清国を半植民地化することに成功しました。ここではその経緯について見ていきましょう。

2-1 赤字貿易となったイギリス

19世紀に入ると、産業革命によって経済力、軍事力をつけたヨーロッパの国々が中国への進出を目論むことに。特にイギリスは18世紀から清との貿易を独占して利益を上げていました。ところがイギリス国内でお茶の需要が高まり、輸出よりも輸入が増加していくことに。イギリスは支払いに銀を使っていたため、銀の流出が深刻となりました。

この問題を解決するためにイギリスは、三角貿易を行うことに。それはイギリスで作った綿製品をインドへ、インドで作ったアヘンを清へ送り清からお茶を購入するものでした。イギリスの思惑通り、清との貿易赤字は解消され黒字化されることに。しかし清ではアヘンが蔓延し、事態を重く見た同光帝はアヘン厳禁論を唱えた林則徐に対応を取らせることに。

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