
2-4、九条家

藤原忠通の6男である九条兼実を祖とし、藤原基経創建といわれる京都九条の九条殿に住んだことが家名の由来。別名は陶化家。また、兼実の同母弟兼房の子孫も九条家に含めることもあるが、こちらは断絶。
兼実の孫にあたる道家の子、教実、良実、実経が摂政関白となり、それぞれが九条家、二条家、一条家を立てて、五摂家が成立。
兼実は異母姉の崇徳天皇の皇后(中宮)藤原聖子の皇嘉門院領を伝領して、九条家領の基礎に。平氏政権、後白河法皇には批判的で、源頼朝の推挙で摂政、次いで関白となり、以後摂関職は近衛家と九条家から出ることに。兼実の孫の道家は、息子の頼経、孫の頼嗣が相次いで鎌倉幕府の摂家将軍となったことで朝廷内で権勢を。
江戸時代の家禄は2044石で、のち3052石に加増されたということ。
明治維新後、九条道孝が公爵となり4女節子は大正天皇の貞明皇后に。
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2-5、二条家
鎌倉時代に九条道家の2男二条良実を祖とし、二条富小路の邸宅を二条殿と称したのが家名の由来。別名は銅駝家(どうだ)。
鎌倉時代末期の元弘の変では、後醍醐天皇の関白二条道平が倒幕関与の疑いで、鎌倉幕府によって中院禅閤の処分を受けて二条家は一時断絶の危機に陥ったが、後醍醐天皇の復帰で無効に。また南北朝時代に一時分裂したが、北朝方二条良基(道平の息子)のもとで勢力を取り戻して、良基は准三后となって3代将軍足利義満を指導。
良基はまた、連歌形式の完成者として「菟玖波集」などの編著を行い、猿楽といわれた能楽の大成者、観阿弥、世阿弥父子を見出すなど、文化人としても日本史に残る人物。
戦国時代の当主二条尹房は、大内義隆を頼って周防国山口に滞在中に、大寧寺の変(陶晴賢の乱)に巻き込まれて殺害。江戸時代の家禄は1700石。
足利義満の偏諱を受けた二条満基以来、足利将軍家、徳川将軍家から代々偏諱を受ける慣例となっていて、五摂家のなかでは最も親幕派の家柄。また、史上最後の関白の二条斉敬も二条家の出身。
尚、明治以前の天皇の即位式で、新天皇に灌頂を授ける即位灌頂の儀を掌る役目は、室町時代以後二条家が独占していたが、江戸時代初期、先代当主二条光平の早世で礼式が絶えたことを理由に、近衛基熙が二条家の独占を継続すべきではないと唱えたが、霊元上皇は他家にも伝わっている礼式が二条家の独占なのはそれ相応の理由があるとしたため、公式に二条家の独占となったということ。
維新後、二条基弘が公爵に。
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2-6、鷹司家
鎌倉時代中頃の藤原北家嫡流の近衛家実の4男兼平が祖。家名は兼平の邸宅のあった平安京の鷹司小路に由来。別名は楊梅(やまもも)家 。
戦国時代の鷹司忠冬に継嗣がなく、天文15年(1546年)に一度断絶したが、天正7年(1579年)に二条晴良の子の信房が再興して継続。また寛保3年(1743年)、閑院宮直仁親王の皇子が鷹司家を継承し、鷹司輔平となったために、鷹司家は皇別摂家(皇族が養子となって跡を継いだ摂関家)に。江戸後期から幕末にかけて、鷹司家の当主が関白を務める機会が多く鷹司政通は30年余りにわたって関白を務めたそう。江戸時代の家禄は1000石で、のちに1500石。
尚、鷹司信房の娘の孝子が江戸幕府3代将軍の徳川家光の正室となった際、孝子の弟鷹司信平は、徳川家の旗本に転身し、紀州藩主徳川頼宣の娘を娶って松平の名字を名乗ることに。武家の鷹司松平家は代を重ねると加増されたために信平の孫の信清の代には上野吉井藩主に。
維新後、煕通が公爵に。
3、明治維新後の五摂家
明治維新後は、五摂家各々の家の当主は華族令で公爵に。また明治新政権が最初に太政官制を敷き、後に内閣制度となったために、摂政、関白は廃止に。というわけで、五摂家は明治以降は、旧摂関家と旧つきで呼ばれるように。
また、明治以前は、五摂家の後継ぎとして養子を迎える場合は、皇族か同じ摂家に限ると言う厳格な取り決めも廃止されて、縁戚やそれ以外の華族、旧華族からの養子縁組が可能になり、そして戦前の旧皇室典範では、皇族男子との結婚資格は皇族と華族に限られていて、将来の皇后となる皇太子妃は、皇族もしくは旧五摂家の女子に限るという不文律が存在したが、戦後は皇室典範が改正。
日本のトップクラスの名門公卿だった五摂家
五摂家とは、奈良時代の中臣鎌足から不比等、藤原4家に北家良房から道長へと、摂関政治を行い、数百年の宮廷政治の中心となって君臨してきた藤原家の子孫。
平安末期、鎌倉時代には武家の台頭でさすがに政治的な影響力は衰えましたが、天皇家とともにあって脈々と絶えることなく血筋を伝えて名家中の名家に。
芋がらは食えるが家柄は食えぬということわざがありますが、身分制度が厳しかったとはいえ、権威的存在のトップとして、武家が武力と経済力でブイブイ言わせていても、五摂家は武家が到底かなわない冠位と皇室の威光、礼式やお家芸などで上手に世渡りして生き残ったしたたかさは、ある意味評価に値するものでは。