今回は五摂家を取り上げるぞ。公家の中で最高の位なんだって、いろいろと詳しく知りたいよな。

その辺のところを公卿についても大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、京都の公卿にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、五摂家について5分でわかるようにまとめた。

1-1、五摂家とは

五摂家(ごせっけ)とは、藤原氏の嫡流で鎌倉時代に成立した公家の家格として頂点に立つ家柄の5家をさしていて、近衛家、九条家、二条家、一条家、鷹司家のこと。これらの家を継いだ者は、大納言、右大臣、左大臣を経て摂政関白、太政大臣に昇任できたため、摂関家(せっかんけ)、五摂家、執柄家(しっぺいけ)とも称され、この5家の中から藤氏長者(藤原氏のトップのこと)も選出されたそう。

序列は近衛家、一条家と九条家とは同格、次いで二条家、鷹司家。

1-2、五摂家の成立

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藤原氏は代表的な姓のひとつで、源氏、平氏、橘氏とともに「源平藤橘」(四姓)とされる名門氏族、中臣鎌足が大化の改新の功で天智天皇から賜った「藤原」の姓が鎌足の息子の藤原不比等の代に認められたという古い家柄。

奈良時代に不比等の息子たちが、南家、北家、式家、京家の四家の系統に分かれたあと、平安時代になってからは、北家が皇室と姻戚関係を結び、摂関政治を行うように。

そして北家の良房が承和9年(842年)の承和の変で橘氏や伴氏を排除、また安和2年(969年)の安和の変で源氏を排斥、良房は清和天皇の外祖父として人臣初の摂政に任官、良房の養子基経も陽成天皇の外戚として摂政と関白を務め、娘を入内させて生まれた皇子を天皇に擁立し、皇室の外戚として摂政関白に就任して権力をふるいまくり、後一条天皇、後朱雀天皇、後冷泉天皇の外祖父となった藤原道長、頼通父子の代で摂関政治の最盛期を極めることに。

しかし平安後期になると、藤原氏と姻戚関係を持たない上皇による院政が始まり、さらに源平両氏の武家政権へと移行するにつれ藤原氏の権勢は後退。そして鎌倉時代に藤原氏の嫡流は近衛家、鷹司家、九条家、二条家、一条家の五摂家に分立。その後も江戸時代末期に至るまで五摂家が交代で摂政、関白を独占し、公家社会で一定の影響力を持ち続けたそう。

尚、藤原北家以外で関白となったのは秀吉の甥の豊臣秀次だけで、豊臣秀吉は近衛前久の養子となり藤原秀吉として関白になったが、この例外以外には五摂家以外からの摂政はなし。

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姓氏(せいし、またはしょうじ)とは
姓(かばね) は古代に天皇から各氏族に与えられ、職能や序列を表した称号のことで、日本ではすべての氏が源氏、平氏、藤原氏、橘氏の4つに分けられるとされていて、朝廷に伺候する際には、例えば徳川家康ならば、「源(官名)家康」などと、姓で呼ばれることに。

尚、豊臣秀吉は氏どころか苗字も持たない下層民の出身だが、天下人となったため、平氏と称したのちに近衛前久の養子となって藤原氏を名乗り、天正14年(1586年)に太政大臣に任官したとき、豊臣という姓を新たな摂関家の氏として創始したということ(この場合、秀吉の氏は羽柴になるそう)。

1-3五摂家の門流

室町時代以後、公卿の間の有職故実や学芸に関する師弟関係が、主従関係の意味を持つ関係に変化し、江戸時代になると五摂家を「主」、清華家以下の堂上公卿は「従」とする家礼(けれい、家来のこと)関係が固定化して、一族の意味もある「門流」と称するように。

門流は、江戸時代末期には、近衛家を主家とする門流が48家、九条家は20家、二条家は4家、一条家は37家、鷹司家は8家あり、どの五摂家にも属さない公卿が15家あったということ。

門流の公卿は主家の五摂家の公私の行事に参加、随従、主家が行う有職故実などの礼法遵守の義務もあるうえに、門流の子弟の元服、婚姻、養子縁組の際にも主家へのお伺いと許可がなければ出来ないことになっていて、原則的に主家の意向に反した行動や門流関係の解消は認められなかったということ。しかし主家は、門流公卿の昇進、主家所蔵する記録類の利用許可などの便宜をはかったり、門流へ政治的に重要な情報が教えたりすることが、先例重視で狭い公卿社会には重要な意味があったそう。

