
方広寺鐘銘事件は豊臣家の完全なミス説
方広寺鐘銘事件についてはハッキリと解明されていない部分もあり、諸説が含まれています。特に挙げられるのが事件そのものの内容で、これまでは家康の陰謀……つまり豊臣家を滅ぼしたいと考えた家康によって仕組まれた事件であるという説が一般的な定説でした。
ただ、近年ではこの定説が変わりつつあり、豊臣家の完全なミスではないかとされる説が有力となっているのです。その理由は方広寺鐘銘事件後の対応で、ここでも解説したとおり事件後に豊臣家は家康の元を訪れており、その時家康は豊臣家を許す対応を見せています。
元々家康は豊臣家を滅ぼすだけの兵力に自信を持っていましたから、仮にこれが仕組まれた事件なら、豊臣家を許す必要はありません。むしろ絶好の火種ですから、方広寺鐘銘事件を口実にしてすぐさま豊臣家に戦いを仕掛ければ良かったのです。そう考えると、確かに家康による陰謀論には少々矛盾があります。
戦国時代の終わり
豊臣家の滅亡によって家康は念願の天下統一を果たしましたが、同時に徳川家に刃向かう勢力や人物が存在しなくなったことも意味しました。既に徳川家の勢力は群を抜いており、これまで唯一対抗できたのが豊臣家だったのです。その豊臣家が滅亡したのですから、徳川家が全権掌握したと言っても過言ではないでしょう。
完全に徳川一強となった日本では下剋上が起こる可能性もなく、そのためこれまで100年以上に渡って続いてきた戦国時代もとうとう終わりを迎えます。以後、日本は200年以上江戸幕府の安定した時代が続いていき、徳川家の征夷大将軍は15代まで引き継がれていきました。
徳川家康は1600年の関ヶ原の戦いが有名であることから、「関ヶ原の戦いでの勝利=天下統一」と思ってしまいがちでしょう。しかしこの時はまだ豊臣家の勢力が健在だったため、正確には大坂の陣の勝利にて天下統一を果たしており、その大坂の陣の引き金となったのが方広寺鐘銘事件なのです。

ことのいきさつを省略して「方広寺鐘銘事件→大坂の陣」と捉えてしまうと気づけないことがある。方広寺鐘銘事件後は家康が一旦は豊臣家を許しており、そうなるとこの事件が家康の陰謀である説には矛盾が生じるのだ。
方広寺鐘銘事件が原因で大坂の陣が起こった!
方広寺鐘銘事件のポイントは、大坂の陣が起こる原因となった事件である点ですね。徳川家康は梵鐘に刻まれた「国家安康」と「君臣豊楽」文字に怒り、それは家康の文字が引き裂かれている一方で豊臣の文字がつながっていたからです。
家康はこれを呪いだと批判して解読まで依頼しています。また、方広寺鐘銘事件を中心に覚えるのであれば、この時解読した人物が林羅山であることも抑えておくべきでしょう。