今日は蘇我蝦夷(そがのえみし)について勉強していきます。飛鳥時代、天皇以上の権力を手にして政治を独占していた蘇我氏、そこで挙がる名前は蘇我馬子・蘇我蝦夷・蘇我入鹿の3人です。

最後はクーデターによって滅亡した蘇我氏は、飛鳥時代にどのような歴史を刻んできたのでしょうか。今回は蘇我蝦夷を中心に蘇我氏の歴史について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から蘇我蝦夷をわかりやすくまとめた。

推古天皇の時代

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推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子の共同政治

「天皇=男性」と言うのはイメージでしかなく、日本の歴史の中では女性の天皇も存在しています。そして、歴代天皇の中で最初の女性天皇とされているのが推古天皇。推古天皇誕生の発端となったのは592年のことで、当時天皇だった崇峻天皇が蘇我馬子によって暗殺された事件です。

暗殺とは言え天皇が死去したため次期天皇を選ぶことになり、そこで候補として挙がった人物は4人でした。この時、蘇我馬子は候補の中でも推古天皇の即位を望みます。これは推古天皇の能力が理由ではなく、推古天皇が蘇我の血を引いていたのが理由でした

要するに、同じ蘇我の血を引く人物が天皇になった方が蘇我氏にとって有益だと考えたのです。このようにして初の女性天皇となる推古天皇が誕生、そして推古天皇を補佐したのが聖徳太子と蘇我馬子であり、推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子の3人が共同する形で政治を行っていきました。

蘇我蝦夷の登場

蘇我馬子は権力をさらに高めたい気持ちから、天皇中心の政治体制が強まることを危惧。一方、推古天皇も権力を持つ蘇我馬子を巧みに利用。大きな対立が起こることなく政治が進められていきましたが、622年の聖徳太子の死をきっかけに3人が立て続けに死去します

622年に聖徳太子が死去、627年に蘇我馬子が死去、628年に推古天皇が死去……ここで問題だったのが、推古天皇が生前に次期天皇を指名しておかなかったことでした。そうなると当然起こってしまうのが次期天皇問題、そして蘇我馬子の子である蘇我蝦夷がここから表舞台に立ってきます。

蘇我蝦夷は父・蘇我馬子が死去した時点で大臣の座を引き継いでいたため、既に政治の実権を握るほどの権力を手にしていました。そんな蘇我蝦夷は次期天皇問題で叔父の境部摩理勢(さかいべのまりせ)と対立、2人が次期天皇として推薦したのはそれぞれ別の人物だったのです。

蘇我蝦夷の独裁体制

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叔父を討った蘇我蝦夷

蘇我蝦夷が次期天皇に推薦したのは田村皇子、境部摩理勢が次期天皇に推薦したのは山背大兄王。ここで蘇我蝦夷が田村皇子を推薦した理由は2つあり、1つは田村皇子が蘇我氏の息のかかった人物であること、もう1つは聖徳太子の子である山背大兄王は人気が高かったことです。

山背大兄王が天皇に即位すれば聖徳太子の影響で人気が出るのは明白、さらには蘇我氏の息がかかっていないため、山背大兄王の即位は蘇我氏の衰退につながってしまうでしょう。その点からも、蘇我蝦夷がいかに野心家で権力を求めていたことがうかがえますね。

こうして蘇我蝦夷と境部摩理勢の対立が深まる中、大きな事件が起こります。蘇我馬子の墓を造営する中で境部摩理勢が作業中に屋敷に引きこもってしまい、そんな境部摩理勢を蘇我蝦夷が討ち滅ぼしたのです。対立相手を葬った蘇我蝦夷は、自身の望むとおり田村皇子の即位を実現しました。

再びの次期天皇問題

629年に田村皇子は舒明天皇(じょめいてんのう)として即位、さらに叔父の境部摩理勢を倒したことで蘇我蝦夷は蘇我氏の族長となります。また、世間では蘇我氏に対抗するだけの勢力も存在しなかったため、蘇我氏の権力はさらに高まり、それは蘇我蝦夷の行動にも表れるようになりました。

築いた豪邸はまるで皇居のようだと囁かれ、権力のみならず富も手に入れたのです。蘇我蝦夷の前に完全に存在感を失っていた舒明天皇でしたが641年に死去、ここで再び次期天皇問題が勃発します。誰もが「今度こそ山背大兄王が天皇になる」と期待した中、しかし実際に即位したのは舒明天皇の夫人・皇極天皇でした。

この時暗躍していたのは蘇我蝦夷で、蘇我蝦夷は古人大兄皇子の即位を望んだそうです。しかし、山背大兄王の人気があまりに高かったため、古人大兄皇子の即位は明らかな反感を生むでしょう。そこでひとまずという形で皇極天皇の即位を決断……要するに、皇極天皇は本命・古人大兄皇子の即位につなげるためのつなぎ役という位置付けでした。