1-4、江戸時代の五摂家

江戸幕府が成立後に禁中並公家諸法度が制定されたため、摂政、関白は幕府の推薦での任命になったが、五摂家の昇進は他の公家とは別格となり、また宮中では、五摂家、三公(太政大臣、左大臣、右大臣、または左大臣、右大臣、内大臣の総称)、宮家、その他の公卿という席次に。

1-5、五摂家の相続

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五摂家は、貴種性維持のために、当主に跡継ぎが相続人がいなければ、五摂家と同格の摂家か、皇族から養子を迎えて跡継ぎにすることが決められているそう。

たとえば将軍家や大名家では、本家のほかに分家が存在し、本家の跡継ぎが絶えた場合、分家から入って本家を継ぐ、または他大名家から養子をもらって跡を継ぐのが普通だが、五摂家の場合は、たとえ摂家と血縁があっても格下の公卿である清華家以下の家格の者が五摂家を相続する事は許可されなかったということ。

享保3年(1743年)に19歳の九条稙基が急死したときは、叔父で随心院門跡だった尭厳が還俗して九条尚実となって相続。また、一条兼香の子で、鷹司房熙の養子となって鷹司家を継承した鷹司基輝が17歳で急死した際、鷹司家は断絶の危機を迎えたが、閑院宮直仁親王第4皇子の淳宮が養子となり、鷹司輔平として跡を継いだそう。

\次のページで「1-5、中宮、皇后になれるのは五摂家出身女性のみ」を解説!/

1-5、中宮、皇后になれるのは五摂家出身女性のみ

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また、天皇の正室である中宮、皇后は、皇室、徳川将軍家を例外として、五摂家だけの特権だったということ。そして五摂家出身女性は入内後の身分から、生まれた皇子の皇位継承でも優位に立つことに。また、五摂家以外の女性が生んだ皇子は、中宮、皇后の実子とされ、実際に産んだ女性は母親とは認められない場合も。

たとえば、明治天皇を産んだのは中山中納言家出身の孝明天皇の典侍中山慶子だが、孝明天皇の女御で後の英照皇太后、五摂家出身の九条夙子(あさこ)が正式な母とされたそう。

2-1、五摂家

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それぞれの家の成り立ちや、主なメンバーなどについてご紹介しますね。

2-2、近衛家(このえけ)

近衛家は藤原忠通の4男基実が祖で、家名は平安京の近衛大路に由来。別名は陽明家。五摂家の中で初めて藤氏長者をつとめたそう。

戦国時代から江戸時代にかけての当主近衛前久は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)を近衛家の猶子にし、秀吉に豊臣姓をもらうなど便宜を図ったが、前久の子の信尹は継嗣がなかったため妹の前子が後陽成天皇との間に儲けた四之宮を養嗣子に迎え近衛信尋(のぶひろ)として近衛家を継承。

なので以後の近衛家のことを皇別摂家ともいい、別格の公卿とされていて、「幕末の宮廷」によれば、跡取り息子が元服するときは、天皇からご宸筆で名前をいただくことになっていたということ。

江戸時代後期の近衛家の家領は2862石。近衛家の荘官だった鎌倉以来の大名の薩摩藩主の島津氏とは強い繋がりを持ち、島津家の姫で、11代将軍家斉の御台所となった寔子、13代家定の御台所となった敬子は近衛家の養女として徳川将軍家に輿入れをしたほど。明治16年(1884年)の華族令の制定に伴って篤麿が公爵に。篤麿は貴族院議長や東亜同文会会長として活発に政治活動を行い、息子近衛文麿も貴族院議長を経て、昭和前期に3度にわたって内閣総理大臣(第34代、第38代、第39代)を務めたということで、その弟秀麿も指揮者として著名。

2-3、一条家

鎌倉時代に九条道家の3男一条実経を祖とし、道家が創建した一条殿を実経が受け継いで住んだ事が家名の由来。別名は桃華(とうか)家。また、一条家には九条流の政治的権威を裏付ける桃華堂文庫(後二条師通記、玉葉、玉蘂)が伝来。尚、九条家とは南北朝時代に九条流嫡流を巡って争いとなったが、後光厳天皇の綸旨でいずれも嫡流であるとされたということ。江戸時代の家禄は初め1000石、後に1500石へ加増、幕末は2044石。維新後、実輝が公爵に。

