
『古事記』と『日本書紀』の編纂者と期間
『古事記』をつくらせるにあたって、まず、天武天皇は稗田阿礼(ひえだのあれ)という舎人(下級官人)に命じて、天皇の系譜の記録『帝紀』と、諸氏族の口伝の伝承を書いた『旧辞』という二つの書を読み覚えさせました。
それから天武天皇の崩御後に元明天皇の命令で太安万侶(おおのやすまろ)が稗田阿礼に語らせて編纂したのが『古事記』だ、と序文にあります。全三巻の『古事記』の編纂にかかったのはたったの四ヶ月。かなりの急ピッチですね。『古事記』が第43代元明天皇に献上されたのは712年でした。
一方、『日本書紀』は天武天皇が、川島皇子をはじめとした六人の皇族と、中臣大嶋(なかとみのおおじま)などの六人の官僚の計十二人に編纂を命令しました。「乙巳の変」で焼けて欠けた歴史書や、朝廷の書庫以外に保存されていた歴史書、国内外の資料、それに伝聞をもとにして本編が書かれたのです。
その製作期間はなんと39年!全三十巻の大長編となりました。天武天皇の崩御後、舎人親王が引き継いで『日本書紀』を完成させ、720年に第44代元正天皇に献上されます。
扱う時代はどこからどこまで?
『古事記』、『日本書紀』ともに、はじまりはまだ天地も定まらず、生き物もいない、混沌としたかたちのなかったところから書かれます。そこからようやく天地が別れて神々があらわれる「神代」がはじまるのです。
「神代」の話とは、つまり、「神話」のこと。『古事記』は全三巻のうち最初の上巻をまるまる「日本神話」にあて、残りは初代天皇となった神武天皇から第33代推古天皇までを書いています。そして、『日本書紀』は全三十巻のうち一巻と二巻が「神代」、締めは第41代持統天皇です。
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どちらも神話は大切
「神代」にあてられた割合を見ると、どちらも「日本神話」を大切にしていることがわかりますね。「日本神話」の内容は前回の『古事記』の記事で詳しくしましたので、そちらをご参照ください。
さて、神話や伝承は世界中のほとんどすべての民族が持っています。それは、その土地がどのようなところなのかを説明しながら、その土地の人々がどのようにして生まれ、なぜその土地で暮らす権利があるのかを証明するものだからです。(前回の記事でも解説しましたが、「記紀」を知る上でここがポイントなので何度でも繰り返し書きます)
すなわち、「日本神話」は、なぜ天皇家が日本を治めているのか、その正当性を示すものでした。「日本神話」を書いた「記紀」は、天皇家が神話の神々の末えいであり、由緒正しい統治者だと周囲に知らしめるためのものだったのです。
天武天皇が「記紀」をつくらせたワケ
ところで、前章で飛鳥時代は戦乱の多い時代で、さらに天武天皇はクーデターで政権を勝ち取った天皇だとご説明しましたね。天武天皇はその後、日本を律令国家として急速にまとめあげようとしました。
戦乱の続いた世の中で「天武天皇の正当性を主張する」とは、とどのつまり、これ以上の争いを生まないための秘策だったのです。日本神話を人々に周知させることで、天皇は戦いで勝ち取る権力ではなく、古の神様から続く絶対的な権威がある、という認識を植え付けようとしたのでした。
ただ、残念ながら天武天皇は稗田阿礼に暗記を命じたすぐ後に亡くなり、「記紀」の完成を目にすることはありません。
3.国内向けの『古事記』、海外向けの『日本書紀』

『古事記』と『日本書紀』の違いはまだあって、その際たるものが書かれた言葉の違いです。
『古事記』が大和言葉をもとにした日本独自の変体漢文が主体で、さらに古語や固有名詞など漢文で代用しづらいものも漢字の音を借りて一字一音表記にされています。
一方で、『日本書紀』は漢文で書かれました。
*変体漢文ってなに?
日本語を漢文にならって漢字だけで書いた文章のこと。日本語化した漢文なので「和化漢文」ともいわれ、平安時代以降の公家の日記や記録、幕府の公用文に使われました。
正規の漢文にはない用字や語法があり、一見すると漢文に見えますが、本場中国(唐)の人は読めません。
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