そのため徳川家康は言いがかりをつけて豊臣家と対立、その言いがかりとなったのが方広寺鐘銘事件です。そこで、今回は方広寺鐘銘事件について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。
ライター/リュカ
元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から方広寺鐘銘事件をわかりやすくまとめた。
関ヶ原の戦いに勝利した家康
豊臣秀吉が天下を取った時代、秀吉は京都の方広寺に日本一高い大仏の建造を計画します。ちなみに、豊臣秀吉と言えば刀狩りを行ったことで有名ですが、没収した刀は大仏を造る材料としており、実際に刀狩りの発令時には大仏の鋳造の材料にするためと発表していました。
最も、豊臣秀吉について学んでも方広寺の大仏についてはほとんど触れられておらず、なぜなら大仏は建造途中で地震によって倒壊してしまったためです。結局、建造が再開される前に秀吉は死去してしまうのですが、これがやがて方広寺鐘銘事件を引き起こすことになるのでした。
さて、豊臣秀吉が死去した後、1600年の関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は天下統一に向けて動きます。その3年後となる1603年には江戸幕府を開き、家康は征夷大将軍として政治の実権を握ることに成功しました。さらに1605年には息子の徳川秀忠に将軍職を譲り、「征夷大将軍と幕府は代々徳川家が引き継ぐ」と世間に知らしめます。
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天下統一の妨げとなる豊臣家
征夷大将軍と幕府のトップを手にした家康、しかしそれで天下統一を果たしたわけではなく、なぜなら豊臣家が依然勢力を維持していたからです。秀吉には息子・秀頼がいたため、豊臣家では豊臣秀頼が秀吉の後を継いでいましたが、家康……すなわち徳川家が天下統一を果たすには、そんな豊臣家は邪魔な存在でした。
最も、いくら勢力を維持しているとは言え秀頼には秀吉ほどの力はなく、家康にとって豊臣家を滅ぼすのは難しくなかったかもしれません。ただ、家康には豊臣家を滅ぼすことができない事情がありました。何しろ、秀頼は天皇の補佐役にあたる関白を受け継ぐ立場になっています。
ですから秀頼を攻撃することはイコール朝廷を攻撃することに等しく、そうすれば家康は朝敵とみなされて天皇に討伐命令を下されてしまうでしょう。そうなってしまえば徳川家の滅亡は確実で、そのため家康は一度は豊臣家と協調する道を選択したほどでした。
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梵鐘に刻まれた銘文
豊臣家と協調する道を選んだ家康は、その証として亡き秀吉の遺志を継ごうと方広寺の大仏建造の再開を提案、秀頼もこれに賛成します。こうして始まった大仏再建、家康も各地の大名に対して費用の負担を促すなど協力的で、工事は順調に進められていきました。
この時、大仏だけでなく大きな釣鐘となる梵鐘(ぼんしょう)も造ることになったのですが、この梵鐘が事件の引き金となります。1614年、完成した梵鐘に彫られた銘文を見て家康が激怒、これが方広寺鐘銘事件であり、梵鐘には「国家安康」と「君臣豊楽」の文字が刻まれていました。
家康を激怒させた原因は文字の意味ではなく並びです。「国家安康」では家康の文字が離れていて、「君臣豊楽」では豊臣の文字がつながっています。家康はこれに対して自らを引き裂く呪いが込められていると強く主張、怒りがおさまらず林羅山に解読を依頼しました。
徳川家と豊臣家の対立
解読の結果、林羅山は家康の主張が正しいと断定、やはり徳川家に対する呪いが込められたものだとしました。一方の豊臣家は完全な言いがかりだと反発、こうして徳川家と豊臣家は一触即発の対立関係となってしまいます。ここで問題なのは、「家康がなぜこのような言いがかりをつけたのか?」という点でしょう。
その理由は豊臣家を討伐する理由作りとされており、天下統一を目指す家康にとって豊臣家は邪魔な存在……しかし戦う理由がありませんでした。いくら徳川家が豊臣家を滅亡させたところで、理由なき討伐ならそれは単なる殺害行為でしかなく、徳川家が非難されて朝敵となるのは明らかです。
しかし、戦うだけの理由があれば豊臣家討伐も正当化されるでしょう。家康は秀頼を服従させようとしますが豊臣家に反対され、「豊臣家が徳川家を呪う銘文を彫った」を口実に豊臣家討伐を決定、そして1614年~1615年にかけて行われた大坂の陣へと豊臣家を追い込んだのでした。
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