
1-5、中宮、皇后になれるのは五摂家出身女性のみ

また、天皇の正室である中宮、皇后は、皇室、徳川将軍家を例外として、五摂家だけの特権だったということ。そして五摂家出身女性は入内後の身分から、生まれた皇子の皇位継承でも優位に立つことに。また、五摂家以外の女性が生んだ皇子は、中宮、皇后の実子とされ、実際に産んだ女性は母親とは認められない場合も。
たとえば、明治天皇を産んだのは中山中納言家出身の孝明天皇の典侍中山慶子だが、孝明天皇の女御で後の英照皇太后、五摂家出身の九条夙子(あさこ)が正式な母とされたそう。
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2-2、近衛家(このえけ)
近衛家は藤原忠通の4男基実が祖で、家名は平安京の近衛大路に由来。別名は陽明家。五摂家の中で初めて藤氏長者をつとめたそう。
戦国時代から江戸時代にかけての当主近衛前久は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)を近衛家の猶子にし、秀吉に豊臣姓をもらうなど便宜を図ったが、前久の子の信尹は継嗣がなかったため妹の前子が後陽成天皇との間に儲けた四之宮を養嗣子に迎え近衛信尋(のぶひろ)として近衛家を継承。
なので以後の近衛家のことを皇別摂家ともいい、別格の公卿とされていて、「幕末の宮廷」によれば、跡取り息子が元服するときは、天皇からご宸筆で名前をいただくことになっていたということ。
江戸時代後期の近衛家の家領は2862石。近衛家の荘官だった鎌倉以来の大名の薩摩藩主の島津氏とは強い繋がりを持ち、島津家の姫で、11代将軍家斉の御台所となった寔子、13代家定の御台所となった敬子は近衛家の養女として徳川将軍家に輿入れをしたほど。明治16年(1884年)の華族令の制定に伴って篤麿が公爵に。篤麿は貴族院議長や東亜同文会会長として活発に政治活動を行い、息子近衛文麿も貴族院議長を経て、昭和前期に3度にわたって内閣総理大臣(第34代、第38代、第39代)を務めたということで、その弟秀麿も指揮者として著名。
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2-3、一条家
鎌倉時代に九条道家の3男一条実経を祖とし、道家が創建した一条殿を実経が受け継いで住んだ事が家名の由来。別名は桃華(とうか)家。また、一条家には九条流の政治的権威を裏付ける桃華堂文庫(後二条師通記、玉葉、玉蘂)が伝来。尚、九条家とは南北朝時代に九条流嫡流を巡って争いとなったが、後光厳天皇の綸旨でいずれも嫡流であるとされたということ。江戸時代の家禄は初め1000石、後に1500石へ加増、幕末は2044石。維新後、実輝が公爵に。
室町時代の一条兼良は、政治以外に学問や連歌の文化的分野でも活躍。また、戦国時代には一条教房が、応仁の乱を機に所領であった土佐に下向し、分家が戦国大名化して土佐一条家が出来たことも。
江戸時代初期、関白一条昭良の次男冬基が醍醐家(清華家の家格)を創立。幕末期の当主一条忠香の3女美子は、明治天皇の昭憲皇太后に。 また、昭良の実父は後陽成天皇であるために、二条家も皇別摂家と言われるそう。
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