室町時代の一条兼良は、政治以外に学問や連歌の文化的分野でも活躍。また、戦国時代には一条教房が、応仁の乱を機に所領であった土佐に下向し、分家が戦国大名化して土佐一条家が出来たことも。

江戸時代初期、関白一条昭良の次男冬基が醍醐家(清華家の家格)を創立。幕末期の当主一条忠香の3女美子は、明治天皇の昭憲皇太后に。 また、昭良の実父は後陽成天皇であるために、二条家も皇別摂家と言われるそう。

\次のページで「2-4、九条家」を解説!/

2-4、九条家

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藤原忠通の6男である九条兼実を祖とし、藤原基経創建といわれる京都九条の九条殿に住んだことが家名の由来。別名は陶化家。また、兼実の同母弟兼房の子孫も九条家に含めることもあるが、こちらは断絶。

兼実の孫にあたる道家の子、教実、良実、実経が摂政関白となり、それぞれが九条家、二条家、一条家を立てて、五摂家が成立。

兼実は異母姉の崇徳天皇の皇后(中宮)藤原聖子の皇嘉門院領を伝領して、九条家領の基礎に。平氏政権、後白河法皇には批判的で、源頼朝の推挙で摂政、次いで関白となり、以後摂関職は近衛家と九条家から出ることに。兼実の孫の道家は、息子の頼経、孫の頼嗣が相次いで鎌倉幕府の摂家将軍となったことで朝廷内で権勢を。
江戸時代の家禄は2044石で、のち3052石に加増されたということ。

明治維新後、九条道孝が公爵となり4女節子は大正天皇の貞明皇后に。

2-5、二条家

鎌倉時代に九条道家の2男二条良実を祖とし、二条富小路の邸宅を二条殿と称したのが家名の由来。別名は銅駝家(どうだ)。

鎌倉時代末期の元弘の変では、後醍醐天皇の関白二条道平が倒幕関与の疑いで、鎌倉幕府によって中院禅閤の処分を受けて二条家は一時断絶の危機に陥ったが、後醍醐天皇の復帰で無効に。また南北朝時代に一時分裂したが、北朝方二条良基(道平の息子)のもとで勢力を取り戻して、良基は准三后となって3代将軍足利義満を指導。

良基はまた、連歌形式の完成者として「菟玖波集」などの編著を行い、猿楽といわれた能楽の大成者、観阿弥、世阿弥父子を見出すなど、文化人としても日本史に残る人物。

戦国時代の当主二条尹房は、大内義隆を頼って周防国山口に滞在中に、大寧寺の変(陶晴賢の乱)に巻き込まれて殺害。江戸時代の家禄は1700石。
足利義満の偏諱を受けた二条満基以来、足利将軍家、徳川将軍家から代々偏諱を受ける慣例となっていて、五摂家のなかでは最も親幕派の家柄。また、史上最後の関白の二条斉敬も二条家の出身。

尚、明治以前の天皇の即位式で、新天皇に灌頂を授ける即位灌頂の儀を掌る役目は、室町時代以後二条家が独占していたが、江戸時代初期、先代当主二条光平の早世で礼式が絶えたことを理由に、近衛基熙が二条家の独占を継続すべきではないと唱えたが、霊元上皇は他家にも伝わっている礼式が二条家の独占なのはそれ相応の理由があるとしたため、公式に二条家の独占となったということ。
維新後、二条基弘が公爵に。

2-6、鷹司家

鎌倉時代中頃の藤原北家嫡流の近衛家実の4男兼平が祖。家名は兼平の邸宅のあった平安京の鷹司小路に由来。別名は楊梅(やまもも)家 。

戦国時代の鷹司忠冬に継嗣がなく、天文15年(1546年)に一度断絶したが、天正7年(1579年)に二条晴良の子の信房が再興して継続。また寛保3年(1743年)、閑院宮直仁親王の皇子が鷹司家を継承し、鷹司輔平となったために、鷹司家は皇別摂家(皇族が養子となって跡を継いだ摂関家)に。江戸後期から幕末にかけて、鷹司家の当主が関白を務める機会が多く鷹司政通は30年余りにわたって関白を務めたそう。江戸時代の家禄は1000石で、のちに1500石。

尚、鷹司信房の娘の孝子が江戸幕府3代将軍の徳川家光の正室となった際、孝子の弟鷹司信平は、徳川家の旗本に転身し、紀州藩主徳川頼宣の娘を娶って松平の名字を名乗ることに。武家の鷹司松平家は代を重ねると加増されたために信平の孫の信清の代には上野吉井藩主に。
維新後、煕通が公爵に。

