
叔父を討った蘇我蝦夷
蘇我蝦夷が次期天皇に推薦したのは田村皇子、境部摩理勢が次期天皇に推薦したのは山背大兄王。ここで蘇我蝦夷が田村皇子を推薦した理由は2つあり、1つは田村皇子が蘇我氏の息のかかった人物であること、もう1つは聖徳太子の子である山背大兄王は人気が高かったことです。
山背大兄王が天皇に即位すれば聖徳太子の影響で人気が出るのは明白、さらには蘇我氏の息がかかっていないため、山背大兄王の即位は蘇我氏の衰退につながってしまうでしょう。その点からも、蘇我蝦夷がいかに野心家で権力を求めていたことがうかがえますね。
こうして蘇我蝦夷と境部摩理勢の対立が深まる中、大きな事件が起こります。蘇我馬子の墓を造営する中で境部摩理勢が作業中に屋敷に引きこもってしまい、そんな境部摩理勢を蘇我蝦夷が討ち滅ぼしたのです。対立相手を葬った蘇我蝦夷は、自身の望むとおり田村皇子の即位を実現しました。
再びの次期天皇問題
629年に田村皇子は舒明天皇(じょめいてんのう)として即位、さらに叔父の境部摩理勢を倒したことで蘇我蝦夷は蘇我氏の族長となります。また、世間では蘇我氏に対抗するだけの勢力も存在しなかったため、蘇我氏の権力はさらに高まり、それは蘇我蝦夷の行動にも表れるようになりました。
築いた豪邸はまるで皇居のようだと囁かれ、権力のみならず富も手に入れたのです。蘇我蝦夷の前に完全に存在感を失っていた舒明天皇でしたが641年に死去、ここで再び次期天皇問題が勃発します。誰もが「今度こそ山背大兄王が天皇になる」と期待した中、しかし実際に即位したのは舒明天皇の夫人・皇極天皇でした。
この時暗躍していたのは蘇我蝦夷で、蘇我蝦夷は古人大兄皇子の即位を望んだそうです。しかし、山背大兄王の人気があまりに高かったため、古人大兄皇子の即位は明らかな反感を生むでしょう。そこでひとまずという形で皇極天皇の即位を決断……要するに、皇極天皇は本命・古人大兄皇子の即位につなげるためのつなぎ役という位置付けでした。

蘇我氏は豪族であって皇族ではない。そのため権力を高めても天皇にはなれず、そこで天皇の補佐することで天皇以上の権力を手に入れた。それには自身の都合の良い人物を天皇に即位させる必要があり、またしてもそれを成功させたのだ。
蘇我入鹿の登場
蘇我蝦夷は絶大な権力を手にしつつも、人々の反乱は怖れていました。それは皇極天皇を即位させた点からも明らかで、本命の古人大兄皇子を即位させなかったのはそれに反発する山背大兄王の勢力を怖れたからです。そのため、蘇我蝦夷は独裁体制を行う一方で慎重な一面もありました。
しかし、蘇我氏の一族全てが慎重というわけではありません。蘇我蝦夷の息子・蘇我入鹿の性格は正反対で、慎重どころか目的を叶えるためつい勇み足をとってしまうのです。そんな蘇我入鹿の軽率な勇み足が、やがて蘇我氏を滅亡に導くことをこの時はまだ知る由もありませんでした。
さて、皇極天皇は既に名ばかりの天皇に成り下がっており、絶対的な権力を持っていた蘇我蝦夷は大臣の座を息子・蘇我入鹿に引き継がせます。最も、大臣就任は本来朝廷で任命が行われるものですが、蘇我入鹿の大臣就任は蘇我蝦夷の邸にて、それも蘇我蝦夷の任命によって独断で行われました。
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反発勢力として名を上げる山背大兄王
要職の任命すら行った蘇我蝦夷の行動は朝廷も天皇も完全に無視しており、その光景は人々から見てまるで蘇我蝦夷が天皇のように映ったそうです。まさに蘇我氏の全盛期、ただ権力を持つ人物の全盛期には同時に反発する勢力も強まるのが歴史の定めというもの。
蘇我氏の場合もそれは例外ではなく、蘇我蝦夷と蘇我入鹿の独裁体制に不満を持つ人も増えてきました。しかし、蘇我蝦夷と蘇我入鹿の影響がある人物が天皇に即位しても現状の打破には期待できず、それで対抗勢力として名を上げてきたのはやはり山背大兄王です。
山背大兄王は聖徳太子の息子で、これまで何度も次期天皇候補に名を連ねた人物。さらに蘇我蝦夷と蘇我入鹿にとってはライバル的存在でもあったため、2人に影響されて権力を奪われることもありません。最も、蘇我蝦夷と蘇我入鹿もそんな情勢を把握しており、そのため山背大兄王には危機感を抱いていました。