蘇我氏に立ちこめる暗雲

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蘇我入鹿の登場

蘇我蝦夷は絶大な権力を手にしつつも、人々の反乱は怖れていました。それは皇極天皇を即位させた点からも明らかで、本命の古人大兄皇子を即位させなかったのはそれに反発する山背大兄王の勢力を怖れたからです。そのため、蘇我蝦夷は独裁体制を行う一方で慎重な一面もありました。

しかし、蘇我氏の一族全てが慎重というわけではありません。蘇我蝦夷の息子・蘇我入鹿の性格は正反対で、慎重どころか目的を叶えるためつい勇み足をとってしまうのです。そんな蘇我入鹿の軽率な勇み足が、やがて蘇我氏を滅亡に導くことをこの時はまだ知る由もありませんでした。

さて、皇極天皇は既に名ばかりの天皇に成り下がっており、絶対的な権力を持っていた蘇我蝦夷は大臣の座を息子・蘇我入鹿に引き継がせます。最も、大臣就任は本来朝廷で任命が行われるものですが、蘇我入鹿の大臣就任は蘇我蝦夷の邸にて、それも蘇我蝦夷の任命によって独断で行われました。

反発勢力として名を上げる山背大兄王

要職の任命すら行った蘇我蝦夷の行動は朝廷も天皇も完全に無視しており、その光景は人々から見てまるで蘇我蝦夷が天皇のように映ったそうです。まさに蘇我氏の全盛期、ただ権力を持つ人物の全盛期には同時に反発する勢力も強まるのが歴史の定めというもの。

蘇我氏の場合もそれは例外ではなく、蘇我蝦夷と蘇我入鹿の独裁体制に不満を持つ人も増えてきました。しかし、蘇我蝦夷と蘇我入鹿の影響がある人物が天皇に即位しても現状の打破には期待できず、それで対抗勢力として名を上げてきたのはやはり山背大兄王です。

山背大兄王は聖徳太子の息子で、これまで何度も次期天皇候補に名を連ねた人物。さらに蘇我蝦夷と蘇我入鹿にとってはライバル的存在でもあったため、2人に影響されて権力を奪われることもありません。最も、蘇我蝦夷と蘇我入鹿もそんな情勢を把握しており、そのため山背大兄王には危機感を抱いていました

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打倒蘇我氏に向けた流れ

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蘇我入鹿の暴挙

蘇我蝦夷と蘇我入鹿は共に権力を握っていたものの、蘇我蝦夷に至っては既に大臣を息子の蘇我入鹿に譲っていました。そんな蘇我入鹿が焦ったのが対抗勢力となる山背大兄王の存在で、ここで蘇我入鹿の勇み足の性格が災いしてとんでもない行動に走ってしまいます。

それは643年のこと、山背大兄王に危機感を抱く蘇我入鹿は突如山背大兄王を襲撃して妻子もろとも自殺に追い込み、その上で古人大兄皇子を次期天皇に推薦したのでした。蘇我入鹿としては、権力の高さを活かして邪魔者を排除したつもりかもしれませんが、この暴挙に対して蘇我蝦夷は蘇我入鹿を叱りつけます。

「お前の行動は命を危うくする」……蘇我蝦夷が危惧したとおり、山背大兄王殺害によって蘇我氏に反発する声は急激に高まっていきました。これまで誰もが蘇我氏に従ってきましたが、それが蘇我氏は排除すべきという流れへと変わりつつあり、蘇我入鹿の行動は自らの首を絞めることになったのです。

中大兄皇子と中臣鎌足の出会い

ここに1人の人物がいます。その人物は天皇を凌ぐほどの権力を持つ蘇我氏に不満を持っており、蘇我氏による独裁体制にも危機感を抱いていました。その人物が理想としたのは天皇中心の律令国家で、それは大国・唐に対抗できるほどの強い日本を作り上げるためでした。

しかし、蘇我氏が実権を握る現状では律令国家実現は叶わぬ夢であり、実現するためには蘇我氏を倒すしかないとその人物は考えていたのです。そしてその人物とは中臣鎌足、彼は律令国家を実現するための中心人物を探していて、そこで目をつけたのが中大兄皇子でした。

飛鳥寺の蹴鞠会にて、2人は運命的な出会いを果たします。当時蹴鞠に夢中だった中大兄皇子の靴が脱げてしまい、中臣鎌足はそれを拾って中大兄皇子に渡したそうです。皇族の身でありながらも中大兄皇子の丁寧な態度に中臣鎌足は感動、2人の関係はここから始まりました。

蘇我氏の滅亡

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乙巳の変

中大兄皇子は舒明天皇と皇極天皇の子供であり、本来なら次期天皇候補となる人物です。ただ、舒明天皇には母親が異なる皇子が存在しており、その皇子が古人大兄皇子でした。古人大兄皇子は蘇我氏が次期天皇に推薦している人物で、つまり蘇我氏は中大兄皇子にとっても次期天皇の座を妨げる存在だったのです。