3、明治維新後の五摂家

明治維新後は、五摂家各々の家の当主は華族令で公爵に。また明治新政権が最初に太政官制を敷き、後に内閣制度となったために、摂政、関白は廃止に。というわけで、五摂家は明治以降は、旧摂関家と旧つきで呼ばれるように。

また、明治以前は、五摂家の後継ぎとして養子を迎える場合は、皇族か同じ摂家に限ると言う厳格な取り決めも廃止されて、縁戚やそれ以外の華族、旧華族からの養子縁組が可能になり、そして戦前の旧皇室典範では、皇族男子との結婚資格は皇族と華族に限られていて、将来の皇后となる皇太子妃は、皇族もしくは旧五摂家の女子に限るという不文律が存在したが、戦後は皇室典範が改正。

日本のトップクラスの名門公卿だった五摂家

五摂家とは、奈良時代の中臣鎌足から不比等、藤原4家に北家良房から道長へと、摂関政治を行い、数百年の宮廷政治の中心となって君臨してきた藤原家の子孫。

平安末期、鎌倉時代には武家の台頭でさすがに政治的な影響力は衰えましたが、天皇家とともにあって脈々と絶えることなく血筋を伝えて名家中の名家に。

芋がらは食えるが家柄は食えぬということわざがありますが、身分制度が厳しかったとはいえ、権威的存在のトップとして、武家が武力と経済力でブイブイ言わせていても、五摂家は武家が到底かなわない冠位と皇室の威光、礼式やお家芸などで上手に世渡りして生き残ったしたたかさは、ある意味評価に値するものでは。

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日本史歴史鎌倉時代

公卿の最高位で藤原氏の氏の長者の家柄「五摂家」を歴女がわかりやすく解説

今回は五摂家を取り上げるぞ。公家の中で最高の位なんだって、いろいろと詳しく知りたいよな。

その辺のところを公卿についても大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、京都の公卿にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、五摂家について5分でわかるようにまとめた。

1-1、五摂家とは

五摂家(ごせっけ)とは、藤原氏の嫡流で鎌倉時代に成立した公家の家格として頂点に立つ家柄の5家をさしていて、近衛家、九条家、二条家、一条家、鷹司家のこと。これらの家を継いだ者は、大納言、右大臣、左大臣を経て摂政関白、太政大臣に昇任できたため、摂関家(せっかんけ)、五摂家、執柄家(しっぺいけ)とも称され、この5家の中から藤氏長者(藤原氏のトップのこと)も選出されたそう。

序列は近衛家、一条家と九条家とは同格、次いで二条家、鷹司家。

1-2、五摂家の成立

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藤原氏は代表的な姓のひとつで、源氏、平氏、橘氏とともに「源平藤橘」(四姓)とされる名門氏族、中臣鎌足が大化の改新の功で天智天皇から賜った「藤原」の姓が鎌足の息子の藤原不比等の代に認められたという古い家柄。

奈良時代に不比等の息子たちが、南家、北家、式家、京家の四家の系統に分かれたあと、平安時代になってからは、北家が皇室と姻戚関係を結び、摂関政治を行うように。

そして北家の良房が承和9年(842年)の承和の変で橘氏や伴氏を排除、また安和2年(969年)の安和の変で源氏を排斥、良房は清和天皇の外祖父として人臣初の摂政に任官、良房の養子基経も陽成天皇の外戚として摂政と関白を務め、娘を入内させて生まれた皇子を天皇に擁立し、皇室の外戚として摂政関白に就任して権力をふるいまくり、後一条天皇、後朱雀天皇、後冷泉天皇の外祖父となった藤原道長、頼通父子の代で摂関政治の最盛期を極めることに。

しかし平安後期になると、藤原氏と姻戚関係を持たない上皇による院政が始まり、さらに源平両氏の武家政権へと移行するにつれ藤原氏の権勢は後退。そして鎌倉時代に藤原氏の嫡流は近衛家、鷹司家、九条家、二条家、一条家の五摂家に分立。その後も江戸時代末期に至るまで五摂家が交代で摂政、関白を独占し、公家社会で一定の影響力を持ち続けたそう。

尚、藤原北家以外で関白となったのは秀吉の甥の豊臣秀次だけで、豊臣秀吉は近衛前久の養子となり藤原秀吉として関白になったが、この例外以外には五摂家以外からの摂政はなし。

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