そしてその中心人物は板垣退助……教科書での説明はこんなところでしょうが、もっと深く分かりやすく教えよう。そこで、今回は自由民権運動について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。
ライター/リュカ
元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から自由民権運動をわかりやすくまとめた。
藩閥政治を批判された明治政府
現代でこそ政治において国民の意見が用いられていますが、かつての日本はそうではありませんでした。歴史を振り返ってみると、源頼朝、足利尊氏、徳川家康らは幕府を開いて武家政権を確立させ、そこでは朝廷ですら意見できないほどの武家中心とした政治を行っています。
また、一方で後醍醐天皇は建武の新政と呼ばれる天皇中心の政治を行いましたが、ここで優遇されたのは公家であり、その政治は武家を軽視するものでした。ですから、新しい指導者の誕生と共にそれに反発する勢力も誕生して、暴動の末にまた新たな指導者が誕生する……日本はそれを繰り返してきたのです。
やがて時は流れ、そんな歴史の繰り返しに終止符を打つ期待がもたらされたのが明治政府でした。明治時代になって日本はようやく「日本」という国家が確立。しかし、そこで行われたのは倒幕に貢献した薩長の出身者を中心とした藩閥政治と呼ばれるものであり、国民からの批判も多かったようです。
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征韓論の決着
自由民権運動の中心人物である板垣退助も、元は明治政府の人間でした。そんな板垣退助が明治政府と決別するきっかけとなったのが征韓論、これは武力によって朝鮮を開国させようとする主張です。そして、この征韓論によって明治政府内では賛成派と反対派が激しく対立します。
征韓論が持ち上がった当時、政府の要人である岩倉具視、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文らは多くの留学生を引き連れて岩倉使節団として海外を視察。そこで学んだことは日本の近代化の必要性であり、朝鮮問題は優先すべきではないとして征韓論に猛反対、論争の末に征韓論は廃止されました。
征韓論の賛成派であった板垣退助、西郷隆盛、江藤新平らはこの結果に不満を持ち、明治政府との決別を決意します。さて、時を同じくして全国には明治政府に不満を持つ者も多く、その者とはこれまでの特権を失いつつあった武士達。彼らは不平士族と呼ばれていました。
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武力ではなく言論で戦おうとした板垣退助
明治政府が目指したのは日本の近代化、そのため武士の力は必要とされず、江戸時代まで日本の主役に立っていた武士達は特権を失い、徐々に居場所を失っていきました。当然武士達は明治政府に反発、いつしか彼らは不平士族と呼ばれるようになって各地で暴動を起こすようになります。
そして、明治六年の政変で明治政府を去った西郷隆盛らはそんな不平士族にとって希望となり、のちに反乱を起こすのでした。江藤新平は佐賀の乱、西郷隆盛は西南戦争を引き起こして明治政府と戦いますが、ただ板垣退助の場合はそれとは異なり、武力ではなく言論によって明治政府に訴えを起こします。
それが1874年の民撰議院設立建白書であり、分かりやすく言えば明治政府に対する民選の議会開設を要望した建白書。要するに「政治は国民が選んだ議員によって進めるべき」との申し入れで、建白書とは臣下が主君や上官に対して意見を記した文書を提出することを意味する言葉です。
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民撰議院設立建白書の提出
板垣退助は後藤象二郎らと共に民撰議院設立建白書を明治政府に提出しますが、言わばこれは板垣退助らが持つある種の政治思想。かつて尊王攘夷の思想に対して幕府が安政の大獄が行ったように、こうした思想はそれを疎ましく思う権力によって弾圧されるのが定めでしょう。
ただ、この頃の日本では福沢諭吉らによって紹介された西洋の自由思想が広まっていました。そのため、板垣退助らが提出した民撰議院設立建白書は弾圧されるどころか新聞に掲載されるほど注目され、やがてその思想は日本中から支持されるほどの反響となります。
民撰議院設立建白書の提出をきっかけに日本の全国では国会開設を求める運動が頻発、これが自由民権運動の始まりとされているのです。最も、明治政府からすればこれは危惧する事態であり、そのため自由民権運動の弾圧をはかるものの、高まる批判によってとうとう1881年に10年後の国会開設を約束したのでした。
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自由党の結成
自由民権運動によって天皇は10年後の国会開設を約束、すなわち国会開設の勅諭が出されました。国会開設実現は自由民権運動の確かな効果でしたが、自由民権派にとってそれはゴールではなくむしろスタートであり、実際に政治に参加できるよう10年後の国会開設に向けた準備を開始します。
大隈重信は立憲改進党を結成、そして板垣退助は自由党を結成、国民は国会に参加しやすくするために次々と政党を誕生させました。もちろん明治政府も国会にするため、国民の政党に対抗できるよう立憲帝政党を結成します。そんな状態のなか、板垣退助が命を狙われる事件が起きました。
1882年の4月6日、岐阜県で演説を終えた板垣退助は宿泊先に戻ろうとしましたが、そこに短刀を所持した相原尚褧(あいはらなおぶみ)が襲撃。最も、明治維新で評価されるほどの武士だった板垣退助は強く、そのため犯人に反撃するものの短刀で刺されたため負傷、この事件を岐阜事件と呼びます。
板垣死すとも自由は死せず
襲撃された板垣退助でしたが命に別状はなく、宿に運ばれて治療を受けます。この時、おそらく明治政府の刺客だと警戒したのでしょうか。板垣退助は治療を行おうとした医師・後藤新平に会うのを拒んでおり、板垣退助が身の危険を感じながら自由民権運動を行っていたことがうかがえます。
最も、岐阜事件は明治政府による指示ではなく、相原尚褧の独断による犯行だと判明。明治政府を支持する新聞の愛読者だった彼は、民権思想を掲げる板垣退助を敵視していたようで、むしろ明治政府は板垣退助の負傷に誠意ある対応を見せています。閣議は一旦中止され、天皇の勅使が訪れて板垣退助に対して見舞い金がおくられました。
さて、岐阜事件において有名とされているのが「板垣死すとも自由は死せず」の言葉。これは板垣退助が襲撃された時に叫んだ言葉とされていますが、「別の言葉を叫んだ」や「他の者が叫んだ」などの説もあり、明智光秀の「敵は本能寺にあり」と同様、事実とは異なるものかもしれません。
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