また、中大兄皇子も天皇中心の律令国家を理想としていたため、同じ理想を持つ中臣鎌足とはすぐに意気投合しました。蘇我氏打倒のクーデターを計画した中大兄皇子と中臣鎌足、その計画は645年に決行されます。その日、朝鮮から訪れた使節に接見するため、天皇をはじめとする有力な豪族が大極殿に集まっていました。

大臣である蘇我入鹿もそこにいたため、中大兄皇子と中臣鎌足はその場であっさりと蘇我入鹿を討ち取ります。これが645年、乙巳の変でした。こうなると蘇我氏の反撃に警戒する必要がありますが、蘇我氏に不満を持つ多くの豪族が既に中大兄皇子と中臣鎌足の味方となっていたのです。

大化の改新

もちろん蘇我氏につこうとした豪族もいましたが、説得の末に味方に取り込むことに成功。これまで好き放題に振る舞ってきた蘇我氏は乙巳の変にて完全孤立という代償を生み、蘇我入鹿を殺害され、豪族も離れた蘇我蝦夷はさすがに自身の最期を悟ったようです。

そのため蘇我蝦夷は自ら邸に火を放って自害、蘇我氏に推薦されていた古人大兄皇子も吉野まで逃げていきますが、謀反の疑いをかけられると中大兄皇子によって殺害されました。こうして蘇我馬子・蘇我蝦夷・蘇我入鹿の3代に渡って行われた独裁政治は終わり、蘇我氏は滅亡したのです

以後、日本は天皇中心の律令国家の基盤を整えていきます。皇極天皇にかわってその弟が孝徳天皇として即位、都も飛鳥から難波へと移され、中大兄皇子は皇太子として、中臣鎌足は内臣(天皇の補佐役)として政治を進めていきました。この政治改革こそ大化の改新と呼ばれるものです。

推古天皇即位~乙巳の変まで覚えれば万全!

蘇我蝦夷を覚えるには、蝦夷個人でなく蘇我氏の歴史を辿った方が良いでしょう。蘇我馬子・蘇我蝦夷・蘇我入鹿……時期としては推古天皇の即位から乙巳の変までの期間を覚えれば、必然的に蘇我蝦夷の知識は充分身についているはずです。

また、乙巳の変においては大化の改新との区別が紛らわしいため注意してください。乙巳の変は645年に起こったクーデター、大化の改新は乙巳の変から始まる一連の政治改革全てを指すものです。

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日本史歴史飛鳥時代

飛鳥時代に天皇を凌ぐ権力を持った「蘇我蝦夷」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は蘇我蝦夷(そがのえみし)について勉強していきます。飛鳥時代、天皇以上の権力を手にして政治を独占していた蘇我氏、そこで挙がる名前は蘇我馬子・蘇我蝦夷・蘇我入鹿の3人です。

最後はクーデターによって滅亡した蘇我氏は、飛鳥時代にどのような歴史を刻んできたのでしょうか。今回は蘇我蝦夷を中心に蘇我氏の歴史について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から蘇我蝦夷をわかりやすくまとめた。

推古天皇の時代

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推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子の共同政治

「天皇=男性」と言うのはイメージでしかなく、日本の歴史の中では女性の天皇も存在しています。そして、歴代天皇の中で最初の女性天皇とされているのが推古天皇。推古天皇誕生の発端となったのは592年のことで、当時天皇だった崇峻天皇が蘇我馬子によって暗殺された事件です。

暗殺とは言え天皇が死去したため次期天皇を選ぶことになり、そこで候補として挙がった人物は4人でした。この時、蘇我馬子は候補の中でも推古天皇の即位を望みます。これは推古天皇の能力が理由ではなく、推古天皇が蘇我の血を引いていたのが理由でした

要するに、同じ蘇我の血を引く人物が天皇になった方が蘇我氏にとって有益だと考えたのです。このようにして初の女性天皇となる推古天皇が誕生、そして推古天皇を補佐したのが聖徳太子と蘇我馬子であり、推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子の3人が共同する形で政治を行っていきました。

蘇我蝦夷の登場

蘇我馬子は権力をさらに高めたい気持ちから、天皇中心の政治体制が強まることを危惧。一方、推古天皇も権力を持つ蘇我馬子を巧みに利用。大きな対立が起こることなく政治が進められていきましたが、622年の聖徳太子の死をきっかけに3人が立て続けに死去します

622年に聖徳太子が死去、627年に蘇我馬子が死去、628年に推古天皇が死去……ここで問題だったのが、推古天皇が生前に次期天皇を指名しておかなかったことでした。そうなると当然起こってしまうのが次期天皇問題、そして蘇我馬子の子である蘇我蝦夷がここから表舞台に立ってきます。

蘇我蝦夷は父・蘇我馬子が死去した時点で大臣の座を引き継いでいたため、既に政治の実権を握るほどの権力を手にしていました。そんな蘇我蝦夷は次期天皇問題で叔父の境部摩理勢(さかいべのまりせ)と対立、2人が次期天皇として推薦したのはそれぞれ別の人物だったのです。

蘇我蝦夷の独裁体制

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