
戦乱続きの世の中、歴史書どころじゃない
『天皇記』や『国記』は焼けてしまいましたが、すぐに新しいものを、ということはできませんでした。「乙巳の変」のあとに「大化の改新」や「白村江の戦い」が続いて、それどころではなかったのです。
「白村江の戦い」で、日本は大陸の大国「唐」に喧嘩を売ったことになります。敗戦したとはいえ、唐からの侵略を恐れた中大兄皇子は都を内陸の近江大津宮(滋賀県大津市)に遷都して、そこで即位して天智天皇となりました。そして、国防に備えるために各地の要所に水城や山城といった防御施設を建設して防人を配備したのです。
ホントに歴史書どころじゃないって感じですね。
その後に天智天皇が崩御すると、後継をめぐって天智天皇の弟・大海人皇子(おおあまのみこ)と、天智天皇の息子・大友皇子の間で争いが起こりました。これが「壬申の乱」です。
「壬申の乱」で勝利したのは弟の大海人皇子でした。乱の翌年、大海人皇子は即位して「天武天皇」となります。
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天武天皇、歴史書を発注

天武天皇の代になってようやく歴史書をつくるよう命令が下されます。
ところで、先述したとおり、天武天皇は「壬申の乱」で勝利して即位した天皇ですね。当時の皇位継承権は天皇の息子よりも、天皇の兄弟や配偶者の方が先でしたから、「壬申の乱」に発展するまでもなく、天智天皇の後継者はもともと「弟の大海人皇子」と決まっていたのです。けれど、大友皇子が成長すると天智天皇は宗旨替えして「息子の大友皇子」を皇太子に推すようになった、という過去がありました。天智天皇は崩御する前に枕元に大海人皇子を呼び出して「やっぱり弟のおまえが継いでくれ」と言うのですが、大海人皇子はそれを辞退して奈良の吉野へと退きます。宗旨替えされた過去もあって、実の兄でもあまり信用できなくなっていたのかもしれません。
そうして、いよいよ天智天皇が崩御すると、大海人皇子が挙兵して大友皇子と戦う「壬申の乱」が起こりました。
つまり、大海人皇子こと天武天皇は、クーデターを起こして甥の大友皇子を倒し、天皇になった、ということで。そういう事情もあって、『古事記』と『日本書紀』は天武天皇の正当性を主張するために書かれたといわれています。
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大友皇子、即位していた?
天智天皇の後継者となっていた大友皇子ですが、即位していたのかどうかは謎に包まれています。
天智天皇の崩御後、大友皇子が朝廷を主宰していましたが、その期間は「壬申の乱」までの約半年と短いものでした。たとえ即位するにしても、それに関連する儀式を行えなかったことから歴代天皇とみなされなかったのです。しかし、1870年(明治3年)になって大友皇子に「弘文天皇」の追号がなされ、第39代天皇に数えられるようになりました。
ちなみに、『日本書紀』には大友皇子の即位についてはなにも書かれていません。書かれた時代が天武朝ですからね。天武天皇に不都合になりえることは書きづらかったことでしょう。
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